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短篇小説「抱擁」③

 雨村治夫は私の知る男のなかでも最低の部類だった。喜怒哀楽の怒りばかりがたんこぶみたいに突出しており、不出来な阿修羅を思わせた。かつて娼館にいた頃に私をやたらぶった男がいたが、雨村なら私を殺す寸前まで痛めつけたにちがいない。この男はそういうタイプにみえた。

 彼は警官に「俺の娘を……ハルカを道連れにした男に家族はいるのかよ?」と尋ねた。警官は一瞬私の顔を見たが、沈黙を保った。私はすでにその時には父の遺体からわずかに離れた場所にいたので、ただひたすら事態を見守っていた。
 
 もう警官から一通り説明を聞いた後だった。警官が言うには、ハルカという女はキャバクラで働いていたらしい。その日、初めて店に現れたのが、父だった。二人は小一時間ほど話したが、それほど盛り上がったようにも見えなかった。が、父が店を出てから一時間後、ハルカは少し気分がわるいから外気を吸ってくるといって外に出て、そのまま帰らぬ人となった。父は川辺にハルカを呼び出すと、毒を飲ませて殺し、自分も毒薬を飲んでしっかりとハルカを抱きしめたまま、桟橋につけられたままの船の上で亡くなったのだ。
 
 皮肉にも、父が死んだのは私が最後に彼を見たのと同じ、小さな船の上だったのだ。

 そういえばあの日、父は私を船の上で抱きしめたっけ。それから桟橋に押し上げた。私たちはそこで切り離されたのだ。

 やがて雨村は「いいさ、自分で調べればわかるんだ」と言い捨てて遺体安置所を後にした。私はすぐさま彼を追いかけた。外は雨が降りそそいでいた。私は雨村という男に興味を抱いた。異性として興味がわいたのではない。この男のマグマのような怒りに羨望にも近いものを感じたのだ。私にも怒りの感情はある。だが、それはもっと心の奥底をたゆたっている。
 
 私は雨村に声をかけた。父の娘であるという事実は伏せたままで。肩書きは私立探偵ということにした。雨村は「いくらで引き受けてくれるんだ?」と尋ねてきたので、「あなたの出せる金額で」と答えた。雨村は案の定、私の父に家族がいるか調べてくれと頼んできた。それは私の知りたいことでもあったのだ。父に現在家族はいるのかどうか。警官が私に遺体を引き取るように言った以上、現在はいないことはわかっていた。だが、この長きにわたる空白のどこかでは、一度くらい家族をもったとしても不思議ではないのだ。

 私が知りたいのは、仮にそのような「家族」がいたのだとした場合に、その者たちが父を川の向こうへ連れ去ったのか、それとも川の向こうへ行ってから、たまたまそのような「家族」をもったのか、ということだ。これは些細な違いのようだが、私が川で切り離されたことの意味合いがまるで変ってくるのできわめて重要ではあった。ひいては、手紙を書いてくれなかった意味も変わってくる。

 私は雨村に「書類代わりに」と言って手帳に住所、氏名、生年月日、依頼要項を書かせた。「あれこれうるせえ探偵だ」と言いながら、雨村はすべてを書きこんだ。

 それから雨村と別れると、べつの道へ進むふりをしてから引き返して雨村の後を尾けてみることにした。

 雨村の歩き方は雨水をできるだけ吸収しながら進むかのようにゆったりとしていたが、みなぎる怒りの総量たるや彼の身体からはみ出して湯気となっていたほどであった。ときおりぶつかった歩行者が振り返ると、雨村はその者が震えあがるほどの形相で睨みつけた。

 ニ十分ほど歩いたところで、雨村はどう考えても学生やフリーターが選びそうな1DKの木造アパートに消えた。

 その地区の最寄りのコミュニティセンターで雨村の住民票を取得した。彼自身は現在独身となっているようだ。離婚か死別か。いずれにせよ彼にとって家族は過去のもの。そして今日、その娘、ハルカとの永遠の別離が訪れた。

 雨村はその三十分後、仕事に出かけた。仕事はガードマンで、彼は現場監督をしていたが、後輩にキツく当たっていた。休憩中になり、その部下の一人が現場から離れたので話を聞いてみた。

 ずいぶん怒鳴られていたが、と話しかけると、その男は「雨村さんは不幸な人生を歩んできたので腹も立ちませんよ」と答えた。聞けば、雨村治夫は長らく脳死状態の妻を抱えてその維持費を稼ぐために二十年近く働いてきたらしい。そして、そのために育児に時間をかけることができず、娘のハルカは不良となって家を出ていってしまった。その後すぐに居場所を突き止めたが、ハルカは帰ろうとしなかった。雨村もとうとう折れて、一年に一度は母親の病室に手紙をもって訪ねること、と約束させた。
 
 だが、その約束が果たされることはついになかった。ハルカがどこでどんな仕事をしているのかも、雨村が知ることはなかった。そうこうするうちに、雨村の妻はある朝、何の前触れもなく心肺停止状態となり亡くなった。娘のハルカが亡くなる三カ月ほど前の出来事だったという。

 雨村治夫は家族を完全に失ったのだ。それは私と似ているとも言えた。私もまた母を失い、父を失った。ほかにも共通項はある。私は父に手紙を約束されたが、その手紙はこないままだった。雨村も娘のハルカに手紙を約束させたが、その約束は裏切られて終わった。

 私たちは家族を失い、ともに約束を裏切られた者同士。その二重の失意が彼を怒れる王に変えてしまったのか。私は雨村が羨ましいと思う一方で、その娘のハルカが手紙を最後まで寄越さなかった理由がわかる気がした。

 単に嫌悪からそうしたのかもしれないが、そうではなかろうと私は考えたいようだ。私の脳はそのように決めにかかっている。もっといろんな感情があったはずだ、と。いろんな感情がポケットに入れたイヤホンみたいに絡まってこんがらがり解けなくなったのに違いない。

 そしてまた、きっと手紙で報告できるほどの人生も歩んでいなかったのだ。だから何を書けばいいのかわからず、筆をとるたびに手が止まり、書き始めたものをゴミ箱に捨て、といったことを繰り返したのではないか。

 このように想像をめぐらしたのは、私とハルカの年齢が近いということもあったかもしれないし、同性だったということもあるかも知れない。人間はそうした共通項から勝手にシンパシーを感じられる生き物なのだ。

 人はなぜ死ぬのか? 
 そんなことは考えても仕方ない。
 死ぬのに理由など要らない。
 
 人は気を抜けば死にたくなるのだし、そこに大した理由など要りはしないのだ。

 むしろこう考えねばならない。なぜ人はわざわざ生きるのか、と。何しろ、人間ほど自由に自死を選べる種族はないのだ。そのための道具も知恵も、たっぷり揃っている。それなのに、なぜ私はまだ生きているのか?

 私は雨村に関する調査を一度やめ、雨村の依頼を遂行することにした。すなわち、私の父に家族がいたのかどうか。

 しかし、この扉を開けてしまったことを、私は大いに後悔することになった。父はたしかにかつて家族を持っていた。そしてその家族をある事情で失っていた。

 だが──そこには私の想像を絶する過酷な現実が口を開けていたのだ。
 

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