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隼人に出自を持つ神武天皇とは、人肉食信仰を持つスキタイ人だったのか。

今回も、スキタイについて考えていきたいと思います。

次の写真をご覧になってみてください。

スキタイの防衛線、紀元前 339 年、ハンガリーのポルガルに再建
出典:Scythians - Wikipedia en.wikipedia.org


これを見て、私は「吉野ヶ里遺跡」の写真ではないか、と思いました。

しかしこれは、英語版ウィキペディアの「スキタイ」のページに掲載されている写真なのです。

紀元前339年の、スキタイの防衛線の復元とのことですが、吉野ヶ里遺跡の復元物見櫓や城柵にそっくりだと感じます。

吉野ヶ里遺跡1 南内郭
出典:https://ameblo.jp/takuma-burogu2/entry-12531369045.html


それでは、スキタイと吉野ヶ里遺跡との繋がりを見つけることができるでしょうか。

紀元前5世紀頃の黒海周辺諸国


上の地図を見ますと、スキタイやマッサゲタイとの間に、サウロマタイと呼ばれる人々が住んでいた地域があるのが分かります。

次に下の地図を見てみますと、民族名は多種あるようですが、同一習俗を持つ集団として、スキタイと呼ばれる大きな民族集団があったことが分かります。

スキタイ
出典:https://kumacare.hatenablog.com/entry/2020/01/22/093726


そしてそのスキタイに含まれる、サウロマタイの後継であるサルマタイ人の古墳の中に、注目すべき副葬品がありました。

レベデフカ村古墳群
後期サルマタイ時代の注目される遺跡の例としては、ウラル川左岸流域にあるレベデフカ村古墳群が挙げられる。レベデフカの古墳群は8群に分かれ、サウロマタイからサルマタイの埋葬が101基発掘された。そのうちの50基が後期サルマタイ時代に編年されている。埋葬形態は23基がポドボイ墓、17基が幅の狭い竪穴墓、4基が墓壙の広い墓であった。被葬者は仰臥伸展葬、北枕で安置されていたが、2基のポドボイ墓では屈葬であった。また、20体に頭骸変型が確認されたが、そのうちの半数以上がポドボイ墓で検出された。第5墓群23号墳の主体部は墓壙が広く、副葬品が豊かな墓であった。主体部には男性が安置され、中国の内行花文鏡、青銅製フィブラ、金製アップリケ、中央アジア起源のろくろ製赤色片手壺型土器、低い器台のある青銅製パテラ、長い柄のある鉄製柄杓などが副葬されていた。23号墳には追葬墓が造られ、棺に男性が安置され、玉髄の柄頭をもつ鉄製長剣、短剣、長い砥石、青銅製フィブラ、可動式舌の付く青銅製小型バックル、ガラス製ゴブレットが副葬されていた。墓は共に2世紀から3世紀前半に編年された。そして第6墓群1号墳は、東西に並ぶ2つの墳丘を長さ34m、幅10〜14m、高さ0.3〜0.5mの土塁が連結した形であった。埋葬は東側の墳丘下のポドボイ墓で行われていた。副葬品は鉄製長剣、鉄製銜、ボスポロス製ガラス容器片、青銅製フィブラ、円形の金製アップリケ、鉄製ナイフなどである。長剣は”金属製柄頭のない剣”に分類される型式であり、柄頭の部分に円盤状の玉髄を伴ういわゆる”玉具剣”である。この玉髄の上にはシーレーンの顔あるいは獅子=人面が型押しで表現された金製装飾板が取り付けられていた。飾板の縁と額および両頬にガラスが象嵌され、象嵌座の周りは細粒が取り巻いている。A.M.ハザーノフによれば、金属製柄頭のない剣は2世紀〜4世紀に盛行しているが、玉具剣はサルマタイでは類例が少ないという。ガラス容器とフィブラによって墓は2世紀〜3世紀前半に編年された。[24]

サルマタイ - Wikipedia

サルマタイ人の2世紀~3世紀の古墳には、中国の「内行花文鏡」が副葬されていたというのです。2世紀~3世紀の中国とは、後漢から魏の時代であり、日本の弥生時代晩期から古墳時代初期にあたります。

内行花文鏡は、日本の古墳にも副葬されており、中国製の物と日本製の物があるとされています。

そこで疑問に思うのが、スキタイ人は中国製の内行花文鏡を古墳に副葬していたのか、という点です。

そうではなく、スキタイが内行花文鏡の発祥地なのではないか、と感じました。

何故ならスキタイとは、ケルトなのではないかと考えられるからです。

ケルト人(ケルトじん、英語: Celt, Kelt [ˈkɛlt], Celt では [ˈsɛlt] とも)は、以前は黒海沿岸部から車輪付きの乗り物(戦車馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の言語を用いていた民族であると考えられていた。

ケルト人 - Wikipedia

スキタイ人(Scythae, Skythai, : Σκύθαι)は、サイス人古典的スキタイ人ポントスキタイ人とも呼ばれ、古代イラン騎馬遊牧民で、主に現在のウクライナ南ロシアに相当する地域に住み、前7世紀頃から前3世紀頃までポントス草原の領土(彼らの名をとってスキシアまたはスキティカと呼ばれる)を支配していた。スキタイ人は、王族スキタイ人と呼ばれる戦士貴族に率いられていた。

スキタイ - Wikipedia

ケルト人とは、黒海沿岸部から馬と戦車を持ってヨーロッパに渡来したということです。

スキタイ人とは、クリミア半島を含む、黒海沿岸部から南ロシアにかけての地域にいた遊牧騎馬民族で、王族スキタイという戦士貴族に率いられていたということです。

このようにケルトとスキタイとは、黒海・馬・戦闘というキーワードで繋がります。

そしてスキタイの古墳に副葬されていた「内行花文鏡」の文様とは、ケルトの一年の車輪の文様なのではないかと私は考えます。

内行花文鏡
一年の車輪
The Wheel of the Year in the Northern Hemisphere.

Wheel of the Yearは、現代のさまざまな異教徒によって観察されている季節の 祭りの年次サイクルで、そのの主な太陽の出来事 (夏至春分) とそれらの中間点をマークします。

Wheel of the Year - WikipediaよりGoogle Translateによる日本語訳


内行花文鏡の文様がケルトの一年の車輪であるなら、ケルトであるスキタイが、内行花文鏡の発祥地である可能性が高いのではないでしょうか。

ここで、吉野ヶ里遺跡の話に戻ります。

下記のリンク記事によりますと、弥生時代の遺跡である佐賀県の吉野ケ里遺跡では、儀式を行う主祭殿などがあったとされる「北内郭」の中心線を通る軸線が、吉野ヶ里遺跡が繁栄した、西暦216年と235年の冬の満月の月の出の位置とピタリと一致するとのことです。そして「北内郭」にある物見やぐらの建物は、それぞれが12月、1月、2月の満月が昇る方角に向けて建設されていた、というのです。
弥生時代は月で暦を理解?文字なき時代のカレンダーを探って


吉野ヶ里遺跡で儀式を行っていた人々は、月信仰を持っていたと考えられます。

スキタイの中には、「タウロイ」と呼ばれる人々がいました。

タウロイギリシャ語:Ταῦροι)は、古代ギリシア時代にクリミア半島南部に住んでいたスキタイ系民族。クリミア半島の古名であるタウリカタウリスタヴリダはこの民族名に由来する。

タウロイ - Wikipedia

タウロイは難破漂流した者や、黒海上で襲って捕らえたギリシア人を「処女神」の生贄とする。まず、型のように浄祓を行った後、生贄の頭を棍棒で打つ。次に胴体を神殿の立っている断崖の上から突き落とし、首は棒に刺しておく。という説もあるが、別の説では首については同様であるが、胴体は崖から落とすのではなく、地中に埋めるという。タウロイ自身の言うところでは、生贄を供える女神はアガメムノンの娘イピゲネイアであるという[2]。また、敵の捕虜については、捕らえた者が首を刎ねて家に持ち帰り、屋上(煙突の上)に長い棒に刺して高く掲げておく。この首が守護者として屋敷全体を見張ってくれるように、高く掲げておくのだという。彼らは掠奪と戦争を生活の手段にしているのである。

— ヘロドトス『歴史』巻4-103

タウロイ - Wikipedia


タウロイの人々は、イピゲネイアという女神に生贄をささげていました。

アルテミスをアルテミス・イーピゲネイアと呼称した例があることから、イーピゲネイアは本来アルテミスの分身またはアルテミスと同一視された女神だったと考えられている[1]

イーピゲネイア - Wikipedia


イーピゲネイアとはアルテミスのことであり、月の女神とされています。

スキタイの中でもタウロイ人とは、月の女神を信じる人々であったことが分かります。

ここで月信仰から、スキタイと吉野ヶ里が繋がります。

前回の記事では、スキタイの中でマッサゲタイ人と呼ばれる人々が、太陽神のみを崇拝していたことが分かっています。

スキタイの中には、月神信仰と太陽神信仰の両方があったのです。

古代エジプト神の中に、ホルスという神がいます。

通常は、隼の頭を持ち太陽と月の両目を持つ成人男性として表現される。初期は、隼そのものの姿だったが時代とともに人間の姿(幼児から成人)をとるようになる。

ホルス - Wikipedia

ホルス神は、隼の頭を持つ成人男性の姿で表されるため、日本の「隼人」との関連が考えられます。

「隼の人(はやぶさのひと)」であるホルスとは、太陽と月の両目を持っているというのです。

これは、太陽神と月神の両方の信仰を持っているスキタイ人のことなのではないでしょうか。

ここで、スキタイと隼人との繋がりが感じられます。

隼人のルーツは、鹿児島県にあります。

日本神話の中で、木花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)とは、神阿多都比売(かむあたつひめ)、神吾田鹿葦津姫(かむあたかあしつひめ)と表記されています。

阿多・吾田(あた)と言えば阿多隼人(あたはやと)で、木花之佐久夜毘売とは、鹿児島県の阿多隼人の系譜であると考えられます。

そして木花之佐久夜毘売の子であるとされているのが、火明命と彦火火出見尊です。

火明命とは徐福のことであると言われており、彦火火出見尊とは神武天皇の系譜とされています。

これらのことから、徐福と神武天皇とは「隼人」に出自を持つと考えられます。

そして徐福は、吉野ヶ里を拠点にしていたと言われています。吉野ヶ里遺跡の近くには金立神社があり、祭神として「秦の徐福」が祀られています。

スキタイ人は、かまどの女神であるヘスティアーを最も重んじていたようです。

スキタイが祀る神として最も重んずるのがヘスティアー(かまどの女神)で、ついでゼウスゲー(大地の女神)で、スキタイはゲーをゼウスの妻としている。

スキタイ - Wikipedia

京都府宮津市にある籠神社には、徐福である火明命が祀られています。その籠神社には、かまどの神様の御札があるのです。

かまどの神様 籠神社


徐福もスキタイ人と同じく、かまどの神を信仰していたようです。

そしてスキタイ人と馬のように、隼人と馬というのも関わりが深いようです。

日向駒 - 『日本書紀』に推古天皇が「駒ならば日向の駒」と歌を詠んだ記事が見られるが、当時の日向は大隅・薩摩を含んだ地域であり、森浩一は「隼人の馬」を指すものではないかと指摘している[28]。この時代の南九州はまだ征圧が確定的ではない為、内国の馬とは区別視されたものと見られる。また、『新撰姓氏録』には額田部の先祖伝承で、允恭天皇の治世、薩摩と戦をしている時、額に「田」という字のつむじのある馬を手に入れ、天皇に献上したので、額田という名を与えられたとの記述があり、隼人の馬である事から、南方に繋がるものとの推定もある[29]。これらの記事からも、隼人の馬が文化的にも内国とは別の扱いを受けていた事がわかる(現在でも、地理的・風土的特色から御崎馬が存在している)。この時代の日向馬が大和に送られたことは遺骸からも判明しており、大阪府四條畷市の蔀屋北遺跡からは全身骨格(体高125センチ、5世紀頃)が出土しており、御崎馬の類と見られている[30]

隼人 - Wikipedia


前回の記事で、マッサゲタイやイッセドネスと呼ばれるスキタイ人が人肉食信仰を持っていたこと、クロ宗という人肉食信仰を持っていたヤジロウという日本人が、千利休であった可能性をお伝えしました。

マッサゲタイ
マッサゲタイの国では生きていられる年齢の制限というものが格別あるわけではないが、非常な高齢に達すると、縁者が皆集まってきてその男を殺し、それと一緒に家畜も屠って、肉を煮て一同で食べてしまう。こうなることがこの国で幸せな死に方とされており、病死した場合は食わずに地中に埋め、殺されずに生き延びられなかったのは不幸であったと気の毒がる。[10]

マッサゲタイ - Wikipedia

イッセドネス人
ポンポニウス・メラの『世界地理』によると、「イッセドネス人は親の葬儀で喜びを表し、集まって祝祭を催す。そして故人の遺体を引き裂いて家畜の胎児のミンチと混ぜ合わせ、宴に来た人々にふるまい、食べつくす。頭蓋骨は磨き上げて黄金を巻き、に使う。これらの行事はイッセドネス人における最も深く親に尽くす義務行為である。」という。[4]

イッセドネス人 - Wikipedia


日本の人肉食信仰「クロ宗」についても、RAPT理論によって解明されています。


アンジェリーナ・ジョリー監督映画「アンブロークン」は人肉食信仰「クロ宗」を隠蔽するために上映中止にされた可能性大。


イエズス会と真言密教と浄土真宗と人肉食信仰「クロ宗」の奇妙な接点。フランシスコ・ザビエルを日本に招いた「ヤジロウ」から分かる悪魔教の現実。


ヤジロウは薩摩国あるいは大隅国(両国とも鹿児島)の出身である[2]

ヤジロウ - Wikipedia

ヤジロウとは鹿児島県の出身であり、隼人に出自を持つ可能性が高いと考えられます。

甑隼人
甑島に居住した住人。『続日本紀』769年(神護景雲3年)の条に記事がみえるが、「甑隼人麻比古」と言う個人名の記述であり、集団の区分では薩摩隼人に属する。

隼人 - Wikipedia

鹿児島県の下甑島(しもこしきしま)に、人肉食信仰「クロ宗」の信仰があったとされています。

集落の中心から離れたごく一部の地域では、キリスト教真宗の流れを汲むとみられるクロ教と呼ばれる土着宗教が密かに信仰されていたとされる[9][14]

下甑町片野浦 - Wikipedia


このように人肉食信仰からも、スキタイ人と隼人とが繋がります。

鹿児島県の阿多隼人(あたはやと)に系譜を持つと考えられる、木花之佐久夜毘売の子であるとされているのが、徐福と神武天皇であるのです。

このことは、何を意味しているのでしょうか。


天皇家は悪魔の象徴(シンボル)に満ちている。


天皇家が悪魔崇拝に関わっているとしか思えない幾つかの理由。


天皇がどこからどう見ても悪魔崇拝者であるという証拠。


日本が世界最古の悪魔崇拝の聖地であるという幾つもの証拠。


悪魔崇拝者を根本的に滅ぼし尽くす方法。それは「霊界」の奥義を知ることから始まります。

それは、先ず私たちが「霊界」について知ることです。つまり、この世に悪魔が存在していること、そしてこの悪魔を拝む者たちがこの世を支配しているということ、しかし神はこの悪魔よりも強く、神なら悪魔を滅ぼすことができるということ。これらのことを知り、これらを信じて悪魔の滅亡を神に向かって祈ることです。


何をどう祈ればいいのか、具体的な方法をお教えします。自分の人生も世界の運命も変える鍵がここにあります。



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