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映画『劇場』について 「眼差しの先にあるもの」

1. 永田の眼差し

 『劇場』を初めて観たのは映画館だった。視点が定まらず、まばたきをしない山﨑賢人演じる永田の表情が映し出され、「いつまでもつだろうか」という語りがスクリーンに響く。行き交う人々は永田にとってはただの通行人でしかない。通行人にとっての永田も同様である。匿名性に溢れた世界において、沙希を見つけることから物語は立ち上がる。ギャラリーの前で同じ作品を見ていた永田と沙希は、眼差しを介して出会う。二人は違う人間であるから視点は異なるが、同じときに同じものを共に見ることができるという、日常に埋もれてしまいがちな当たり前の事実に感動がある。それは演劇を鑑賞する際にも同様であるといえるだろう。

 原作では、一人称の永田が視点人物であり語り手の役割を担う。どこかの時点から、すでに終わった出来事について永田によって語りたいことが選択され、永田によって語らなければならないことが選択され、そこからこぼれ落ちたものについては語られることはない。映画では、原作から使われるシーンが選択される一方で、原作で永田が明確に語ることを避けた出来事がそれとなく映像に描写されたりもしていた。冒頭の「いつまでもつだろうか」という語りによって映画が始められたことは意外でもあった。原作でも語られる言葉ではあるが、その言葉に立ち止まることなく読み進めてしまっていた。それは映画の中で繰り返し用いられる。物語の後半になるにつれ、そのリフレインはより切実さが増していく。

 言葉を生み出すには、形あるものを作り出す創作とは違う困難さがあるように思う。演劇と向き合う永田の、書いては消し、書いては消し、夜を徹しても一行も生み出せない、まるで砂を積むような、自分は何も生み出せないのではないかと不安に駆られる数え切れない幾つもの夜があったであろうことを、山﨑賢人は体現していた。永田はいつも、夜に溶けるかのように、夜をまとっていた。

 沙希の部屋がアパートの2階という設定により、静かな夜道を永田の足音が聞こえること、沙希の部屋の窓からそれが見えること、重い足取りで永田が階段を上ること、そこには上から下を見下ろす視線、そして下から上を見上げる視線があった。この上下の視線の動きも、『劇場』における重要な要素であるように思う。

 映像で見る沙希は、輪郭線がか細くなったり膨張したりするように見える。部屋の中で沙希が占める質量が増減するような、不思議な印象を持った。沙希は永田から目を逸らさない。ふとした場面で、永田に背を向けているときの沙希の表情を追ってしまう。この作品に限らずいえることだが、永田から見えていない場面の沙希の表情は、観客しか知り得ない。沙希の背中は永田にしか見えず、沙希の顔は観客にしか見えない。観客の眼差しによって作品が補完される。そのような一つひとつの要素が『劇場』を立ち上げるための装置となっている。

2.永田から描かれる沙希

   沙希の内面にある気持ちはわからない。永田は「沙希は優しい」「沙希は徹底して僕に甘かった」と語る。そして、永田がひどい男であるということは、青山やかつての劇団の仲間たちの言葉によって確定されていく。永田が永田として存在し、沙希が沙希として存在する二人の関係性は、二人だけで完結することは許されない。常に他者の視点が介在することから逃れられない。人は、接する相手によって、持たれる印象は異なるものである。たとえば、自分に親切にしてくれた〈状態〉を見て、人は「親切な人」だと規定する。親切だという状態は、親切ではない状態を隠す。本質は主観によって姿を隠すのだ。永田は沙希のことを、自分に都合の良いように解釈しすぎていたのかもしれないし、沙希につきまとう影を、見えていたのに見えていないふりをしていたのかもしれない。「本当は、沙希は永田のことをどう思っていたのだろうか」という問いは、永田自身に、そして観客である私たちに問われたことでもあるのではないか。

 二人がカトリック世田谷教会の外のベンチに座るシーンがある。原作にもこのシーンにおける会話は描かれているが、明確な場所は語られていない。二人が昼間の光の中にいるこの場面は、やがて関係性が深まるにつれて夜のシーンが多く描写されていくことを思うと、貴重な場面であるといえる。風景は平等に二人を包むのに、やがて一緒にはいられなくなるのだと知っているからか、優しい風景であればあるほど、二人の違いが浮き彫りになるようにも思えた。

 二人の視線の先にはマリア像がある。ここにマリア像があるということから沙希を聖母マリアに重ねる読み解きをするのは、あまりに短絡的である気がするが、これがプロテスタント教会であったならばマリア像はあるはずがない。永田にとって、自分のすべてを包み込むような存在である沙希を、鑑賞者である私はマリアと重ねて見てしまった。

 永田と沙希が自転車を二人乗りし、永田が一人でしゃべり続ける場面では、「その時はほんとに沙希ちゃんのこと神様だって思ったよ」「沙希ちゃんに初めて会ったときも、沙希ちゃんのこと神様だって思ったよ」「神様、うしろ乗ってますか?」と、沙希を神様に例える。この時の山﨑賢人の「神様、うしろ乗ってますか?」という、努めて明るく振る舞う言い方が印象的だった。沙希の硬くなっていた気持ちが少しずつほぐれていくことが、仕草から伝わってくるシーンだ。永田の指し示す「神様」がどのようなものであるかは規定できないが、永田にとっての沙希は、絶対的な愛と赦しを与えてくれる存在であったことはわかる。

 今まで、この作品のハイライトとして引用されるのは「ここが一番安全な場所だよ」や「手つないでって言うたら明日も覚えてる?」や「本当によく生きて来れたよね」だったと思うが、どれも映画の中でもしっくりくるものだった。手をつないだときの永田の顔や、沙希の間の取り方も、これ以上のものがあるだろうか、と勝手に思ってしまうほどだった。

3.『劇場』がもつ身体性

 沙希の学校の男子からもらった原付で走る永田の前に「ばあああ!」と言いながら沙希が飛び出す場面がある。それを永田は無視するのだが、ラストシーンでは、猿のお面をつけた永田が客席に向かって何度も何度も「ばああああ!」と言う。原作には「開演前のブザーのように」とある。パンフレットで山﨑賢人は「『ばあああああ』だけでどれだけ気持ちが伝わるかなって。沙希ちゃんへの懺悔でもあるので」と述べている。お面が気持ちを雄弁に語る。子どもをあやすときの「いないいないばあ」のように、これは対象者がいなければ成立しない。ただ一人、沙希に向かって発されるこの声に、言葉を超えた、言葉では集約できない思いが込められていた。「泣いた」という感想が表現者に対する最高の賛辞というわけではないが、「ごめんね」と小さく客席でこぼす沙希以上に、観客である私は泣いてしまった。沙希の「ばあああ!」も、永田のそれも、たった一人に向けられた行為である。その二つの行為が、物語の中で呼応する。

 原作者・又吉直樹自身、この作品に対する読者の感想や書評で「永田はとんでもない自己中のクズ男」と書かれたと述べている。

僕は小説を書いたとき、永田を「未成熟でわがままだけど、どこかかわいげがあるやつ」と思っていたんです。でも読者の感想や批評で「とんでもない自己中のクズ男」と書かれて、「え?そうなん?」とちょっと驚いてた。でも今回、映画を観て、「たしかに、これはひどいなあ」と。(山﨑賢人×又吉直樹「劇場を語る」『AERA』 2020年4月13日号)

「まったく共感できなかった」という感想や「沙希がかわいそう」という声もよく聞く。私自身も、ひどい男だ、と思ったが、そんな傍観者として一言で片付けられるような作品ではない。なぜこんなにも、観終わったあとも余韻が残り続けるのか。なぜ、心のどこかでいつもこの作品のことを考えてしまうのか。それは、観客である私たち自身も『劇場』に描かれる世界の当事者だからなのではないか。

 ヘンリ・ナウエンの言葉に次のようなものがある。

(前略)最も個人的なことが最も普遍的な意味を持ち、最も深く隠れていることがごく一般的なことであり、全く個人的であることが最も社会的であることを。私たちがごく親しい者と生きている親密な生き方は、私たちのためだけではなく、すべての人のためのものです。(ヘンリ・ナウエン ナウエンセレクション『今日のパン、明日の糧 暮らしにいのちを吹きこむ366のことば』嶋本操[監修]河田正雄[訳]酒井陽介[解説]2019年 日本キリスト教団出版局)

『劇場』に描かれているのは、最も個人的であり、最も普遍的な意味を持つものなのではないか。だからこそ、『劇場』で語られたことの中に、悲しみや痛みや苦しみや、人生において「この瞬間があったからこの先もどうにかやっていけるかもしれない」という希望を見出すのだと思うに至った。

 そもそも〈劇場〉というものは、「演劇・映画などを見せるために設けた建築物」(『広辞苑』)である。つまり、演劇・映画がなければ成り立たない箱なのである。役者がいなければ、人間がいなければ成立しない。その空間には、人間の〈激情〉が内包されている。

 原作には、地元に帰ることを決めた沙希が部屋を引き上げるため、永田がその部屋を整理する場面で、「ただの箱と化していく部屋を見ていると、それまで呼吸していた部屋が死んでいくようにも思えた。もっとも沙希がいなくなってから既に瀕死の状態ではあったのかもしれないけれど」という語りがある。映画にはその語りはないが、部屋が映し出され、そこに永田がいることで、その存在がそれを語っていた。部屋というものを「体の延長として捉える」と語る芸術家や小説家がいるが、まさに『劇場』における沙希の部屋も、沙希と永田の延長として息をしていたのだといえる。

 この映画の冒頭では、どこか、目線よりもさらに高い視点から眺めた風景に、『劇場』というタイトルが映し出される。それをさらに滲ませた写真がパンフレットの表紙に用いられている。涙で滲んで見える風景のようだ。誰もが、涙で滲んだこんな風景を見たことがあるのではないか。目の前の人を見るとき、涙で滲めば対象は歪み、目を閉じていれば見えなくなり、心が揺れていればまっすぐに見つめられない。これが永田の視点から見た風景であればよい、と願う。見渡す限りに家があり、それぞれの人生がある。外からは部屋の中は窺い知れないが、そこには人間の数だけ、人生の〈劇場〉があるということを、この風景が思い出させてくれる。

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4.ラストシーン

 ラストシーンの屋体崩しの演出は、永田と沙希の内面が舞台の上に立ち上がり、二人に観客の視線が注がれる。これは、永田と沙希にとって、演劇の再構築だ。舞台上の部屋には、いつからか机の上から姿を消した沙希のミシンが、あるべき場所に置いてあることも見逃せなかった。

 以前、又吉が朗読会でアレン・ギンズバーグの詩集『咆哮』に収録された「咆哮にそえるフットノート」を1ページだけ読んだことがあった。

神聖だ!神聖だ!神聖だ!神聖だ!神聖だ!(中略)/世界は神聖だ!魂は神聖だ!皮膚は神聖だ!鼻は神聖だ!舌も男根も手も尻の穴も神聖だ!/あらゆるものは神聖だ!あらゆる人間は神聖だ!(アレン・ギンズバーグ「咆哮にそえるフットノート」『咆哮』古沢安二郎訳 1961年 那須書房)

「神聖だ!神聖だ!神聖だ!」と、「あらゆる人間は神聖だ!」と断言し、「浮浪者も少年天使とおなじく神聖だ!」と、詩は続いていく。その続きが読みたくてすぐに手に入れたのだが、被造物としての神聖さ、剥き出しの人間としての、醜さをさらけ出したうえでの神聖さがあるのだという感慨を得た。この世界の真理に触れるような詩だった。

 満身創痍になりながらも、人生を演劇の中に再構築しようと試みた永田を、「神聖だ」と思いたい。私たちはすでに始まっている世界に生まれ、生きている。「途中」であるこの世界に、「はじまり」と「終わり」を与えて、再構築して『劇場』が作られたのだと思うと、いつまでも消えない感動がある。そして、山﨑賢人の眼差しが光となる。暗転しても、物語が終わっても決して消えない光だ。そして沙希の涙はその光を受け止めたのだ。

 「演劇がある限り、絶望することはないんだ」という、永田の言葉が私の中にいまだに残り、響いている。永田の隣には沙希がいて、客席には永田を見る沙希がいる。これは、原作において永田の語りにある、「過去は常に現在の中にもあって、未来も常に現在のなかに既にあるのではないか。言葉にすると普通のことのようになってしまうのだけど、芝居でなら表現できるかもしれない」という願いの証でもあったのではないか。

 二人の現実は変えられないものであったとしても、演劇がある限り、想像力によって「真実」は作ることができるのだと信じさせてくれるラストシーンだった。眼差しは舞台の上の人間と、客席の人間を、その分断を超えて結びつける。永田も沙希もどこかで生き続けている。それは私たちに残された、大いなる希望だ。

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この文章は、映画評論家・相田冬二さんによる「ZoomトークイベントSpecial 真夏の夜の劇場」映画『劇場』について語る会(2020年9月5日開催)に参加するにあたって書いたものに、引用箇所などを一部加筆修正しました。山﨑賢人さん演じる永田を見つめることを手掛かりにしましたが、映画とともに原作『劇場』についても述べるものになりました。感想を少しTwitterに書きましたが、言葉が闇を照らす光となって、隠れていた星を見つけ、教えてくれた夜でした。私はその感慨を真実のひとつに数えたいです。二度とない〈一回性〉に満ちた、貴重な時間でした。相田冬二さん、参加者のみなさま、そして、会に誘ってくださったTさんに心から感謝いたします。特別な夜になりました。      marie

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