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短篇小説「抱擁」④

 「私は反対だね。死者のことをどう思うかは生きている者が勝手に決めればいいじゃない? なにもお父さんの半生を今さら探ることないと思うね」

 私がナオミの自宅で雨村治夫という男の人となりや、彼からの依頼について話すと、ナオミは煙草をすぱすぱと吐き出しながら言った。

「第一に、その雨男にはもう会わないほうがいいよ。今日も雨だし。そいつのせいかも」

 ナオミはまんざらジョークでもなさそうな様子で眉間にしわをよせ、それから人差し指を立てた。

「とまあ、私は一応、言うだけ言ってみたわけ。で、あなたの今の顔見たら答えは出ている。つまり、これは依頼どうこうじゃなくてあなたのしたいことなんだ。ね? そうでしょ?」

 私は何とも答えなかった。結論が出ていないのだ。なぜこの一件を深追いしようとしているのか。

 父は私に手紙を書かなかった。書くと言ったのに書かなかった。
 そのことをどう捉えるべきかが定まらない。自分のなかで煮え切らないままなのだ。たしかに、雨村以上に、私のほうが父の半生を知りたいのかも知れない。

 だが、本当に知りたいのだろうか? 
 それがわからない。
 私はただ、私がみじめにならない程度の何かがそこに埋もれているのさえ確認できれば、適当なところで引き返すかもしれなかった。

「しょーのない子だね」ナオミはそう言うと、私を抱きしめた。
「いいかい? どんなものをそこで目撃しようとこれだけは忘れちゃダメだよ。私はあなたのことを親友だと思ってる。私の世界に、あなたは必要なんだ」

 生前の父はタクシーの運転手をしており、廃墟ビルのような社宅に暮らしていたようだ。私はそこを訪ねて、近隣の人々に聞き込み調査を行なった。

 父がそこへやってきたのは、自殺するわずか1カ月前。それ以前にどこにいたのかは誰も知らないと言っていたが、「なんでも社長さんが同情して雇ったって聞いたことがある」と階下の住人が口にした。

「同情? 何に?」
「それは詳しくは……ただ社長さんが誰かに『もう見てられなくてなぁ』って話してたのを聞いたことがあるんだよ」

 見てられなくてなぁ……か。それは同情なのか。同情よりもシリアスな、アイデンティティに結びついたものではないか。

 私は雨の降る日に野良猫に餌をやったことがあるが、見てられなかったからでは決してない。だが、ある時、電車の中で青ざめながら全身を震わせている人が目の前に立たれ、何も考えずに席を譲ってしまったことがあった。見ていられなかったからだ。あれは同情ではない。ある種の条件反射みたいなものだ。社長にも父がそのように映ったということか。
 
 私はタクシー会社を訪ねた。会社は車庫に毛が生えたようなところで、プレハブの屋根に雨音がやけにやかましく響いていた。
 事務所のドアをノックすると、開いてるよ、と低い嗄れ声がした。ドアの向こうは机が二つ、一番奥の机にはリクライニングチェアに腰かけた髭面の男が一人、手前の机にはどこの事務所にもいそうな人のよさそうな中年女性がいた。電話応対をするのは彼女の役目らしく、私が入ってきても頭を下げるだけで懸命に電話応対を続けていた。奥の髭面が私を手招きした。
 
 私は事前に用意した「遠い親戚」という嘘をついて、父のことを尋ねた。
「社長さんの口利きでこちらに勤めるようになった、と噂で聞いたのですが本当でしょうか?」
「あんたが素性を明かさないかぎり、何も言わないよ」
「ですから遠縁の……」
「娘だろ?」
 私は虚を突かれて黙った。
「そんなそっくりな顔で遠縁は笑わせる」
「手土産代わりの渾身のジョークです」
 社長は笑い、それから葉巻に火をつけてじっと私の顔を見た。
「何が知りたい?」
「父のことを『見てられない』とお感じになられた理由を教えてください」
「それをあんたに話すのか?」
 男は肺の奥まで煙をしっかり吸い込んでから、ゆっくり吐き出した。それからかぶりを振るとすぐに火を消し、立ち上がった。
「ここでは話せないな。ちょっとドライブをしよう」
 男はそう言って私をタクシーに案内した。ずらりと五台ほど並んでいたタクシーのいちばん奥にあるやつだった。

 できるだけあんたの顔を見ないで話したい、できれば昔の感覚を思い出しながらね、と男は言って運転席に乗り込み、私を後部座席に乗せた。

「この車、あんたの父親が運転してたやつだよ。あんまり運転はうまくなくてね。道も覚えないし、何度もクレームがきていたよ」

 私は車の匂いを嗅いだ。タクシーなんてどれも同じようなにおいには違いなかった。私はその似たような曖昧な匂いの中から父の生きていた頃の匂いを嗅ぎたいと思った。
 得意でもない車を操り、方向音痴なのに客から罵られながら目的地を目指す父の顔にはどれほどの脂汗が浮かんでいたことだろうか。その脂汗はどのような匂いを分泌し、この車にその片鱗を残したのか。
 
「あんたの父親には家庭があったよ。いつくらいかな。十年とか、それくらい前か、いやもっと前だったか……彼は死に場所を求めてただ街をふらふらと歩いていたのさ。何があったかは知らないが、その前に住んでいた街の暮らしで彼はこの世に未練がなくなったようだった」
 
 「その前に住んでいた街」で暮らしていたのが、私たち家族だ。あの雑貨屋の地下の一室での貧困の奴隷のような暮らし。父はそこでこの世に未練がなくなったというのか。

「とにかく、彼は死に場所を求めてあてどなく彷徨っていた、と。
 話は変わって、俺の高校時代のクラスメイトにうめ子って呼ばれてる女がいた。ちょっと奇妙な話なんだが、このうめ子ってやつは殻子を生むんだ。無精卵の胎児版みたいな感じだな。見たことあるかい?」

 私は耳を疑った。とつぜん社長がほら話を始めたと思ったからだ。だが、違った。社長は話を続けた。

「俺の生まれた街では昔から百人に一人くらいそういう殻子を産む女がいてね、うめ子がそれだった。まあよその人に話したら、どこのホラー漫画だって笑われたから、あんまり一般的じゃねえんだろうな。だが、どれだけ信じられなくても、事実は事実よ」

 はあ、と私は相槌を打った。もしもそれを相槌と呼べるのなら、だが。

「うめ子は満月の夜になると殻子を生む。そいつは身動き一つしない『人間のなりかけ』みたいなもんで、放っておけば3日かそこらで死んでしまうんだよ。で、うめ子のほうもなぜそんなものが生まれるのかよくわからないんだな。だが、じつはうめ子の家のとなりには牛鬼が住んでいてね。あ、これもよくわからんかな、牛鬼……どこにでもいるわけじゃないのか」

 私は黙った。答えようがなかったのだ。ぎゅーき、という音だけが最初はさびついたドアを開ける音のように響いた。

「とにかくおっかない鬼でね。で、その牛鬼は殻子が好物なのさ。いやほんとうは、人間の子が好きなんだけどな。人間の子を食うと恨みを買うもんだから、日ごろは殻子で我慢するってわけだ。だから、うめ子が殻子を産むとかならずそれを食べにやってきた」
「鬼なんてこの世に存在しませんよ」
 私はやっとの思いでそう返した。これ以上この男の与太話に付き合うのはたくさんだ、とも思った。けれど、社長は話をやめようとはしなかった。

「あんたの知ってる世界にはね。だが俺の街にはいた。そしてうめ子はその大いなる犠牲になっていた。ある夜、とうとううめ子は牛鬼がいやで、殻子を抱いて逃げ出した。だが、牛鬼のやつはああ見えて動きが早い。あっという間にうめ子を見つけてしまった。そこへちょうど通りかかったのが、あんたの父親さ。

 あんたのお父さんはとっさにうめ子をかばうようにして牛鬼の前に立ちはだかった。牛鬼がそこをどけと言っても、彼は微動だにしなかった。たぶん、いつ死んでも構わないと思っているから怖くなかったんだな。

 すると、牛鬼が言った。『おまえがこの女と結婚して、生まれた子を食わせてくれるなら、見逃してやってもいい』と。彼は考えた。どうせ牛鬼には敵わない。ここで意地を張っていれば三人全員食べられてしまう。

 約束しよう、と彼は答えた。すると牛鬼は『約束だぞ。毎晩女の家の窓の外からおまえがいるのを確かめる。逃げることはできないぞ』と。

 そんなわけで、あんたの父さんはしたくもない結婚をする羽目になった」

「……でも、助けようとしたのだから、少しはそのうめ子さんに気があったのでは?」

「闇夜で顔もろくに見えなかったはずだ。それに、うめ子はこう言ってはなんだが、外見的にもまああまり男を寄せ付けるタイプじゃない。たぶん、彼にとってはとにかく自分の行動次第で死人が出るかも知れない。それだけだったんだと思うよ」
「それだけのために……父は結婚をしたのですか?」
「ああ。そして一年後、うめ子は身籠り、その身籠った子を牛鬼が狙いに来た。だが、うめ子は初めて身籠った子に愛着が湧いた。それまでの殻子とはちがう。本物の人間の赤子だ。この子を食われたくない、逃げたい、と訴えた。

 それで、彼は牛鬼のくる前に三人で逃げる計画を立てた。だが彼らは牛鬼の執念深さを知らなかったのさ。どの街に移っても、たちまち牛鬼はその特殊な嗅覚で彼らがどこにいるのかを嗅ぎ分けてしまう。

 はじめは、越した先の近隣のひとびとが『俺たちが守ってやる』なんて調子のいいことを言ってくれる。だが、次々と牛鬼の周辺が犠牲になっていくと、みんなうめ子とあんたの父さんの一家を疫病神扱いしだす。しまいには夜のうちに火を放たれたりもした。
 
 そのたびに一家は路頭に迷うことになった。一家は殻子をネット販売して生計を立てた。殻子を金に換えることには罪悪感はなかった。本当の赤ん坊じゃないからな。彼らはひたすら転々と居場所を変えた。殻子を売った金はほぼすべて引っ越し代に費やされ、食費すら削らざるを得ないようなひどい暮らしだった。奴らは、貧困の奴隷みたいなもんだった」

 あまりに眉唾ものの話ではあるが、そこでも父が貧困に囚われていたという点に、思いがけず私はリアリティを感じてしまった。その結果、私の脳はそれまで信じきれずにいるこの社長の話を実話であるという前提で考えるに至った。

 父は私たちの家族を捨てて死ぬつもりだったのだ。だが、それでも死に場所さえ与えられず、貧困に囚われて生きることになった。おまけに、鬼がついてまわる人生だった。

「そうしているうちに子はすくすくと大きくなった。俺はその子のこともよく覚えてるよ。かわいい子だった。そう、ちょっとあんたにも似てる。あんたの父さんも、たいそうかわいがってた。どこに行くのも一緒でね。手なんかつないで、金もないのに、その子が何かをほしがると何でも買ってやるのさ。目に入れても痛くないって感じだったね」

 歯がむずがゆくなる。なんだろう、この感じは。私はもしや嫉妬しているのだろうか? 見たこともないその子に。

 私が父に何かを買ってもらったのは、あの桟橋での一度だけ。

 私だって甘やかされて、いつも散歩に連れ回されて、あれほしいこれほしいと駄々をこねて好きなものを買ってもらいたかった。だが、そんな希望はあの家に入り込む余地はなかった。
 
 私はただ、あの雑貨屋の店長が母とむつみ合うあいだ、父と石段に並んでじっと夜空なんかを見上げている時間がけっこう好きだった。その記憶でいいじゃないか。なのに、歯がむずむずする。

「子が大きくなるにつれ、引っ越しの頻度は減った。牛鬼のほうも諦めたのか、めったに姿を見せなくなった。ところが、これは牛鬼の作戦だったんだな。油断しきった頃を狙おうと、牛鬼のほうはわざと数年ほど一家を放っておいたのさ。

 そしてある晩、完全に油断したあんたの父さんとうめ子は、眠った子を置いて二人で出かけた。すぐとなりにある飲み屋で一杯引っかけてすぐに戻るつもりだったんだ。

 ところが……帰ってみると、残っていたのは子の手足だけだった。

  部屋じゅう血の海さ。それでうめ子は気が触れてしまった。そこからは満月でもないのにやたらと殻子を身籠るようになった。その噂が広まって、気味悪がられ、街の人たちから石を投げられることもあった」

 社長は川の手前を右へ曲がった。しばらく進むと、ひなびたエリアになり、民家の数も徐々に減ってくる。

 やがて一軒のあばら屋が見えてきた。

「あれが、最後に一家が住んでた家さ。うめ子とあんたの父さんと、数えきれないほどの殻子がいた。おかしなことに、牛鬼は子を喰らってからは満足したのか、いっさい姿を見せなくなった。殻子がいるのに、だ。たぶん、久々に人間の子を喰って満足したんだろうな。

 だがあんたの父さんは夜な夜な牛鬼を探してまわった。もはやそれだけが生き甲斐だったと言ってもいい。彼自身が鬼になったような形相で徘徊してるもんだから、ばったり夜道で出会うと幽霊より怖かったね。

 殻子を餌として背中に抱えてはわざと夜道を歩いてるんだ。いやぁ、不気味だったなぁ……。

 だが、その計画は、まんざら馬鹿にしたもんでもなかった。一か月前さ。とうとうとある寺の前を歩いているときに、牛鬼が罠にかかった。あんたの父さんに襲いかかったんだ。その殻子には無数の針が仕込んであって、牛鬼は殻子を飲み込んだと同時に死んだ。

 めでたしめでたし……とはいかなかった。ちょっと遅かったのさ。

 家に帰ったら、うめ子は首を吊って死んでいたんだ」

 社長は車を止めてしばらくあばら屋を見ていたが、大きなため息を一つつくと、Uターンしてもとの道を戻り始めた。

「以上が、俺が『見ちゃいられない』と思った理由さ。あんな不幸な男は見たことがない」
「父は、不幸だったのでしょうか……」
「さあね。俺の目にはそうみえたが、あんたの父親がどう思っていたかは知らんよ。ただ──好きでもない女と家庭をもった、生まれた子は鬼に食われて復讐に囚われた、復讐を果たしたときには妻は自死した後だった……これでも不幸じゃないと言い切れる奴は、よほど強いんだろうと思うね」 

 やがて、事務所の前に着いた。
 タクシーを降りるとき、社長はこう尋ねた。
「こうして過去を漁ってるってことは、きっとあんたには父親に見捨てられたって思いがあるんだろうな?」
「わかりません」
「いや、たぶんそう思ってる。顔を見りゃわかる。あんたは父親があんたを棄てたあとに、せめて一生あんたを捨てた後悔を引きずっていてくれればいいと思ってたんだ。そうだろ?」

 そんなふうに考えたことはなかった。けれども、言われてみると図星かも知れない、とも思った。私は、私を捨てたあとの父の頭が私でいっぱいになっていてくれたら、きっとそれで満足だったのだ。

「たしかにあんたのお父さんはあんたを見捨てたんだろうさ。だが、そもそも見捨てるって何だろうな? 七月の次は八月がくる。じゃあ俺は七月を見捨てたんだろうかな? わかっているのは、うめ子のためとかでもなく、牛鬼を殺すためとかでもなく、あんたのお父さんはいつだってそうせざるを得ないって道を歩いてきたってことさ。ただ目の前の現実だけを見据えながらね。それは、まあ俺が『見ちゃいられない』と思って彼を雇ったのと、とどのつまりは同じかもしれんよ」

 礼を言って社長と別れた後、私はしばらくぼんやりと川沿いを歩いた。川に無数の雨粒が降り注いではその中に消えていく。まるで人間の命みたい。

 命に意味なんかないのだ。

  私の父はほんのちょっと命を捨てる期間を延期しただけだった。

 でも、せっかくしたくもない結婚で命を延期させたのなら、どうして私に手紙を書いてくれなかったの? そう考えた瞬間、社長の言葉が脳裏をよぎる。

 ──あんたのお父さんはいつだってそうせざるを得ないって道を歩いてきたってことさ。
 
  たとえうめ子のことを好きでなかろうと、父はうめ子と生きる道を選んだ。その目の前の暮らしに全力を注ぐことを、父は躊躇わなかったのかも知れない。

 かつて父は母に一目ぼれをして結婚したのだった。母は美人だったから、一目惚れしたというのもよくわかる。きっと店長と母がむつみ合う時間は地獄の苦しみだったに違いない。父はあの石段で私が月夜をみて愉しんでいるのとはまったくちがう胸中だったことだろう。そしてその苦しみは蓄積し、死に場所を求める決断を下した。

 それが、ひょんなことから生きざるを得なくなった。もうその日常を生きることに迷いはなかったのだろうし、過去を振り返ることに意味もなかったに違いない。

 たとえ桟橋に置き去りにした私を夢にみて真夜中に目覚めることが何度となくあったとしても、それで私に手紙を書いたところでどうなるというのか。

 私にしても、実際、父からどんな手紙がくれば嬉しかったのだろうか。「大人になったら会おう」でも「いずれまた一緒に」でも、手紙がくれば私はその手紙をよすがに生きたに違いない。

 だが──それをよすがにして生きることは、果たして私にとってプラスか否か。

 約束は尊い。それは何にも代えがたいほどに尊く、ある意味では人間の尊厳におけるもっとも崇高な部位でもある。

 だが、その尊さは、果たして桟橋で遠ざかりながら手を振った瞬間の虚しさや悲しさを超えるものだろうか?

 私はわからなくなった。

 手紙がほしかった。たしかな約束がほしかったはずだった。

 だが、それを手にしたときには、私は長年じくじくと抱えてきた桟橋のあの風景を手放すことになりはしないか。

 あの、遠ざかる父を何とも言えない気持ちで見送った少女の孤独を手放すことになりはしないか。

 父にしてもそうだ。何も知らぬ娘を桟橋に置き去りにして立ち去る、あの果てしない後悔しか生まない究極の瞬間を、手紙を書くという行為は超えるのだろうか? 

 なるほど。あの瞬間がすべてなのだ。

 私は長い時間をかけて、ゆっくりとそう理解する。

  父がハルカという女と無理心中を図るとき、脳裏に私のことがかすめたか。父は無名の記号を抱くことであの瞬間に帰ろうとしたのではないか。そういった期待をもった時点で、私は瞬間を信じきれていないのかも知れない。
 
 あの瞬間がすべてなのだ。

 もう一度私は自分に言い聞かせた。

 それから私がとった行動はあまりにシンプルだった。私は雨村治夫のアパートへ向かった。雨村治夫はまだ怒りに満ちた表情のままだった。その肩からは、相変わらずはっきりと湯気が上っている気すらした。

「どうだ、男の家族のこと、何かわかったか?」

 私は静かにかぶりを振った。

「いいや、あいつにだって家族がいるはずだ、早くそいつのとこに案内してくれ。そいつに俺の抱いた以上の苦しみを……」

 私はそれ以上の言葉を封じるようにして、雨村治夫を抱きしめた。

 目をつぶると、桟橋につながれた船に乗ったときの情景が浮かんできた。父はあの日どんな服を着ていたっけ。

 白だった、たぶん、よれよれの白のワイシャツとそれから……ああもう何もかもおぼろだ……。

 けれど、父は私を抱きしめた。

 こんなふうに抱きしめたのだ。

 雨村治夫は泣いていた。

 外の雨音と、雨村の鳴き声が溶け合い、ひとつになっていった。

 雨村の記憶にもいま雨が降りそそいでいるのだろう。それはハルカという娘が、刹那的にこの世界を駆け抜けた証の雨でもあるかも知れないし、私の父のあまりに冗長な生の証かも知れなかった。

 間もなくナオミのショータイムが始まる時間だ。

 私は雨村から離れ、駆け出した。雨村は何事か言いかけた。何らかの未練か、あるいは未練の萌芽のようなものが生まれたのかも知れない。

 だが、私は知っている。それは過去の亡霊のようなものにすぎないことを。そこにはもう何もないのだ。

 できるだけ何も聞かずに済むように全力で駆けた。

 一つの抱擁が終わったのだ。
 
 私は表通りでタクシーに手をあげた。次の場所へ向かうために。

 運転手に行き先を告げる頃、灰色の空の向こう側から、陽光が一筋差し込みかけた。

 
 

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