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絶望日記11  絶望がもたらしたもの

この記事で書いた通り、深呼吸を意識して行なったからか、朝日を浴び続けたからか・・、私の「絶望感」はどこかへ行ってしまった。

気がつけば・・、という感じで、どこかへ。

だから、もうタイトルを「絶望日記」にしなくてもよいのだけどね。


絶望とは・・


いろいろ書きたいことはあるのだけど、今日は、私が「絶望」を通して気づいたことを書こうと思う。

それは、ズバリ!

絶望は、希望!


え?
誰の言葉?っていう感じがするけど、本当に思う。心の底から思う。

ちなみに、私が希望を感じる時の「感覚」は、こんな風にちょっとホッコリと美味しいものを味わっている時の感覚に似ている。


なのなのなさんのイラスト


だから、希望を感じたければ、美味しいひとときを作ればいいよね。


話が飛んだ・・。


世の中の大半の人は、良くなろう、幸せになろうと思って生きている。健康でいたい、若さを保ちたい、もっと良い暮らしをしたい、収入を上げたい、、、と思っている。

少なくとも、私はそうだった。だから、ずっと「なんとかしたい」と思い続けてきた。

でも、どうにもならなくなった。お金が減った・・というか底をつき、人生初の借金をした。人との関わりも減り、唯一の健康自慢にも翳りが出た。


「私って、この世界に必要のない人間では・・・」

そう結論づけようとしたこともあった。


なのなのなさん


が、しかし・・・。


それは、必要な経験だったのだと思う。「私が」必要としていたのではなく、「いのち」がその経験を必要としたのだと思う。


「あるもの」を感じること


詳しいことは、私にもまだよく分からない。
でも、なんかそういう感じがする。

絶望がもたらしてくれたことはたくさんある。
その一つに、先にも書いた「希望」だ。


希望とは・・
こうなればいいな、こうなったらいいな、と望むこと

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かつての私には、たくさんの望みがあった。月に一度友達と「予祝会」と称して集まり、望みを出し合って応援しあった。

ノートに望みを書き出した。そのノートは、何冊も何冊も増えた。

でも、ある時、書き溜めたノートを全部捨てた。「何をしても叶わなかったやん」という悲しみとともに。

だから、絶望真っ只中の時、私は望みを考えるのをやめた。過去は、嫌なことがあったとき「じゃあ、どうだったら嬉しい?」「どうなったら幸せ?」「どんな感じになったら最高?」という質問を自分に投げかけていた。

けれど、そんな質問もウザくなった。

「もうやめてー!聞かないでーーーー」という声が、腹の奥から聞こえてきた。

だから、やめた。望むことを。


望むことをやめた私は、ただ「感じる」ことしかなかった。

それは、絶望を感じること。怒りを感じること。悲しみを感じること。寂しさを感じること。

ポジティブに向かおうとせず、ただひたすらにネガティブな感覚を感じ続けることだった。

そして、気づいた。


私は、「あるもの」を「ないこと」にしていたのかも。


「あるもの」とは、悲しみであり、怒りであり、寂しさ・・。とにかく、感じれば不快になるもの。

それは、これまで私が「なくそう」「癒そう」としてきたものばかりだ。


「いのち」は、私にそれを教えてくれた。

「もう、良くなろうとしなくてもいいよ」と言われた気がした。


良くなろうとし続けていた私にとって、その言葉は「ゲームオーバー」を意味するようにも感じられた。だから、抵抗を感じたし、聞こえないふりをした。

でも、ある日決めた。
「なんとかしようとしない」と。

そして、気がつけば深呼吸をし、体の感覚に意識を向けるようにした。


大きく変わったこと


結論から言うと・・・大きく現実が動いた、ということはありません^^

でも「なんか」軽く、「なんか」スッキリ。


なのなのなさん ありがとう!


先々のことを考えると不安もある。
が、そこに意識が向きそうになると「1ヶ月もあれば人は変わる」と思う私が登場。

こういうこと、前にも感じていたが、その時とは明らかに感覚が違うのがわかる。「抵抗がない」のだ。


そう!!!
抵抗がない!!!


そして、ナチュラルに「こうだったらいいなー」という軽い望みが浮かんで来るようになった。

これも変化のひとつ。


ということで、今回はすごく長くなってしまいました。
最後まで読んでくださった方、本当にありがとうございます!

私の絶望期は終わりました。
けれども、この時期があったことで、気づくことが多過ぎ、伝えたいことが山盛りになりました。引き続き、noteに書いていこうと思います。










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