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映画『窮鼠はチーズの夢を見る』を観て

1. 窮鼠は誰か

 この物語は、今ヶ瀬の眼差しが捉えたシーンから始められる。今ヶ瀬は車を運転し、恭一は自転車に乗っている。二人には物理的な距離があり、オフィスに向かう恭一の姿を今ヶ瀬が見つめる。今ヶ瀬の姿ではなく、今ヶ瀬の「視点」がまず登場するのである。そして次に、恭一が職場の先輩らしき人物と話す事柄から、彼がコミュニケーション能力の高い、社会人として好印象の人物であることが窺える。

 そこで恭一を振り向かせるのが今ヶ瀬の声だ。まずは視点、次は声、そして姿がやっと映し出される。首を傾けた今ヶ瀬の右下に『窮鼠はチーズの夢を見る』とタイトルが浮かぶ。窮鼠はチーズの夢を見る。さあ、窮鼠とは誰か?という問いかけも沈黙の中に孕んでいるかのように、説明もせずに物語は私たちの前に立ち上がる。

 興信所で探偵として働く今ヶ瀬の元に恭一の妻・知佳子から依頼が来たことがきっかけで、二人は7年ぶりに再会を果たす。そして、浮気相手との写真を捉えた今ヶ瀬に、口封じのために寿司をおごる。夕食後、外に出た二人の顔が大袈裟なほどに大写しになる。人は、遠ざかれば遠ざかるほどその姿が見えなくなるが、近づけば近づくほど、近すぎるがゆえに何を見ているのかわからなくなる。距離を見失い、大切なものを見落としてしまう。あまりにも近いカメラワークに、そのことを思った。

 物語は進み、恭一の元彼女・夏生から、今ヶ瀬か自分か、どちらかを選べと言われたときに、今ヶ瀬は恭一のほうを向き、自分の顔に手を添え、夏生には見られないようにして、恭一だけに全身全霊の思いを込めて、強烈に訴えかける眼差しを向ける。恭一だけに向けたこの表情は、恭一と、観客しか知らない。このアングルによる見せ方は、漫画や演劇ではない、映画ならではである。

 離婚を知佳子から切り出された恭一が今ヶ瀬に電話するシーンでは、幸せの絶頂であるだろう結婚したカップルとその友人たちでごった返す中を、掻き分けて歩いていく。恭一にもあっただろう昔を皮肉に演出するシーンだ。

 夏生は、今ヶ瀬に「恭一はハーメルンの笛吹にホイホイついていくネズミみたいなもんなの。みすみすドブに溺れさせるわけにはいかない」と言う。ドブが今ヶ瀬を指していることは、今ヶ瀬自身も分かっている。攻撃的な言葉を放つ夏生ではあるが、彼女も余裕がなく、選択を迫りながらも、彼女自身も窮地に追い込まれている。この物語に登場する者は皆、もがきながら愛を求めている。その点においては誰もが皆、「窮鼠」なのである。

 私たちは、愛を説明するためには、「愛」以外の言葉で語ることが求められる。辞書の定義を越えた、それぞれの答えがあるだろうし、答えが出ずに迷い続ける者も多いだろう。自分自身が自分だけのものであるように、他者を従属させることなど不可能であるのに、自分のものにしようとして奪い合う。

 「心底惚れるって、すべてにおいてその人だけが例外になっちゃうってことなんですね」という今ヶ瀬の言葉にあるのは、普遍性や一般論ではない、主観から発される実感の伴った思いだ。今ヶ瀬は「本当に好きだったな」と、「好きだ」ではなく「好きだった」と、過去形で叫ぶ。今ヶ瀬は必死に過去にしようとしたのだろう。その一方で、物語の最後、恭一は今ヶ瀬の去った部屋でただ一人、未来を見ようとしている。

2. 静寂の音/注がれる視線

 音楽が最小限に抑えられていることで、日常の音、日常の声が際立つ。観客はひとつの音も聞き漏らさないように、スクリーンの静寂を守る一端を担っているかのように、息を潜めて静寂を守る。恭一に「ずっと苦しかっただろ」と言われたあとにうずくまり、今ヶ瀬は今までの思いが解放され、声を出して泣き叫ぶ。劇中では、吐息も泣き声も乾いた笑いも、肉体がぶつかり合う音も、包み隠さず描写されている。

 原作の随所に散りばめられているコメディー要素は見事に削られ、映画オリジナルである、屋上で戯れ合うシーンにコメディー感は集約されている。基本的に恭一と今ヶ瀬はお互いを茶化すことをしない。そして、登場人物の心の吐露としての〈語り〉がない。原作は、吹き出しの言葉が非常に多い。登場人物の心の中でつぶやかれる〈語り〉が読者の理解を助ける。『窮鼠はチーズの夢を見る』と同じく行定監督の映画『劇場』は、主要登場人物である永田の心の中にある、恋人に発されることのない思いが〈語り〉として挿入されていた。

 しかし、『窮鼠はチーズの夢を見る』では、登場人物の内側にある言葉は徹底して語られない。相手が心の中で何を思っているのかは、劇中の人物にも、観客にもわからない。一貫して、登場人物は外側から描かれていく。語りが一切ないことによって、観客は登場人物の表情と言葉と行為を頼りに、物語に気持ちを寄り添わせる。それは、スクリーンを離れた私たちが日常にしていることと変わらないのだと気付く。日常生活において相手の心の中だけにある言葉を、小説や漫画のようには知ることはできない。知ることができないからこそ、表情や行為や言葉からお互いの気持ちを想像して、関係性を築いていくのだ。「観客」として「登場人物」を眺めるのではなく、一人の「人間」として今ヶ瀬と恭一という「人間」を見ている感覚になっていった。

 物語の序盤で、恭一の言動に怒り、今ヶ瀬は恭一の部屋を飛び出し、その後、今ヶ瀬の元に恭一から電話がかかってくる場面がある。食事の席で「1週間何してたんですか?」と恭一に問う言葉から、その時間の経過を知る。前述の通り、登場人物の〈語り〉がない世界では、「1週間が経っている」という時間経過を知るのも、肉声を伴って発される言葉からのみである。また、たまきのファンデーションが付着した恭一の喪服について、「まだ」クリーニングに出さないのかと感情を爆発させる場面でも、時間を強調して発された言葉があるからこそ、今ヶ瀬がその瞬間まで溜め込んできた思いが、コップの水が溢れるようにこぼれる意味を知ることができる。

 世の中には、「そんな最低な人のどこがいいの?」という、手垢の付いた月並みな言葉が溢れている。恭一に対して今ヶ瀬が叫ぶように言った「見た目がきれいで自分を気持ちよくさせてくれる完璧な人を求めているわけではない」という言葉は、強度を持って物語を貫く。この場面を見たとき、暗がりの中で息を潜めている、もう一人の自分を見つけ出されるような感覚になった。今ヶ瀬の切実な言葉に、「恭一を最低だと言えるほど、自分は正しい人間なのだろうか?」「自分は過ちを犯さない人間だと言い切れるのだろうか?」と、観客である私自身の中に潜んでいる、いくつもの気持ちと対峙させられた。

 恭一と今ヶ瀬が二人きりになるシーンが多く描かれていくが、屋上の場面にあるように、さらに高い位置にいる他者の視線が注がれる。劇中では、今ヶ瀬が見ている映画や、車でカーステレオから流れる音楽や、恭一が読んでいる文庫本小説などがインターテクストとして示唆的に用いられている。それらと同様に、〈視線〉もひとつのテクストとして投げ込まれているのだと思えるほど、〈視線〉は二人の関係性を揺さぶるのだ。肩を組んで歩く二人をすれ違いざまに笑ったように見える女性二人が過ぎ去ったあと、そっと恭一は今ヶ瀬から体を離す。他者による眼差しは、容赦なく二人に注がれるのである。

3. 四人の女

 物語には4人の女が登場する。元妻、浮気相手、元彼女、後輩。元妻と元彼女は恭一の過去を知る存在だ。元妻の趣味で揃えただろう白い部屋にいる恭一の居心地の悪さと、一人暮らしの恭一の部屋とのコントラストがおもしろい。浮気相手と逢瀬を重ねるのは相手の部屋であり、元彼女である夏生は結局、独身に戻った恭一の部屋に入ることはなく物語から退場した。

 恭一の部屋のドアが、空間を〈ウチ〉と〈ソト〉に分けるだけではなく、恭一の心に入れるかどうかを表しているように見える。引っ越し祝いに、ビールを袋に入れることなく指で掴んで持って階段を上がり、インターホンを鳴らす今ヶ瀬は、恭一に鬱陶しそうな顔をされながらもドアの中に招かれた。また、出て行った今ヶ瀬が再び戻ったときに、部屋に入るように促す恭一に、今ヶ瀬は「いいんですか?」と確かめる。そのドアという境界線を越えたとき、今ヶ瀬は恭一にしか見せない顔を持つ人間に変わる。今ヶ瀬が出ていったドアの音や、帰って来たときのドアの音は、恭一の表情が変わる装置になっている。

 この映画は、子どもがいっさい登場しないというのも特徴のひとつに挙げられる。知佳子と朝食をとるシーンで、外で遊ぶ子どもの声がかすかに聞こえる。それが唯一、子どもの気配がする瞬間だ。

 原作では「恭ちゃんは何も悪くない 非の打ち所のない旦那様だった」と、知佳子の主語で、知佳子の気持ちとして語られるが、映画では「非の打ち所のない旦那様なんだね」と、他者からの評価として述べられる。「そうやっていつも、私が何か言うのを待ってる空気がもう、気持ち悪いの」という言葉は、たまきと別れ話をする際の「なんで黙ってるんですか?」と重なるように思えるが、たまきの問いかけに対して黙っているのは、沈黙を選択しているからだろう。沈黙を選ぶことで、今ヶ瀬を守っているのではないか。

 昔の恋が再発する様を、作家メレディスが「既婚の女性は、結婚指環の狭い環の外側をのぞき見た時、まぶたを伏せ、目に見えぬ炎に身を焼きつくすことになる」と評している箇所を、夏目漱石は次のように『文学論』で述べている。

恐くは、これが真理なるべく、また古往今来かかる婦人は夥多あるべし。然れどもこの真理は徒らに吾人を不快に陥入るるの真理なるのみならず、現在の社会制度を覆へす傾向ある真理なり。(夏目漱石『文学論』岩波書店)

 この文章を初めて読んだとき、結婚とは、指輪の円環の中から世界を見ることなのか、と、指輪の円環の中から見える世界を信じ続けなければ破綻してしまうのか、と恐怖を覚えた。

 知佳子も恭一も、指輪をしながら、円環の外をのぞき続けていた。お互いに向き合いながらも、相手の心を見ずに外を見ていたというのが、皮肉なことにこの二人の共通点である。物語の後半で恭一はたまきに指環を渡すが、結局のところ、その指環は外されることとなる。

 悲劇は、自分の視点から見えた風景を誤解することから始まる。止まることなく流れていく世界において、一瞬を切り取り、自分の視点で捉えたもののみで判断することから誤解が生まれる。恭一はたまきと常務を見かけ、誤解する。原作でははっきりと「見た目通りの子なんかじゃないんだよ 不倫してるんだ うちの常務と」と今ヶ瀬に向かって言っているが、映画の恭一は言わない。常務にどう見えたかと聞かれ、ゆっくりと「私は、自由だと思います」と返す。恭一の中に渦巻く感情は見えないが、発露される言葉は整えられたものだ。その返答によっては、その後に続く常務の言葉も違っていたかもしれない。

 今ヶ瀬と夏生は直接対決だったが、今ヶ瀬とたまきは、物を媒介して、言葉のないレースでたまきは最終的に敗北する。今ヶ瀬と戦っているのだと知らずに、見えない相手に敗北する。「前の人と同じ失敗したくないので」という言葉の残酷さが、その自覚はなく発される。「あまりにも相手を好きになりすぎると自分の形が保てなくなって壊れるんですよね」というたまきの言葉は、とてもたまきらしい。カーテンを過剰に音を立てて開けるのも、とても彼女らしい。今ヶ瀬の痕跡がありありと残る部屋でカーテンを開け、光を入れたたまきだったが、彼女もまた、この物語から退場する。

 私たちはいつだって、「選択する」ことからは逃れられない。同窓会に出席するかどうかですら、選ばなければならない。この作品の原作の恭一は同窓会に出席し、映画の恭一は「行かないよ」と今ヶ瀬に言う。選んだ場合、選ばなかった場合、どのような結果が待っているのかは誰にもわからない。日々さまざまな選択の積み重ねが、どこに行き着くのかわからない道へと進ませる。そして、誰かが選んだとき、選ばれなかった者が取り残される。四人の女たちの人生もそれぞれに進んでいく。

4. 終わりに置かれたはじまり

 恭一が今ヶ瀬に「俺は、お前を選ぶわけにはいかないよ」と言ったが、二人きりの部屋で、恭一は今ヶ瀬を選び、今ヶ瀬を受け入れた。選べないと言いながらも、今ヶ瀬を選んだのだ。

 恭一と今ヶ瀬が体を重ねている暗い部屋の窓の外には雨が降っている。雨も二人を見ている。劇中では、空も、風も、音も、そこに感情があるように捉えられ、描写されている。透明な空気すらも、そこに息づいているのがわかるような気がするほど、空気の重さや風の心地よさが伝わってくる。

 今ヶ瀬の誕生日に生まれ年のワインを贈った恭一は、「今は飲みません」と大事そうにそのワインを抱えながら言う彼に、「来年またあげるから」と軽々と答える。「明日」や「来年」という未来に、今と同じように二人でいる保証はない。それは誰にもわからないことだ。それが実現しないとしても、その言葉を交わす、二人きりの「今」が存在しているという事実が、何より尊い。「終わりにしよう」という言葉は、当然ながら、始まっていなければ発することのないものである。「今度は大事にして愛してくれる奴にしたほうがいい」という言葉も、恭一と今ヶ瀬が共に過ごした「今」が確かに存在していたことを示すのである。

 終わりにすることを決意したあとで、車で夜明けの海を目指すシーンでは、時間と距離が進むごとに、見える風景が変わっていく。二人きりで、物理的に同じ速度で進む中、時間と空間を共にする。海へ向かうシーンは時系列だが、海辺で過ごすシーンはラスト近くに挿入される。美しい夢であるかのような朝焼けは、傷だらけの気持ちを受け入れるでもなく、はねのけるのでもなく、ただ二人を包んでいく。朝焼けを一緒に見たというのは事実であると同時に、追い込まれた窮鼠が思い描く「夢」なのかもしれない。お互いを忘れない限り見続けることのできる夢なのかもしれない。

 物語の中で、物はただの物ではなく、意味を帯び、取り替え不可能なものとして存在している。今ヶ瀬が捨てた灰皿は、恭一の手でもう一度息を吹き返す。恭一の部屋の台所の扉の中に置かれた今ヶ瀬を象徴するものは、その扉が開けられるとわかっていて置かれたものだ。たまきの実家で扉の修理を頼まれた恭一のシーンでは、カメラは扉の中から恭一を映す。このシーンが、たまきが恭一の部屋の台所の扉を開けるシーンと重ねられる。扉は開閉しなければ意味がない。扉は誰かによって開けられるものなのだ。たまきが開けた扉の中には、今ヶ瀬の分身が存在する。まるで、恭一の心のドアを開けても、彼女が入る場所はないと告げるかのようだ。

 恭一の部屋着を今ヶ瀬が着て、それをたまきが着ている。たまきはそれを知らない。今ヶ瀬が座っていた椅子に自分が座っているのだということをたまきは知らない。知らずに今ヶ瀬が使っていた物を媒介して共有していくのだが、それらはたまきのものにはならない。届いてからたまきに知らされることなく日にちが経っていたカーテンも外され、元のものに戻される。今ヶ瀬がいた空間、今ヶ瀬が着ていた物を他者によってなぞられていくことの違和感は、恭一も感じただろう。恭一はたまきに今ヶ瀬のことを「本当に苦しそうだったからね」「俺は幸せだったんだけどね」と、感情を吐露する。自分の感情を整理するためにたまきを使っているようでもある。

 今ヶ瀬は、「あなたじゃだめだ」と言い、終わらせることを選んだあとも、姿を見せ、「たまにでいいから会ってほしい」と恭一にすがる。矛盾や一貫性のなさ、整合性のなさに、人間らしさを見た。今ヶ瀬自身にもどうしようもない思いの断片がこぼれて、恭一を刺していく。

 劇中では、今ヶ瀬は恭一に寄り添って寝ようとするが、今ヶ瀬の寝顔は映されない。恭一がふと目を覚ますと、今ヶ瀬は恭一の携帯電話を勝手に見ていたり、椅子に座っていたり、すでに姿を消していたりする。すべてをさらけ出して抱き合っても、寝顔が映し出されないところに、今ヶ瀬の本質のすべては相手に委ねきれない性格も垣間見える。

 ラストシーンの恭一は、今ヶ瀬を失ったように見えるが、「今ヶ瀬を待つことに決めた自分」を手に入れたのである。それが正しいのかどうかは誰にもわからないが、今ヶ瀬のいない部屋にいる恭一のもとに風が吹く。その風は誰のもとにも吹くものである。そして、物語の終わりが始まりになる。恭一の姿を見つめる今ヶ瀬の視点から始まった物語は、今ヶ瀬を待つことに決めた恭一の眼差しによって閉じられるのである。

5. この文章について

 この文章は、映画評論家・相田冬二さんによる「ZoomトークイベントSpecial 真夏の夜の窮鼠」映画『窮鼠はチーズの夢を見る』について語る会(2020年10月9日開催)に参加するにあたり書いたものです。この文章の中から、相田さんが「恭一と今ヶ瀬はお互いを茶化すことをしない」という一文をすくい取ってくださったことがとても嬉しかったです。
 私はこれからも、作品世界の沈黙の音を逃さず、そこに立ち上がる世界と本気で向き合いたいと思いました。会が始まる前に、相田さんがTwitterで、相田さんによる最新の「窮チ論」のタイトルが【美化と侮蔑。】であると明かされていました。
 作品世界を相田さんの〈語り〉と参加者の方々の言葉を頼りに泳ぎ、深く潜ったあとに耳を澄ませて聞いたその文章は、心が震える感動がありました。宝物をいただいたのだと思います。それを得て、自分の文章を改めて読み返すと、書き加えたいな、もっと読み解けたのではないか、と思うところも多々ありますが、そのままここに置きたいと思います。 
追記:この会を終えて、もう一度『窮鼠はチーズの夢を見る』を映画館で観ました。「散歩してこようかな」ではなく、「外でも歩いてこようかな」と言う今ヶ瀬に、今ヶ瀬らしさを感じます。それらの言葉が指す行動は同じであっても、今ヶ瀬にとってはまったく違うなと思います。今ヶ瀬が、恭一の部屋で何をするでもなく座っている姿の美しさは、静寂の中に音もなく灯るあかりのようでした。今ヶ瀬には今ヶ瀬の時間が流れていて、静かに、あらゆる感情を時間に溶かしながら空間に存在する彼がとてもまぶしく映りました。
 そして、自分の記憶違いの箇所も確認できました。クリーニングに出していない恭一の喪服のことを「1週間も」と今ヶ瀬が言ったように思っていましたが、彼から発された言葉は「まだ」でした。本文中のその箇所を直しました。
 序盤の鮨屋のシーンで今ヶ瀬に恭一が笑いかけるように言う「なんなんだよお前は」と、終わり近くのシーンで言う「お前はなんなわけ?」が、とても印象深く響きます。たまきと別れると言う恭一に「らしくない」と言う今ヶ瀬は、自分が知っている恭一が、自分との影響関係において変わっていく姿が怖かったのかもしれません。
 「別れ」は相手自身と、相手といる自分自身を「喪失」するものであるけれど、「一緒にいること」が果たして望ましい、満たされた状態なのかというと、そうとも言えない、ということを私たちは知っています。二人は一緒にいられなくても、何も損なわれていない。隣りにあなたがいないという「別れ」を互いに共有することで強く結びつく関係性もあるのではないか。相手のことがわからない。わからないけど知りたい。わからないからこそ知りたい。さまざまな気づきと問いを与えてくれる映画に出会えてよかったと、心から思います。(2020.10.15)

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