怪談「しめさば」
死んだ兄の恋人の香苗に聞いた話である。
故郷を離れて3年、兄はずっと真面目な銀行員だったようだ。毎朝8時に出勤し、6時には帰宅し、きまってしめ鯖を食べたがったという。しめ鯖は幼い頃からの兄の好物だった。うちは品数が多いから、その中の一品ではあったが、兄は毎度それを好んでいた記憶がある。
考えてみれば、なぜ昔からしめ鯖がそんなに好きだったのかよくわからない。一度決めたらやたらと一つのものを好く傾向のある兄だから、毎日食べると決めてそれを実行していただけのことなのだろうが、何も知らなければ奇妙には映るだろう。
当初、香苗は帰ってくるたびにしめ鯖を食べる兄が怖かったようだ。それでも、優しいところの多い兄にはおおむね満足していたらしい。帰宅後の兄は家事もできるかぎりこなしていたようだ。洗濯物を畳み、たまには料理もし、手が空けば部屋のあちこちを掃除して回った。
ただ、異様なことが昨年の暮れに一度起こった。その日、スーパーはおせち料理の準備品ばかり販売していた。しめ鯖もなぜか日頃のものと違って数百円値の張るものだった。今日くらいしめ鯖でなくてもよかろうと、香苗は「ままかり」を買って帰った。すると、兄はえらく怒って不機嫌になったのだという。
「でも変なのはその時一度きりで、それからは関係はむしろ良くなったんです」
その後、香苗に対する態度を改め、兄は自分から昨日はすまなかったと詫びてきたという。そして、詫びとしてこれからはしめ鯖はもう食べないとまで宣言した。そこまでしてくれなくていい、と香苗は止めたが、一度決めたら意見を換えない兄のこと、その後は本当にしめ鯖を食べなくなったのだという。
それからはさまざまな料理を自分で作っては振舞ってくれるようになった。表情も明るくなり、会社の愚痴や昔の話もよくしてくれた。
「それまではずっと殻に閉じこもったようなところのある人だったんですけど、怒りを露わにしてしまったことを反省してからは、自分の弱さをさらけ出してくれるようになりまして」
そんな風に幸せな日々がしばらく続いた。それが、いまから二カ月前、兄に一週間の大阪出張が入った。少なくとも、兄は香苗にそう話した。それも、奇妙なことに電話で「このまま大阪に行くから」と言われたらしい。
ところが、8日目の夜になっても兄が戻らない。スマホは東京本社のオフィスに置きっぱなしらしく、電話をかけると上司が出た。それが、なんと「彼ならもうひと月ほど前に退職している、こちらも荷物を取りに来ないので困っていた」という。当然、大阪出張も嘘だ、ということになり、いよいよ心配になった香苗は俺に連絡をとってきた。
静岡に住んでいた俺は、岡山の実家の母に連絡をとり、そっちに兄が戻っていないか、と尋ねたが、兄とはこのところまったく連絡がとれない、という。それというのも、束縛心が強すぎる母から逃れたくて兄は実家を飛び出したので、父の葬儀の時や俺の結婚の時を除けば自分からはコンタクトを取ろうとしていなかったのだ。
香苗は警察に届けを出したが、まだ籍を入れていない相手の、しかも働き盛りの男の失踪など、警察がまともに扱うわけもなかった。だが、それから二週間ほど経ったある日、警察から死体が上がったとの知らせが入った。俺と香苗は二人で死体を確認しに警察署へ向かった。ほとんど白骨化した死体で、警察も失踪届出の時期と合わないから違うだろうとは思ったという。ただ、衣類の裏に兄のフルネームが刺繍されていたようだ。母が、その昔、恩に着せながら買い与えたものだ。
「せめて頭部の骨格だけでも分かるとよかったんですけどねぇ」
その死体には、残念なことに頭部だけがなかった。だが、そうでなくともその死体が兄のはずはなかった。なぜなら、三週間前まで、兄は香苗と暮らしていたからだ。
結局、「何らかの事情で死体の腐敗が異様に早くなるということもないわけではない」という説明を受けて、我々はそれを兄の死体だと受け入れた。受け入れるしかなかった。
ただわだかまりは残った。わだかまりの輪郭を確かめるように、俺は頻繁に香苗に会うようになり、香苗と深い仲になっていった。
時折、香苗は体を重ねながら兄の名を呼ぶことがあった。香苗の中にまだ兄がいることは嫌ではなかった。俺の中にもまだ兄はいたからだ。俺たちは兄を忘れないためにつながったようなものだった。
今日、いつものように体を重ねた後、香苗はベッドから這い出て、何か食べ物がないか見てくる、と言って俺のTシャツを羽織ってキッチンへ向かった。そして、唐揚げなんかをもってくると、また隣に入り込んだ。それから不意に黙って、少し自分の指先の匂いを嗅いだ。
「冷蔵庫の奥に、捨て忘れたものがあって、いま捨てたんだけどちょっと匂いが手についちゃったな」
何を捨てたのか、と尋ねると、香苗はしめ鯖だと答えた。兄が出張に行くと連絡があった日、兄と二人分の夕飯のために、香苗は行きつけのスーパーに向かったらしい。その日、京都のほうから出張してきたという魚屋が高級しめ鯖を販売していた。もう長いこと兄がしめ鯖を食べていないことを気にしていた香苗は、その日、しめ鯖を買って帰ったのだった。
「久しぶりに食べてもらおうと思ったのに……結局、食べさせてあげられなかった」
香苗がそう言って泣くので、俺は彼女をなぐさめたが、内心ではべつのことを考えていた。
もしかしたら、香苗がしめ鯖を用意していたから、兄は帰るに帰れずに電話で出張が決まったと言ったのではないか。もちろん、兄はしめ鯖が好きだったのだから、しめ鯖を用意されているからと言って帰れなくなるのはおかしな話だ。
しかし、もしもその時の兄が、すでに兄でなかったのならば──どうだろう?
そもそも兄はなぜ昔からしめ鯖なんかが好きだったのだろうか。美味しいものには違いないが、毎日食べるほどのものではない。そこには美味しいということ以外に、食べなければならない理由がありはしなかったか。
たとえば、しめ鯖を恐れる者を寄せ付けないための、魔除け的な行為だったということは考えられないだろうか?
それなのに、年末に香苗がしめ鯖ではなく「ままかり」を買ってきた。それで兄はその何かが迫ることを恐れて怒り狂った。そして、翌日からしめ鯖を食べなくなった。
つまり、その時点でソレが兄になったのだろう。
「むくりこくりが恐ろしいからずっと家にいてほしい」
母がいつもわがままな子どものようにそう言うのを、兄は疎ましく思っていた。母の言う「むくりこくり」は実態はない。恐ろしいものの総称のようなものだが、語源を辿れば、蒙古高句麗の意味があって元寇の頃に生まれた言葉だともいわれる。それらの軍の水死体では、とも。だが水死体がしめ鯖を恐れるのもおかしな話だ……。
「そう言えばあの人よく言ってたな。しめ鯖は、『召さば、死』、だから俺は毎日死んでるようなもんだ、なんて」
召さば、死。そうか。自分が死者だと思っていない水死体にとっては、しめ鯖が恐ろしいなんてこともあるのかもしれない。そして、一年間ソレは兄として暮らし、香苗がまたしめ鯖を買ったものだからここへ戻ってこられなくなったのだ。せっかく兄の風貌を手に入れたのに。
むくりこくりか、もっと得体の知れない何モノかはわからない。だが、とにかく今思い返せばそいつは子どもの頃から俺たちの近くにいたのだろう。
そう、我が家では昔からしめ鯖がおかずの一品にあった。十皿もあるうちの一品だから目立たないが、ずっとそうだったのだ。そして俺は今もしめ鯖を食べている。見たことはなくても、ソレの存在を肌で感じてきたからだ。
だが、俺は不意にいま、べつのものを不気味に思い始めていた。香苗だ。この女、何ヵ月もの間、兄になりすましたソレと言葉をかわし、笑い合い、夜にはまぐわっていたのか。それでまったく気づかなかったのか?
この女にとって、兄とはなんだ? 概念か?
そういえば、さっき香苗は、俺と重なりながら兄の名を呼んだ。明日、俺が何かべつのものと入れ替わっても、こいつは相変わらず兄の名を呼んで嬉しそうにまぐわうのではないのか。
インターホンが鳴ったのは、その時だった。
「開けてくれ、香苗」
兄の声が外でする。
そうだ、たった今、香苗はしめ鯖を冷蔵庫からゴミ箱に移した。だから、もう怖くないのだ。
「……あの人の声だわ」
「ちがう。偽物だ」
「そんなわけ……あの白骨死体はあの人じゃなかったのよ。きっと何かの手違いがあったのよ……」
彼女は服を着はじめようとしていた。それから、不意に虫けらでも見つけたような目で俺を見た。そして、ちらりとベランダに目をやったように見えた。
またインターホンが鳴った。
「開けてくれ。香苗。黙っていなくなって悪かったので、申し訳ないのですみません。開け…開け……開けてててててくれ」
ところどころ日本語がおかしい。前からこんな怪しい喋り方だったのか。それなのに香苗、おまえはそれが兄だと信じていたのか?
香苗……。
「はーい、今すぐ」
香苗はそう言いながら、一度キッチンへ向かった。そして、戻ってくると俺ににこやかに言った。
「ベランダでちょっと隠れていて。ね?」
そう言ったおまえの右手は、なぜ後ろに隠されてるんだ?
なあ、香苗……。
また、インターホンが鳴った。
まるで俺の息の音を止めようとするみたいに。
伸びてきた香苗の左手から、かすかにしめ鯖の腐った香りが漂ってきた。
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↑こういうことを付け加えることを覚えました。
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