見出し画像

2020/05/16 自粛下でミスチルを聴いてみた 後編

こんばんは。「自粛下でミスチルを聴いてみた」の2日目です。

前編はこちらからどうぞ。

さて今夜は、Spotifyのプレイリストミスチルチルトルの後半を紹介していきます。

06 虜
ミスチルはメロディがよく、ほどよくロックなのだが、いかんせん本場ロックと比肩するとどうしてもサウンド面で負けてしまうところがある。それは彼ら自身がよく理解している点でもあるだろうが、こと、この楽曲に関しては、彼らの欠点がうまく見えないようにピンクフロイドっぽいプログレロック感が出ており、またそれがサビのゴスペルにつながるところがファンタスティックで得難い名曲にもなっている。

歌詞は、初期からよくある、癖のつよいタイプの女性に翻弄される男の歌だ。基本的に桜井の歌詞には「相手と分かり合えるかどうか」より、相手をうまく自分で満たせるかどうかに興味があるのでは、と感じることがある。

この歌詞の主人公も、自己言及を重ねても埋まらない彼女との距離にもがき苦しんでいる。喋り倒して相手を説得を試みているが、結局、そこで相手が説き伏せられてしまうと、恐らくこの主人公にとって、相手はとたんに都合のいい存在に代わってしまうだろう。

この主人公にとっては、相手が「思い通りにならぬマテリアル」であることに意味があるのだ。

この楽曲は96年の曲で、1年後にはスガシカオが似たような女性を歌った「ドキドキしちゃう」という楽曲を発表している。90年代の終わりに、自分が対峙するべき存在に思い通りにならぬ自我があり、それは未来永劫思い通りにはならぬのだ、ということに気づきつつ、その先まで関係性を思考できない、そんな時代状況と重なる。

思えば、社会がようやくお祭り騒ぎのなかで「変わっていかなくてはならないのかも知れない。でもどうやって?」という21世紀以降のビジョンが描けない苦悶を抱きだした頃なのだろう。

07 雨のち晴れ
エルヴィス・コステロの「strict time」のギターイントロの模倣から入るこの曲は、初期のミスチルの楽曲では、いちばん肩の力が抜けていていい。

ドラマーの鈴木を思い浮かべながら書いたせいか、日ごろの主人公ほどナイーブでもなく、その分、どこにでもいそうな若者になっているところがミスチルでは珍しい。

このような「深みのない主人公」でも、結局、抱えている憂鬱は、日ごろ桜井が歌詞に書くような思索的な主人公と結局は変わらない。

「今は雨降りでもいつの日にか」。これは桜井が現在まで通じて繰り返し発し続けているメッセージのもっともライト級の表現だろう。

ふと、自分の娘が高校生で軽音部にいた頃、まわりの子たちがブルーハーツやスピッツのコピーはするのに、ミスチルのコピーは誰もやっていないと話していたのを思い出した。

ミスチルはある意味でJ-POPとしての普遍性以上に、ある時代の強烈な思索の色がつきすぎてしまったのかもしれないなと思う。そして、たぶん桜井の悩み方は現代の若者には少々重たいのかな、とも。

だから、もしかしたら、超ライト級なこの楽曲からなら、若い人にもミスチルが親しみやすく感じられるかもしれない、とか思ったりする。

08 フェイク
テクノロック調の楽曲。『Home』というミスチルのなかでは比較的おとなしい曲ばかりが集まったアルバムの中にあって異彩を放っている。

07年の曲なのだが、やはり後半に

「愛してるって女が言ってきたって誰かと取っ換えのきく代用品でしかないんだ、ホック外してる途中で気づいたってただ腰を振り続けるよ」

という歌詞が出てきて、あーまだ90年代の「影」を引きずっているなあ、とひとしきり思ったりした。

だが、よくよく考えてみると、そればかりでもないことに気づく。

最初のうち、「実際どうなのだろうな、いま聴くとこういう歌詞は」と思った。桜井だって今書いたわけではないからべつにいいのだが、お勧めするにしてもさすがにミスチルにマイナスに働くのでは、とも思ったりした。

いまはとにかくフェミニズム運動やLGBT運動、そういったものがあって表現者としては性にそれなりに配慮しながら書かねばならない時代だし、自分はデビュー以来そういう意味では差別に敏感になっているつもりだった。

それでも、編集者や校正者から「この表現はやめたほうが……」と言われたことは何度もある。何万文字も使って物語を作るとなると、思ってもみないところで自分の中にある差別意識を指摘されることもある。むしろまったく指摘が入らないなんて不可能なんじゃないかというくらい、さまざまなところにトラップはあるのだ。「ああ…そうか…この言葉もだめか…」とか。

自分は、そのような作業のなかで、「自分のなかにもきっと無意識で使ってしまっている差別的な言葉や、概念はあるのだ、あとはそこから目を逸らさず向き合っていくしかない」と思ってやってきた。むしろ自分は差別なんて絶対しない、という思い込みのほうが恐ろしい。少なくとも、それがこの10年近く書いてきて感じることだ。

それで、ええと、話を「フェイク」に戻す。

この歌は、タイトル通り「フェイク」について歌われている。真実を探し求めるのにネットもテレビも嘘ばかり。抱いた女も求めていたものではなかった。このあたりは、フェイクニュースだらけになる2012年以降の世界を先取りしている、とも言える。

そしてこのようななかで真実を手に入れられない主人公自身もまた、他者を意思のある存在として認識できない時点で、非人間的な生き物、フェイクなのだ。

そう考えたとき、90年代や00年代初頭における「向き合うべき存在でなくなると途端に他者を物質的に扱う病」を単に引きずってこのような歌詞を書いているのではないことに気づかされた。

この詞の主人公は、21世紀の超情報化社会のなかで翻弄されながら、非人間的になっていく現代人の姿そのものを歌っている。桜井は、90年代的な「影」を徐々に俯瞰する立ち位置へと自分を変化させてきていったようだ。

この自粛のなかで改めてこの曲を聴き直していたら、不誠実に嘘をつき続ける政府に向けて「嘘と真実の見分けのつかない世界」で声を上げること、また声そのものを取り戻すことの難しさと大切さを噛みしめたりした次第。

折に触れ声を上げてきたつもりではあったけど、どうしても新刊の時期とかになると、宣伝に配慮して政治の話をやめる時期もあったので、そんな後悔も含めて。
問い続けること、我々は「フェイク」ではないか?


09 SINGLES
2018年の楽曲。シンプルなサウンドからスタートする楽曲だが、思いのほか骨太で、気が付くと「あれ? 『イノセントワールド』以来の大傑作では…?」くらいに思ってしまっていた。

まさにJ-POPど真ん中に投げている球でもあり、それは90年代に彼ら自身で作った的へとまっすぐに飛んでいく。Mr.Childrenの所信表明みたいな曲だなと思う。

「それぞれが思う幸せ、僕が僕であるため oh I have to go」という部分からは、過去への「後悔や苦悩」または愛情のようなものを、決して切り離さずに、それでもいま目の前にある現実に向き合っていく、という姿勢がみえる。

これこそがたぶん、90年代、00年代を経てミスチルが辿り着いた答えなのだ。もう恐らく「向き合うべき他者」ではないからといって、相手を物質化して捉えたりする必要がない。

目の前にあるものには、何であれ、真摯に向き合う。それが箸にも棒にもかからぬ他者であっても「主体ある他者」と認める。それこそが自分が自分であるということだ。

じつは最初に聴いたときは大した楽曲に思えなかったのだが、ちょうど例の「検察庁改正法案」の前後で自然と「もういいだろういい加減」という限界の気持ちになっていた。以前から不満しかなかったけれど、政権とフェイクに満ちた世界全体が、いよいよ黴臭く見えてしまったのだ。

もうフェイクの時代は終わった。自分が自分であることを取り戻す時期が来ているのだ。自分一人について言えば、いつも自宅に籠もっているのでべつだん日頃と変わりのない暮らしなのだが、この時はたぶん「我々」という意識があったのだと思う。
「我々が我々であるために、もう行かねばならない。ここにはいられない」
たとえ、目の前がつまらない世界であっても構わない。できるだけ嘘のない言葉で、互いの違いを真摯に受け止めながら進んでいく以外にはないのだ。

こういう気分になった時に初めて「SINGLES」というタイトルの意味にも目がいくようになった。これは単純な別れの歌だとか何だとかではない。我々一人一人が、主体をもつ時がきたよ、主体をもつということは、相手の主体も認めることだよ、とたぶん桜井は言っているのではないか。

現に、ここ数年のアルバムからは「女」という主体をもたぬ他者が登場しなくなっている。「シングル」という言葉からは寂しさや孤独もイメージするかもしれないが、何よりもまず語義的に単体の存在であること。一人一人が単体であることから目を背けずに生きること。それがこのタイトルに象徴されている。

10 CROSS ROAD
93年の楽曲。彼らを一躍有名にした曲だ。一年以上もヒットチャートに留まり続けて、最終的には125.6万枚も売り上げた。小林武史によるキーボードのイントロからもう名曲感がばりばり出ている。

ちょっとだけ思い出話をさせてもらう。たしか高校受験を終えたあたりで床屋に行ったときに、たまたまラジオから音楽が流れてきた。甲高くて、ちょっと変わった男性ボーカルの声。

ヘンな曲だと思った。何が、というのではないが、当時流行っていた邦楽とは何とはなしに感触がちがう。なよなよした主人公像、やけに韻をふむ歌詞、何よりサビの上がり下がりがちょっと切ないのにコミカルですらある。何だろう、この邦楽に足りなかった「余裕」みたいな感じは……。

しょうじきすぐには名曲と思わなかったのだ。「ヘンな曲」と思っていた。ただ何日経っても頭から離れず、テレビでそれが「Mr.children」というまたおかしな名前のバンドだと知り、CD屋でレンタルして聞き惚れていった。何ともカラフルな楽曲だった。

いま考えると、そのカラフルさも、桜井にとってはバブル期という華やかな過去だったのかも知れないとも思う。そして、最初から「新たなる道を行く」ことをつねに彼は歌っていた。

詞の中の主人公はその「道」に、「SINGLES」よりも未来の希望があると信じてもいる。その先に長い「影」が待っていることなどもちろん知らない。

けれどもこの楽曲のカラフルさは、いま聴くことにこそ意味があるかも知れないな、と思う。世界が失ってしまった無邪気で純粋な「新たな道」への渇望がそこに描かれているからだ。

「新たな道」のようなものがあるのかどうかさえ信じきれないくらいの絶望が、今はいろんな場所にカジュアルに転がっている。八方ふさがりだ、という思いを抱いている人は石を投げれば当たるくらいたくさんいるだろう。

今回、超久しぶりにミスチルを聴いてみて思った。ミスチルはバンドサウンドとしては、パートそれぞれの主張が激しくて調和がとれていないかもしれない。音の迫力という意味でも、洋楽のバンドや、最近の若いバンドに比べると、ちょっと物足りない。

だが、彼らは懸命に「今」に向かって全員で叫び、切実に無数の聴衆と向き合おうとし、数えきれない量の無意識と対話をしようとしているバンドでもある。叫ぶことをやめたら、そこでもう対話が終わってしまうことを、彼らはたぶん知っているのだ。

この8年の長期政権は本当にうんざりするほど長かった。もしかしたらこれからも続くのかも知れない。この自粛期間によって見せかけだけの好景気は吹き飛び、深刻な経済危機をこの国は迎えることになる。それも、まだ地獄の入口でしかないかも知れない。

だが、このままずるずると黙ってその地獄へ突入していくくらいなら足掻いてもいい。叫んでもいい。何にせよ、それは黙って何もせずにいるよりは、よほど価値のあることなのだ。パンドラの匣を開けよう。開けることをやめてしまえば、もうその中身を知ることはない。

そんなわけで、久々のミスチル体験、なかなか悪くなかったなと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?