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其ノ弐 橋の上の人喰い鬼

其ノ弐 橋の上の人喰い鬼

「賭けるのかよ?」
 けしかけられて、正嗣は引き下がるわけにはいかなかった。
「こ……この館でいちばんの駿馬を用意してくださるなら、やってもいいですよ」
 生唾をゴクリと飲む。その音が、館の一室に響いた。宴の席はいよいよ酒臭く、そこかしこで威勢のいい罵詈雑言が飛び交っている。
 正嗣も、ほかの男たちも一様に酔っていた。
 館の主である検非違使の大尉・坂上が、上座からその様子を眺めている視線を感じる。爪の手入れをしているが、部下の動向も同時に気にかけているのに違いない。坂上はそういう才に長けている。
「お、言いやがったな? 無理すんなよ、臆病者のくせに」
 がたいのいい男が正嗣をからかったが、正嗣は顔を真っ赤にして「ほ、本当です!」と返す。
 それを見て、周りから野次がとぶ。
「そこまでにしておけ」
 坂上は、しゃがれた声を全体に轟かせた。
「この館でつまらん言い争いをするな。駿馬ならくれてやるぞ」
 男たちはとっさに座を正す。中には慌てて双六の盤を倒す奴までいる。正嗣は生真面目に頭を深く下げる。
「ありがたき幸せですが……こ、こんな馬鹿げた言い合いのために駿馬をいただくわけには……」
「逃げるのかよ?」
 男たちの中から誰かがボソリと言う。誰が言ったのかは判然とせぬが、皆酔って据わった目で正嗣を見つめている。
 きっかけは、座興で男の一人が話し始めた怪談だった。この館から下官たちが自宅に帰るのに、いつも避けている橋がある。その橋を通った者が次々行方が分からなくなっているという古い言い伝えがあったのだ。
 正嗣はその怪談を聞いて笑った。
 ──馬鹿馬鹿しい話ですよ、鬼が怖くて京が守れますかって。
 検非違使の下官たちのなかでは一番武術に優れているという自負が、正嗣にはあった。だが、その橋を恐れる者たちは、自分たちが笑われたように感じたのだろう。酔いも手伝い、むきになって言い寄った。
 ──ではお前、あの橋を通れるのだな?
 あとには引けなかった。坂上は恐らく、そんな正嗣の内心の覚悟を見抜いたのだろう。
「ついて参れ」
 坂上は、酒など一滴も飲んでいないかのようなきびきびとした動きで立ち上がった。男どもは双六も途中で放り出し、坂上のあとについていく。
 正嗣も、遅々とした足取りでその後を追いかけた。
 ほどなく坂上が厩から鍛え上げられた躯体を誇った馬を伴って現れた。普段坂上が愛用している馬だった。
 栗毛色の毛並みが、月の微かな光を浴びて輝いていた。
「このように立派な馬を……」
「お主が生きて帰るなら、何ら惜しいことはない」
 坂上の表情は分かりにくい。大いなる皮肉なのか、それとも単なる出来心なのか。
 正嗣は、渋々用意された馬に跨った。それまで自分のなかに満ちていた臆病風も、一流の馬と一体となったことで立ち消えた。
「ありがたき幸せ。必ず生きて戻ります」
 挑むような視線を送る男たちに背を向け、正嗣は坂上に黙礼すると、馬を走らせた。

  *

 乗り心地がふだんの馬とは段違いによかった。さすがは坂上様の馬だ。腰がぶれず、余計な力を入れずに乗っていられる。正嗣は少しずつ勇ましい気持ちになっていた。馬鹿げた賭けじゃないか。さあ、自分の勝ちを証明してやろう。
 やがて、くだんの橋が見えてくる。
 じつのところを言うと、正嗣自身、怪談話こそ知らなかったものの、ふだんから何とはなしに避けている橋であった。日が落ちてからこの橋に近づいたことはない。
 闇は涸れ井戸のように深く、橋の五歩先がどうなっているかも見えない。馬の脚がかかると、橋は微かな軋みを立てた。木が傷んでいるような、心もとない音だ。
「おい……壊れないだろうな」
 正嗣は馬の速度を落とし、辺りを見回した。不意にしばらく遠のいていた恐れの感情が頭をもたげる。
 この橋で人が消える……か。
 本当だろうか?
 辺りはしんと静まり返っている。人の気配はない。
 ──何を恐れている? 迷信に決まっている。
 正嗣は心を落ち着ける。
 ようやく橋の真ん中あたりまで来た。
 と、前方に赤い衣姿の女が立っている。
 ──美人ぽいな。少し遊んでやるか。
 考えてみれば、賭けに乗せられて勢いで出てきてしまったが、まだ酔いも冷めずに帰宅する気にはなれない。ちょうどいいカモだ。
 だが、さらに距離を縮めるうちに、考えが変わった。
 ──待てよ待てよ……こんなところに女が一人でいるのはおかしかないか?
 結論は分かりきっていたが、それを認めたくなかった。
 ──鬼か。
 目を伏せて馬を小走りに走らせ、女の前を通り過ぎることにした。できるだけ心を無にしつつ、いざという時の動きを頭の中に描きながら。
 すると、女の声が呼び止める。
「待って、行ってしまわれるの?」
 か細い声だ。ふだんなら喜んで振り返っている。
 だが、今は違う。正嗣は無視して走り続ける。
「マア、情ケナイ」
 声が変わった。三味線の糸がを荒々しく弾いた時にも似た不吉な声色。どうやらこれは女のそれではない。
 ──やはり鬼か……。
 馬に鞭を打つ。はじかれたようなスピードで駆け出す。
 追っ手も早い。足音はないが、馬ごと押しつぶそうとしているのが気配で分かる。粘り気のある気配が徐々に迫り、ついに首筋に息が吹きかかり、思わず振り返った。
 一つ目の赤い鬼が、思った以上に間近に迫っている。全身の毛が逆立つ。肌の燃えるような赤さは、血走った一つ目をいっそう不気味に引き立て、その下にぱっくりと開いた大口は、いざとなれば二倍三倍の大きさにも自在に広がりそうに見えた。
 鬼は、刀のように伸びた爪を正嗣めがけて振り上げる。
 鋭い風が吹き、髪が数本切れてはらりと舞った。
「あぶなっ……」
 すんでのところで首をすくめてよけ、何とか橋を渡り終える。
 鬼の気配は、橋のたもとで消えた。
 振り返ると、たもとの支柱に四つん這いに乗ってこちらを見ている。
「マァ、イイ。イズレ逢ウコトニナル」
鬼の影は、やがて闇に溶けて消えた。

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