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短篇小説「傘とフラミンゴ」全文公開

 それは、まだ僕がどんな人だって救うことができると信じていた頃の話だ。

 過去十年でもっとも雨の多い夏だった。その頃僕は、板橋区のとある小さな動物園で飼育係のアルバイトをしていた。
 いや、これは正確な言い方ではない。厳密に言うならば、それはある事業開発のためのアルバイトだった。僕が所属している戸山大学理工学部でその頃、秘密裡に行われていたのがプティクシアンという物質の研究だった。

 21世紀初頭、南アフリカに、野生動物保護員の業務に当たっていたジェロームという、あらゆる動物の言語を理解できる男がいた。だが、ある時、必要以上にゴリラに近づきすぎ、それゆえにゴリラに殴り殺された。
 彼の死後、脳科学者たちによって解剖が行なわれ、その脳内にセロトニンと結合している妙な物質が発見された。それはセロトニン同様、アミン系統物質であったが、その役割はなかなか容易には理解されなかった。
 だが、やがて幾度となく行われた動物実験の結果、非言語コミュニケーションの言語化を脳内で促進させる物質であることがわかってきた。
 それが、プティクシアンだ。

 M教授は、僕にそこのところの理論をわかりやすく説明してくれた。
「たとえば私が笑いながら首を横に振る。すると君の中で〈ありがとう、だが遠慮するよ〉という風に言語化される。逆に僕が渋い顔で頷いたら〈仕方ない。いやだけど引き受けよう〉といった感じになる。人間はこのように非言語コミュニケーションを暗黙のうちに理解する。ただし、その理解の仕方は通常非言語のまま概念化されて理解されるのだが、このプティクシアンという物質が媒介することで極めて高度に言語化されるようなんだ」

 それから、M教授は一匹のネズミを僕の前に連れてきた。背中に何か小さなチップのようなものが張り付けられていた。
「あのチップにはミクロレベルの針がついていて、そこから定期的にプティクシアンが注入されるようになっている」
 そのネズミにM教授はにっこり笑って見せた。するとネズミは後ろ足だけで立ち上がってみせた。ネズミは次に僕の顔を見た。ネズミが苦手な僕は、こっちに来ないでほしい、と内心で思っていた。すると、ネズミは後方へ下がり机の落ちるぎりぎりの際まで下がった。
「君に嫌われたと思ったようだ」
 恐らく僕はその瞬間、顔を引きつらせ、眉間に皺も寄せたかも知れない。
プティクシアンによる非言語コミュニケーションの言語化の確認は、現在のところネズミから人間への一方的な調査しか行われていない。まだ人間に投与する段階にはない、というのが研究所の一般見解だった。
「だが、このネズミのイギトは現在、犬、猫、フクロウ、カラスといった動物の表情を脳内で言語化している。もちろん人間の言語ではなくネズミ語だがね。今後、脳内のプティクシアンの数値が向上すれば、それに伴ってこの能力はさらに上がるはずだ。しかし、問題が一つ。ネズミは成功したが、猫、犬に関してはうまくいかなかった。爬虫類に至っては餌の中に混ぜて摂取させた結果即死してしまった。このようにプティクシアンが脳内で繁殖可能な動物はごくわずかなようだ。それゆえ、異なる動物の双方に投与してどのようにコミュニケーションが成立するかまでは確認できていない」
「人間はどうですか? ジェロームは人間だったわけですし……」
「考えてもみたまえ。彼がどうやってプティクシアンを増殖させたのか、それどころか、まずこの物質がいかにして人間の脳に適合したのか誰も知らないんだ。もしもジェロームが特殊な人間だったらどうする?」
「それは──」
 特殊な人間というのはどこでもいる。そもそも、プティクシアンなんて物質は通常持ち合わせていないわけで、そんなものが脳内にあり動物と話せた時点で相当例外的な人間ではある。
「さまざまな環境が彼のような人間を成立させたと考えれば、容易に人間に適用することはできないんだよ」
「でも、試してみない手はないですよ。何なら僕で試すなんてどうでしょう?」
「いやしかしだな……」
 M博士の反応が渋いばかりではないことを、僕は見抜いていた。

 1週間後、僕は板橋区の小さな動物園で働くことになった。

 従業員は僕を含めて三人。それで十分足りるほどの動物しかそこにはいなかった。シマの粗いシマウマが一頭、クチバシの折れ曲がったペンギンが一羽、小さな象が一頭、サルと鳥が数種類、それからヤギと羊が八匹。ヤギは毎日無表情に不毛な喧嘩を繰り広げ、すっかりみんなくたびれた顔をしていたし、羊にいたっては三日に一度顔の向きを変える程度の動きしか見せなかった。

 僕が担当を任されたのは、主に鳥とサルのコーナーだった。三種類のサルたちは、皆よく吼え、そして少し欲求不満気味だった。彼らは、僕を見ると決まって糞を投げつけ、手を叩いて喜んだ。でも糞がまともに当たったのは初日だけ。あとは僕もうまくよけ、そのうちそれは単なる儀礼的なお遊びとなった。一番の厄介者はクジャクだった。その雄のクジャクは、自分の羽を誇らしげに広げるときはいつでも誰かに褒めてもらいたがった。そして、観客が羽を見て何の反応も示さないと、その日は一日食欲がなく、パフォーマンスもほとんどしなかった。したがって僕は客が帰ったあと、もっぱら彼を励まさなくてはならなかった。

「放っておけよ。死にはしないさ」
 クジャクの横の檻に入れられているフラワーは、そう言って楽しげに踊っていた。そう、バイトを始めてすぐに、僕はこのフラワーの背中に、プティクシアンを定期的に流すチップを装着させ、同時に僕の背中にも同じものをつけたのだ。
 動物園のすべての動物で適応性を試験した結果、フラワーにだけ適性があった。なぜフラミンゴだったのか? それはわからない。とにかく、フラミンゴのフラワーには、プティクシアンによって非言語コミュニケーションを言語化する適性があった。理由はどうあれ、まったくゼロで終るよりよほど喜ばしいことだった。

 フラワーはアフリカからやってきたフラミンゴだった。もちろん、アフリカから直輸入するようなツテはこの動物園にはない。フラワーは最初、都心の大きな動物園にいた。ところが、ここのフラミンゴたちが、こぞってタチが悪かった。
「あいつら、僕の顔見るとクチバシでつついてくるのさ。アフリカの空の下じゃみんな仲良くやっていたって言うのに、土地が変わった途端に性格まで変わっちまったんだ」
「ひどい話だ」
 僕はアーモンドチョコレートをつまみながら相槌を打った。最初のうちはフラミンゴと自分が会話を交わしていることに奇妙な感覚が伴ったし、夜にはフラミンゴに囲まれる夢にうなされたが、バイトを始めて10日もすると、こうした会話にも慣れっこになった。
「そう。ひどい話さ。でも、君たちの世界じゃ、こんなのよくあることじゃない?」
「確かに、タチが悪いのはいっぱいいる。でも幸い、僕らにはクチバシがない」
「クチバシがないぶん、タチが悪いのさ」
 その大きな動物園の館長が、見かねてフラワーを別の動物園に移すことにした。それが、この小さな動物園だったというわけだ。
「移送された日のことは今でも覚えてるよ。僕だけトラックに詰まれて、ここへやってきたんだ。着いてもどうせ似たような奴らがいるんだろうと思っていたら、僕以外誰もいないって知ってびっくりしたよ。生まれてこの方、自分以外にフラミンゴがいない世界なんて経験したことがなかったからね。君、経験ある?」
 僕は少し考えてから、ないと答えた。
「一度経験するといいよ。青天の霹靂ってやつさ」
 
 フラワーはとても頭の良いフラミンゴだった。
 すべてのフラミンゴが頭がよいのかわからないが、何にせよ、フラワーは僕にはほかの動物とは比べるべくもない選ばれた存在に思えた。もしかしたら、フラワーはフラミンゴの中でも特別な存在で、このようにプティクシアンに適性のあった僕もまた人間の中でも特別な存在でしかないのかも知れない。今は実験段階であり、特殊か普遍かはまだいくつもの実験を踏まえねば明らかにはならないだろう。

 しかしとにかく、僕らがほかのあらゆる関係と違う点があったとすれば、それは両者に精神的な歩み寄りがあったということだろう。フラワーは、自分以外にフラミンゴが存在しないという初めての世界で、僕を唯一の理解者に選んだ。僕もまた彼の美しい薄ピンクのほっそりとした肢体に惹かれ、餌のやり方などでその情愛ぶりを示して見せたのだ。
 僕らは互いに少しずつ心的な距離を縮めていった。
 フラワーは好き嫌いせずに何でもよく食べ、そして僕の話を聞きたがった。僕は彼に大学の授業の話だとか、僕の周りの人間のおかしな癖なんかについて語って聞かせた。
 
 ところで、フラワーには苦手なものがあった。
「雨が嫌いなフラミンゴなんか聞いたこともない」
 僕は、昼休みにライスボウルを頬張りながら言った。
「いろんなフラミンゴがいるさ。立っているのが嫌いな奴だっていれば、青いインクが好きな奴もいる」
「青いインク?」
「たとえばの話さ」
 フラワーのいた檻には屋根はなく、館長もフラミンゴが雨宿りを必要とするとは少しも思っていないようだった。館長と言うのは、四十手前のふくよかな女性で、従業員は彼女が誰かと結婚したくてうずうずしていることを陰で笑っていた。
 館長は、いつもぴったりとしたピンクのスーツに身を包み、ゆったりとした足取りでよく園内を観察して周った。彼女が近付いてくると、フラワーが僕に囁いたものだ。
「見ろ、奴がきたよ。あんな匂いがする人間見たことないよ」
「あれは香水って言うんだ」
「何でもいいけど、とにかく臭いよ」
 館長は基本的には人格者であり、こちらの仕事内容にけちをつけたりするタイプではなかったが、動物好きというわけでもないらしかった。その証拠に、檻の中の動物には大して目もくれなかった。
 そんなわけだから、いくらフラワーが雨を嫌ったところで、屋根をつけてもらえる見込みはなかった。この動物園の運営自体、利潤があるのかどうかも怪しいのに、動物の住処にかける費用などあるはずもなかった。
「せめてカサがあるといいんだけれど」
 とある日、フラワーは言った。
「傘だって?」
「うん。前の動物園では、雨の日にもやってくるお客さんがいてね、その人がなんだか変な鳥をいつも手に持っていたのさ。仲間の一人に聞いたら、こっちをつつきながら『ありゃ、カサだ』って言ったんだ。鳥のくせに人間にくっついてじっとしているんだから大したものだよ。ああいう肝の据わった鳥とならウマが合うのかも」
「君は、傘が欲しいの?」
「うん。それにきれいじゃないか。僕が見たのは淡いグリーンのカサだったけど、あんな美しい色の鳥は今まで見たこともないよ」
僕は、横目でクジャクの檻を見ながら尋ねた。
「クジャクは?」
「シンプル・イズ・ザ・ベスト」
「なるほど。それなら傘に敵うものはいない。でも、館長が許可してくれるとは考えにくいな」
「そうだね」
 フラワーは館長の姿を想像するように宙を見やり、それからハアとため息をついた。
「諦めるしかなさそうだ。餌代だって余計にかかっちゃうしね」
 傘が鳥ではないことを伝える時期は、とうに逸していた。
 黙っている僕の横で、フラワーは勝手に気を取り直した。
「まあいいさ。そのうち慣れる。雨を好きになる努力をするよ」
 うん、と僕は頷いた。フラワーのピンク色の肢体は、心なしか少しばかり弱々しくなり、曇天のグレーに薄められようとしているかに見えた。
「それじゃあ、僕も苦手なものを好きになる努力をしよう」
「君、苦手なものなんてあるの?」
 僕はニッと笑って見せた。
 ちょうどその時、僕とフラワーの鼻を例の匂いが捉えた。「苦手なもの」と言ったとき、僕の頭にはこの匂いの持ち主の強烈なピンクのスーツが浮かんでいた。

 翌日は雨に見舞われた。かなり激しい雨で、動物園は開店休業という状態だった。僕は、動物の健康状態をチェックするために檻を一つ一つ見て回り、最後にフラワーの前にやってきた。フラワーは忌々しそうに空を見上げているところだった。
「嫌いなものを好きになるのがこんなに難しいなんて、僕って何て小さな奴なんだろうね」
「誰にだって難しいさ」
「君のほうはうまくいきそうかい?」
「神のみぞ知る、だよ」
 僕らは大体こんな会話を交わした。当たり前のことだが、このときの僕にはこれから先に起こることが予測できなかった。フラワーだって同じだったろう。いくら動物的嗅覚をもってしても、予測不能な事態というのは起こりうるものだ。
 しみったれた会話の後、それを和らげるように僕はジョークを一つか二つ言ってフラワーの檻から離れ、事務室へと向かった。僕はそこで作業着を脱ぎ、温かいコーヒーを一杯淹れた。他の従業員たちは早々に引き上げてしまっており、事務室はがらんとしていた。しばらくして、ハイヒールが廊下をカツカツと叩く音が響き渡った。館長だ。
事務室のドアを勢いよく開くと、館長は僕を見つけた。彼女は僕を見つけるためにやってきたのだった。いつものことだ。館長はたびたび僕をご飯に誘うのだが、僕は一度もそれに応じたことがなかった。
しかし、この日の僕は違った。
「館長、まだいらしてたんですね」
「それは、その、もちろんよ。忙しいもの、ええ」
 館長はそう言って長い髪をかき上げた。よく見れば彼女の肌は肌理がこまかく、化粧品の販売員にでもなれそうなほど白くて美しかった。館長の中にあるアンバランスな自尊心やら理性やらが、その瞬間僕にはとても好ましいものに感じられた。
 どんな人間にも好ましい一面はある。その一面を主役と考え、他の欠点をエキストラとして見れば、嫌な人間というのは存在しなくなるものだ。
 僕は初めて、自分から積極的に彼女に話しかけ、つまらないジョークを言い、彼女の着ていたピンクのスーツを褒めた。館長は、驚くほどに恥じらい、顔を真っ赤にしながら、洋服のブランドの自慢を延々と続けた。僕は話が途切れるのを待ってから、彼女を食事に誘った。館長は身をよじらせ、それから「今日は、本当は残業があるんだけど」とか何とか呟き、結局「いいわよ」と言った。
 館長の運転は、彼女の外見とは正反対に非常に淡白だった。スピードを出しすぎることもなく、急停車もせず、助手席の僕にまったく負担をかけないスマートな運転ぶりだった。やがて車はするりとしたUターンで行政道路沿いのイタリアレストランの駐車場に止まった。
 館長は、そのレストランに行きつけているらしく、慣れた足取りで僕を先導した。僕は、香水のむせ返る海と化した車内から抜け出せたことに心底感謝しながら、彼女の後に続いた。
 料理が出てくるまでの間、僕らは動物園の動物たちの話をした。館長は、まだ生まれたての子馬を自分のミスで死なせてしまったことがあると言った。
「それ以来、私は飼育には関わらないようにしているのよ」
 なるほど、と僕は相槌を打った。
「でも、動物は好きよ」
「僕もです。いつも通勤電車でおかしな人たちを観察しているくらいに」
 館長は、一拍置いてから笑った。彼女は食前酒で早くもほろ酔いになり、肌理の細かい皮膚はスーツと同じ色に染まっていた。
 そろそろいい頃合だ、と僕は考え、話を切り出した。
「実はフラワーのことなんですけど」
「フラワー? ええと、ああ、フラワーね、フラミンゴの」
「そうです。フラミンゴのフラワー」
「フラミンゴのフラワーがどうかしたの?」
「どうも雨が嫌いなようなんです」
「そんなことあるはずないわ」
 館長は、声を立てて笑った。
「でも本当なんですよ」
「あなた、フラミンゴの生態を知らないわけじゃないでしょ?」
 もちろん、と僕は答えて、フラミンゴについて知りうる限りの知識を述べた。
「でも、どんな世界にも例外はつきものでしょう? 楽器の弾けない作曲家もいれば、いじけたクジャクだっている。フラワーは雨が嫌いなフラミンゴなんですよ」
 僕は、自分が不必要に相手を説き伏せる口調になっていることに気付いた。でも、このときの僕にはどうしても自分を止めることができなかった。
 館長の表情に曇りが見えた。
「それで?」
「だからと言って、彼だけ特別待遇で屋根を取り付けるってわけにもいきません。そうでしょう?」
「そうね」
 幾分酔いから醒めたような調子で、館長は合いの手を入れた。これは、決してよい兆候ではなかったのだが、館長のことをよく知らない僕は、そんな兆候に気付けなかった。
「そこで、名案があります。フラワーのために、傘を一本僕からプレゼントしようと思います。網のどかに引っ掛けてやれば、丁度いい雨宿りスポットになるし、第一安上がりです」
「フラミンゴに傘を?」
「そうです。フラミンゴに傘です」
 館長は、しばらくの間じっと僕の顔を見つめていた。それは、女性的なものの一切が消えた管理者の目だった。あるいは、もしかしたら、それもまた女性特有の眼差しだったのかもしれない。女の心が石のように冷えたときに特有の。
「そう……。つまり、あなたが今日私を食事に誘ったのは、その、フラミンゴに傘を与える許可を得るためだったというわけね?」
「いいえ、違います。傘の話は、ただのトピックです」
 僕はなるべく平静を装って答えた。しかし、館長には、もはやこちらの発言に耳を傾ける気はないらしかった。彼女はヒステリックな笑い声を上げ、ワインを二、三杯煽ってから、「別の話をしましょう」と言った。でも、もう僕らには何も話すことなんか残されていなかった。
 お陰で晩餐は一時間とかからず幕を閉じた。
 ディナーが終わる頃には、僕ははっきりと認めることができた。僕は手順か、あるいは手段か、はたまたその両方を間違えたのだと。
 
 翌日は、仕事が休みだった。普段なら女の子と映画に行くとか、大学の講義に出るとか、それなりに忙しなく動くのだが、その日はどうにもからだが動かなかった。僕は野方のアパートの一室で、買ったばかりのソファベッドに寝そべり、自分のしでかした失敗の大きさを、想像の中で縮めたり、地球規模に膨らませたりしていた。

 夕方になると、幸いなことにガールフレンドから花火を見たいから一緒に行かないかという誘いの電話が入った。電話を切った僕は、シャワーを浴び、いつもより時間をかけて髭を剃った。からだをしっかりと拭いてから新しいシャツを着て、三日間溜めていた食器を片付けた。水がシンクに当たるときのボボッという大げさな音をなるべくさせないように気をつけて洗った。その間、オーディオからは、スガシカオがかすれた声で歌い続けていた。四周目の「二人の影」の途中でようやく洗い終えることができた。
 待ち合わせには二十分遅れてしまった。そのことでガールフレンドは不平を言い、僕は五回謝った挙句かき氷をおごらされた。
 花火は、予想していたよりもはるかに大きくて迫力があった。ガールフレンドはとても興奮していて、花火が打ち上げられるたびに僕の肩を団扇で叩いていた。でもその日の僕にはそれ以上の感慨を抱くことができなかった。花火は消えるが、僕の失敗はそう簡単には消えない。それが唯一の教訓のようだった。ガールフレンドは焼きそばと杏飴を食べ、僕はビールばかりをちびちびとまずそうに飲んだ。彼女は僕の隣にいたけれど、僕は彼女の隣にはいなかった。一日の終わりに彼女は僕に聞いた。
「ねえ、浮気してるの?」
 いいや、と僕は正直に答えた。僕はその頃浮気をしていなかった。
「私の目をよく見て」と彼女は言った。彼女は、嘘をつく人間は誰でも目をそらすと思い込んでいた。僕は彼女の顔がドーナッツになるほどじっと見つめた。「嘘ではなさそうね」と彼女は呟き、そっぽを向いた。
「今日はどうしちゃったのかしら?」
「仕事で疲れたのさ」
「カンガルーの世話?」
「うちの動物園にはカンガルーはいないよ」
 嘘みたい、と彼女は言った。彼女は上野動物園のような大きな動物園にしか行ったことがなかったし、小さな動物園の存在意義も理解できないようだった。
 ちょうど橋にさしかかったとき、彼女が空を見上げながら言った。
「ときどき自分がとても小さい生き物になったように感じることがあるの。二十日鼠みたいな、本当にとても小さな生き物になった感じよ。そして、誰も仲間のいないところで、へんてこな生き物に飼育されるの。私、小さい動物園って聞くと、いつもそのことを考えてしまうの。きっとそこにいつか私も並べられる日が来るんだって」
 僕は、遠くのほうで屋形船の光が揺れているのを眺めた。川は沈黙さえ飲み込んで、静かに流れ続けていた。

 翌朝は、再びひどい雨だった。フラワーはさぞや憂鬱な顔をしているに違いない。そんなことを考えながら、朝食の後、僕は動物園へ向かった。動物園に着くと、何かが普段と決定的に違っていた。気配のような薄い皮膜の質感が違っていた。動物園では、生き物が生まれたり死んだりするだけで、その空気の波動がすべての動物に伝わってしまうのだ。何かが起こったのだ、と僕は思った。僕はフラワーの檻へと走った。

 フラワーの檻は、もぬけの殻だった。餌の入れてあったバケツはまだそのままになっていたが、フラワーの姿はどこにも見えなかった。
 僕は一人の飼育係を捕まえてフラワーのことを尋ねた。普段あまり話したことのないニキビ面の男は、少し訛りのある口調で、昨日のうちに大きな動物園に引き取られていったのだと答えた。
「前の動物園に戻されたのかな」
「違う。また別んとこ」
「別のところ? どこ?」
 彼は首を傾げた。隣の小屋では、クジャクが何やら落ち着かない様子で動き回っていた。僕は彼に礼を言い、管理セクターへと向かった。管理セクターの一番奥には館長室があり、そこに館長はいた。
ドアを二回ノックすると、中から館長の声が聞こえてきた。
「どうぞ」
 僕は中に入って、ドアを閉めた。
「あら、めずらしい。あなたなの」
 館長は、精一杯クールな口調で言った。
「フラワーをどこへやったんです?」
「人聞きの悪いこと、言わないでちょうだい。あなたには言っていなかったけれど、これは以前から決まっていたことなのよ。フラミンゴはやはり集団で生きていくのが幸せなの。鳥類学者の意見を取り入れることにして、悲しいことだけれどフラワーを大きな動物園に移すことにしたわけ。このあいだ教えなくて悪かったわ」
「どこの動物園に移したんですか?」
「傘でも届ける気?」
 館長はそう言ってヒステリックに笑ったが、僕とは目を合わせなかった。
「あ、それから、背中に妙なチップがついていたから、外しておいたわよ。まさか、あなたがつけたわけじゃないわよね?」
 彼女の手に収まったチップには、シリアルナンバーとともにうちの研究所の名前が記されている。僕はそのチップを素早く彼女の手から乱雑に奪い取った。館長に怒鳴られるのではないかと身構えたが、彼女は黙っていた。

 彼女は僕を恐れているようだった。後ろめたいのだ。
 僕は少しだけ彼女のことを気の毒に思った。フラワーの移籍が以前から決まっていたというのは嘘だろう。彼女は一昨日のディナーの後にフラワーをこの動物園から追い出すことに決めたのに違いない。
 館長は僕に責められるべきだったが、僕には彼女を責める権利がなかった。僕はそれ以上の追及を諦めて館長室を後にした。
 管理セクターから出ると、雨はいっそうひどくなっていた。従業員は雨が降っていても傘は差さない。フードを被って仕事をし、作業後のシャワーを楽しみにしているのだ。僕はフードを被って裏ゲートへと向かった。裏ゲートは、関係者だけが出入りするゲートで、業者もここから出入りしていた。僕は守衛のおじいさんにあいさつをして、昨日の来訪者記録を見せてもらえないかと尋ねた。おじいさんは、どうぞどうぞと言って一週間分の記録とコーヒーを持ってきてくれた。
「そんなに濡れていると、人間なんてまるでカワウソだね」
 おじいさんはそんなことを言って楽しそうに笑った。カワウソです、と僕は答えた。記録の中から、普段は出入りのない運輸業者の名前を発見すると、僕はその業者名と電話番号、それと運転者名をメモした。それから、守衛室の脇にある公衆電話でその業者に電話をかけた。コールセンターの女の子が感じのよい応対をしてくれたので、僕の方でもスムーズにぺらぺらと嘘を並べることができた。「実はうちの動物園から動物を移送してもらったんだけど、動物の数に間違いがあったかもしれないんだ。昨日の運転手さんに大至急確認したいんだけど……」
 女の子は少々お待ちくださいと言って保留音を二十秒ほど流した後、運転者名を確認した上で携帯電話の番号を教えてくれた。番号を教えた後、通常は教えてはいけないことになっていますと付け加えるのを忘れなかった。僕は礼を述べて電話を切った。
 そして、運転手の番号にかけた。長い呼び出し音の末に、少し荒っぽい調子の男の声が電話口に出た。僕はこの動物園の名前を告げた。しばらくしてから、ああはいはい、と男は言った。
「実は昨日運んでもらった動物が間違っていたかも知れなくてね」と僕は言った。
「なんだって? いや、そんなはずはないっすよ。先方でもちゃんと中身は確認してもらってますから」
「本当に? もしかして、別の動物園に届けたりしてない?」
「いやいや、ちゃんと届けましたとも」
 ちょっと待ってくださいよ、と彼は言ってがさごそと伝票を確認し始めた。そして、あったあったと言って届けた先の動物園の名前を言った。それは、都内の有名な動物園だった。
「ね? 間違いないでしょ?」
「そのようだね。僕の勘違いかな」
「気にしっこなしです。間違いなんか誰にでもある」 
 電話を切った後、僕は大きな溜め息をついた。
 僕は、その足で先輩の飼育係のところへ向かった。体調が優れないことを理由に早退したいと言うと、先輩はしばらく僕の顔を覗き込んでから、本当にだるそうだな、と言った。
「ゆっくり家で休んだほうがいい」
 そうする、と僕は答えた。
 
 駅へ着くと、向かいにあるデパートに入って淡いグリーンの傘を買った。店員が、すぐ使うかと尋ねたので、すぐには使わないと答えると、妙な顔をされた。支払いを済ませてにこりと会釈をしてから駅へ向かった。
 電車を乗り継いで約一時間後、やっとのことで目的の動物園に到着した。四回も乗り換えたわりには早い到着だった。受付でチケットを買うとき、雨天のために屋内にいて見られない動物もいるが良いのかと聞かれた。
「フラミンゴは屋内に入れたりしていないでしょ?」
「ええ、フラミンゴですから」
「それなら大丈夫」
 僕はチケットと園内地図をもらい、入場した。地図を開き、フラミンゴのコーナーを確認した。フラミンゴのコーナーは比較的入り口近くにあった。僕は現在地と方角を確認してから歩き始めた。
 そして、頭の中で漠然とフラワーとどんな話をしようかと考えていた。どんな風に話しかけ、どんな風に自分の失敗を打ち明け、どんな風に謝ったらいいのだろう? すべてはもう起こってしまったことなのだ。それに、フラワーはすでにプティクシアンのチップを外されている。僕らはもう会話を交わすことなんてできないのだ。そのことに気づいて、急に肩が重たくなった。自分の持っている傘が途端に馬鹿らしい滑稽な代物のように思えてきた。
 できることなら引き返したいとさえ、しまいには思い始めていた。そうしなかったのは、単純にフラワーにもう一度会いたかったからだ。言い訳をするためでも、謝るためでもなく、ただ会って話がしたかったからだった。
 そうして、僕はフラミンゴのコーナーに辿り着いた。けれど、その檻の向こう側に広がっている世界に僕は愕然とした。檻の中には三十羽近いフラミンゴが水辺にぎっしりと身を寄せていた。アフリカの何万分の一であれ、その空間にはアフリカの大地のもつ野性味が漂っていた。一人ひとりに名前などつけられるはずのない無垢な野生の世界。僕は、あまりのイメージの違いに言葉を失ってしまった。しばらくぼうっとして、美しいピンクの鳥の群れを眺めていたが、どのフラミンゴもフラワーに似ていたし、どのフラミンゴもフラワーのように僕に語りかけてはくれなかった。
 それでも一縷の希望は捨てなかった。僕はまだプティクシアンが流れるチップが装着している。研究所のネズミが僕の表情を読んだように、僕にもフラミンゴの非言語コミュニケーションを言語化する能力が残されているはずだ。
 僕は大きな声でフラワーの名を呼んだ。
 何匹かのフラミンゴが同時に顔を上げた。でもどのフラミンゴがフラワーなのかはやっぱり判別できなかった。あまりに読み取るべき情報が多すぎて、プティクシアンは信号を一つ一つ判別できないようだった。
 僕は、全部で三度試してみた。しかし、そのたびに色んなフラミンゴが顔を上げるので、とうとう僕は、この方法では見分けられないと判断した。フラワーが僕と話ができたのは、フラワー以外にフラミンゴがいないという特殊な状況下だったからなのだ。
 他に分かり合えるフラミンゴがいれば、プティクシアンを使っていようと、人間とわざわざ話す必要などなくなる。フラワーは僕と共有していた「ことば」をあっさり忘れ去ってしまったのに違いない。それはそれで仕方のないことだ、と僕は思った。
 
 でも心の一方ではフラワーを信じたい気持ちがまだ残っていた。たとえ僕らの「ことば」を捨て去ってしまったとしても、分かり合った心は残っているはずだ。僕はそう信じたかった。

 しかし、ピンクの一群を目の前にすると、そんな確信も儚いものに思えてきた。自分の友だちを見分けられないのは僕のほうだった。絶望的な溜め息をつき、惨めな気持ちで傘を開いた。僕はこの中のどこかにいるはずのフラワーに見えるように、傘を掲げて見せた。淡いグリーンが、グレーの空に無言の抗議をした。

 僕はとうとう諦めて帰ることに決めた。雨はまだ降り続けていたが、僕にはもう傘を差している気力がなくなってしまっていた。

 そのときだった。

 一匹のフラミンゴが僕の目を捉えた。
 
 思い思いに遊び回っているフラミンゴたちのなかで、一匹だけこちらを見上げているフラミンゴがいた。淡いピンク色の美しい肢体をしたそのフラミンゴは、ぴんとまっすぐに片足で立っていた。僕がそっちのほうに気付くと、そのフラミンゴは両方の羽をゆっくりと広げ、広げたところでぴたりと静止して見せた。それは、丁度僕が開いていた傘の形を思わせた。
 僕は思わず笑った。そのフラミンゴは、そんな僕に構うことなく、そのポーズを維持していた。それだけで僕は満足だった。もはや、これ以上ここにいる理由はなかった。僕は、傘を差したままフラミンゴの檻から離れ、動物園の出口へと向かった。その間、僕は傘に落ちる雨粒の騒音を聞かなかった。自分が歩いている感覚さえなかった。ただ、自分の鼓動だけがいつまでも鳴り響いていた。

 家に帰ると、チップを外してテーブルに置き、ベッドにもぐりこんだ。体中に寒気が走り、額は燃えるように熱かった。僕はそのまま意識を失った。そして、途方もなく長い長い悪夢を見た。次に目覚めたのは四日後のことだった。目覚めてすぐに、僕は動物園に電話をかけ、仕事を辞めると告げた。

 電話を切った後、僕は初めて自分が四日間何も口にしていないことに気が付いた。それから、家に常備していた缶詰のミートソースを使って、三人前のミートスパゲティを作り、それをすべてたいらげた。フォークを置く頃には、この何日かに起こったことの何一つうまく思い出せなくなっていた。午後になり、ガールフレンドから電話がかかってきた。
「旅行にでも行ったのかと思ったわ」
「そう、旅行に出かけていたんだ。僕以外誰も人間のいない世界に」
 彼女はしばらく考える風にして黙った。
「とても心配していたのよ」
「お詫びに、これからステーキをご馳走するよ。なんだかとても腹ペコなんだ」

 M教授は、僕のレポートを読むと溜息をついた。
「やはり、人間に装着するのは時期尚早か。しかしフラミンゴに適性があるとはね。すばらしい。今度、研究所でフラミンゴを五羽仕入れてみる」
「でも、そのフラミンゴはフラワーじゃありませんよ」
「だろうね。でもそれはどうでもいいことさ。これは実験なんだからね」
 その言葉を聞いた時、僕はここが自分のいるべき世界でないことを実感した。
 それから二年後、僕は大学を卒業し、研究から離れ、まったく別の業種に就職して別の街へと引っ越した。
 フラワーのいる動物園へは、あれ以来一度も足を運んでいない。
 僕は雨の降る日にはフラワーのことを思い出す。灰色の空を恨めし気に見上げる一羽のフラミンゴを。

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