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3分間ミステリ「空白美術館へようこそ」

 大理石製カウンターに立っている女性は、彼女自身大理石製なのではと見まがうほど白い肌とそれ以上にクリアな笑顔を輝かせ、右手で示した。

「ようこそ、楊陽作品展へ。右手をごらんください。こちらは楊氏の最新作『俯ける時』です。この作品の価値がわかるとご決断されたお客様はこちらからどうぞ」

 彼女の右手──つまり向かって左側には何もなかった。何かのわるい冗談か、さもなくば本気でこっちを騙すつもりか。だが、隣を見て唖然とした。私をこの美術館に連れてきた張本人、川辺美幸は、食い入るように虚空を凝視していたのだ。

「す、すごいわ……ねえ、あなたもそう思うでしょ?」

 何が? と問い返さなかったのは、恐れからではなく、憐れみからだった。ここまで雰囲気に飲まれる奴がいるのか。こういうのから順に詐欺に引っかかっていくのに違いない。

「これ、アルフォンス・ミュシャを凌ぐ傑作ね」

 それを言うならマルセル・デュシャンだ。便器をモチーフにしたレディメイドの代表作「泉」を想起しつつ、デュシャンの名が思い出せずミュシャと言ったのだろう。

 だが、川辺美幸は恥じらうことなく〈ミュシャ〉がいかに画期的なレディメイドを創り上げたのか説明する。私も「へえミュシャが、知らなかったわ」と相槌を打つ。

 彼女には恩義がある。今日彼女は、恋人を失った私の心の傷を癒そうとして、ここに誘ってくれたのだから。

 だから、「お決めになられましたか?」という受付嬢の質問に「はい」と答えた美幸の隣で同様に頷いた。「ではこちらへ」と通された先にはすでに何十人という客がいて、立ち並ぶ〈作品〉に見入っていた。そのどこにも〈作品〉の姿は見えない。ただ〈何もない〉が〈ある〉だけ。一つ一つに〈午後の憂鬱〉とか〈恋人たち〉とか気の利いたタイトルはつけられていても、肝心の作品は見えない。だが、人々は一様に感心してみせている。

 そのうち一人が「この作品を買う。一億だ!」とスタッフに申し出て、それを制してべつの誰かが「ならば私は一億三千万!」と張り合いだす。あまりにひどい喜劇は悲劇にみえるし、悲劇に気づかない者が多い状況は喜劇だ。私がいま見せられているのはどっちだろう? 先日味わった恋人との別離よりは喜劇的だが、事態の深刻さから言えば悲劇的だ。

「ちょっとトイレに行ってくるね」
 デュシャンにちなんで「泉に行ってくる」と言おうか迷ったが、美幸がそのような言葉遊びを理解するとも思えず、私は直接的な修辞でその場を離れた。 
 
 実際にトイレに用があったわけではないが、笑い転げる場所が必要だった。ひとまず受付に戻って尋ねようと思っていると、受付嬢がまた右手を上げていた。
「この作品の価値がわかるお客様はこちらからどうぞ」
 そこにいた新たな客たちが移動し始める。私がじっとその場に残っていると、彼女がそれを見て、右手を下ろし、左手を上げ、「では、価値のわからない方は左手へ」と言った。
 向かって右側への案内もあったのか。興味がわき、右側へと進んだ。階段を上がり二階に辿り着くと、さっきほどではないが数名の客がたむろして膝をついて床を凝視している。見れば、床がマジックガラスで、階下が見えるようになっている。その手前には作品タイトルを示す札が。作品名は〈空白に群がる人々〉。空白をアートと信じ込んだ愚かな群衆を嗤う風刺空間アートとなっている。皆「面白い試みだ」なんてしたり顔で言っている。

 だが、私はその態度にも乗れない。先程まで吹き出したかったのに、ここにも同化できずにいる。そして思う。そこにアートがあると信じる人との間に、アートはあるんじゃないの? 

 たとえば、私が亡くなった恋人をまだそこにいると信じているように──。
 

 建物の三階には二台のスクリーンがある。一つは一階の〈空白に群がる人々〉を、もう一つは二階の〈風刺アートに悦に入る人々〉を映し出している。ここに入れるのは、楊陽作品の既オーナーのみ。彼らの目は、二階の客から距離を置く一人の女に釘付けだった。

「あのどちらの組にも入らず一歩引いている女性。彼女と群衆との空白こそ本物では?」
 オーナーの一人の発言に、フロアの真ん中にいる楊氏はにこにこと頷いた。
「あなたがそう思うのならば。ではタイトルは〈孤独〉でいかがでしょうか」
 三階にいるスペシャルオーナーたちが、満足げに拍手をした。

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