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千利休とは、人肉食信仰「クロ宗」を信じていた「ヤジロウ」だったのか。

今回は、サカ族について考えていきたいと思います。

サカ (Saka) は、紀元前6世紀頃から中央アジアに現れるイラン系遊牧民族。サカとはペルシア側の呼び名で、古代ギリシアではサカイ (Sakai) と呼んだ。また、中国の史書では(そく[1])と呼ばれる種族がサカにあたるとされるが異論もある[2]

アケメネス朝の『ベヒストゥン碑文』ではサカ、古代ギリシアの歴史書ではサカイと記された民族は、ヘロドトスによると古代ギリシア人がスキタイと呼ぶ北方草原民族のペルシア側の呼び名であるとしているが、一方で大プリニウスはスキタイ人のうちペルシアに近い場所に住む一部族のこととしている。

サカ - Wikipedia

スキタイはペルシア人からはサカ人と呼ばれていたが、言語的には同じイラン系民族に属すると考えられている。

世界史の窓 スキタイ


上記により、サカという民族とは、スキタイであるという前提で進めていきます。

そして注目すべき点は、サカとはペルシャ側の呼び方で、古代ギリシャでは「サカイ」と呼んだという点です。

「サカイ」と聞いてすぐに思い起こされるのが、大阪(おおさか)の堺(さかい)市です。

ではスキタイである「サカイ」と、日本の「さかい」とは繋がるのでしょうか。

スキタイ王陵はゲッロイの国土内にある。スキタイの王が死ぬと、この土地に四角形の大きい穴を掘り、穴の用意ができると遺骸を取り上げる。遺体は腹を裂いて内臓を取り出し、つぶしたキュペロン(かやつり草)、香料、パセリの種子、アニスなどをいっぱいに詰めて縫い合わせ、全身に蝋が塗られる。取り上げられた遺骸は車で別の国へ運ばれ、その国で耳の一部を切り取り、頭髪を丸く剃り落とし、両腕に切り傷をつけ、額と鼻を掻きむしり、左手を矢で貫くといった作業をする。その後も遺体はスキタイのすべての属国をめぐり、最後に王陵のあるゲッロイの国に到着する。遺体を墓の中の畳の床に安置し、その両側に槍をつき立てて上に木をわたし、むしろをかぶせる。墓中の広く空いている部分には故王の妾を一人絞殺して陪葬し、酌小姓,料理番、馬丁、侍従、取次役、馬も陪葬し、副葬品として万般の品々から選び出した一部と、黄金の盃を一緒に埋める。その後は全員で巨大な塚を盛り上げるが、なるべく大きな塚にしようとわれがちに懸命になって築く。一年後、今度は故王の最も親しく仕えた者50人、最も優良な馬50頭を絞殺して内臓を取り除き、中にもみ殻を詰めて縫い合わせる。その死体たちを杭で固定して騎乗の状態にさせ、王墓の周りに配置する。以上が王の葬式である。

スキタイ - Wikipedia

上記で注目すべき点は、スキタイ王の葬送の際に、王に仕えた者50人と馬50頭を殺して内臓を取り除き、中にもみ殻を詰めて縫い合わせ、その死体を杭で固定し騎乗の状態にさせ、王墓の周りに配置するという点です。

これは、日本の大王墓にあたる古墳に並べられている、人型埴輪と馬型埴輪列を彷彿とさせます。

大阪府高槻市 今城塚古墳の復元埴輪祭祀場
出典:エリア継体vol.3 大王の埴輪まつり


それでは、大阪府の堺市について見ていきます。

南北朝時代(南朝と勘合貿易)
南北朝時代には、南朝方の住吉大社宮司津守氏に関係して南朝の外港的役割を担うようになり、廻船が発着する港へと発展した。地下請の特権を得て、室町時代には足利将軍家管領細川氏などが行った日明貿易(勘合貿易)の拠点となる。戦国時代にはルソンカンボジアなど東南アジア方面での貿易で栄えた。

堺市 - Wikipedia

堺の港は、南北朝時代から室町時代には、日明貿易の拠点として発展し栄えたということです。

室町時代・戦国時代(東洋のベニス)
応仁・文明の乱以後、それまでの兵庫湊(大阪湾北西部、現在の兵庫県神戸市)に代わり堺は日明貿易の中継地として更なる賑わいを始め、琉球貿易・南蛮貿易の拠点として国内外より多くの商人が集まる難波津住吉津などと同様、国際貿易都市としての性格を帯びる。
キリスト教布教のため来日していたイエズス会宣教師ガスパル・ヴィレラは、その著書『耶蘇会士日本通信』のなかで、「堺の町は甚だ広大にして大なる商人多数あり。この町はベニス市の如く執政官によりて治めらる」と書いた[9]。この文章によって、堺の様子は当時の世界地図に掲載されるほどヨーロッパ世界に認識されることとなる。ヴィレラの後継宣教師であるルイス・フロイスもまた、マラッカの司令官宛に「堺は日本の最も富める湊にして国内の金銀の大部分が集まるところなり」と報告、その著書『日本史』のなかで堺を「東洋のベニス」と記している[9]

堺市 - Wikipedia


さらに注目すべき点は、戦国時代の堺にイエズス会の宣教師が来日しており、堺は「東洋のベニス」と賞されたということです。

そして堺と言えば、「堺の商人」というのも有名です。

旺文社日本史事典 三訂版 「千利休」の解説
1522〜91
安土桃山時代の茶人。千家流茶の湯の開祖,侘 (わ) び茶を大成
名は与四郎,宗易 (そうえき) 。堺の商人出身で,茶道を北向道陳 (きたむきどうちん) ・武野紹鷗 (じようおう) に学んだ。織田信長・豊臣秀吉の茶頭 (さどう) をつとめ,1585年秀吉の禁中茶会・北野大茶湯を主宰。また草庵風茶室を創意した。「茶の湯天下一の名人」とうたわれたが,秀吉の怒りにふれて切腹させられた。

コトバンク 千利休


茶人として有名な「千利休」とは、堺の商人出身だったのです。

わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。また、今井宗久津田宗及とともに茶湯の天下三宗匠と称せられ、「利休七哲」に代表される数多くの弟子を抱えた。また、末吉孫左衛門の親族である平野勘平衛利方と親しく交流があった。子孫は茶道三千家として続いている。千利休は天下人・豊臣秀吉の側近という一面もあり、豊臣秀吉が旧主・織田信長から継承した「御茶湯御政道」の中で、多くの大名にも影響力をもった。しかし秀吉との関係に不和が生じ始め、最期は切腹を命じられた。死に至った真相については諸説あり、定まっていない。

和泉国商家(屋号「魚屋(ととや)」)の生まれ。父は田中与兵衛(田中與兵衞)、母の法名は月岑(げっしん)妙珎、妹は宗円(茶道久田流へ続く)。

千利休 - Wikipedia

千利休とは、天下人・豊臣秀吉の側近という一面もあったというのですから、ただの商人や茶人であった訳ではありません。

日本に来た宣教師たちは、当時の日本人のお茶への執着ぶりに驚きつつ、それを布教活動におおいに利用したといわれています。

濃茶と聖杯の「飲みまわし
茶道とミサ(教派により聖餐式、聖体礼儀など。ここではミサに統一)の「似ている」箇所をあげるとすると、まず茶道の濃茶では一つの茶碗から抹茶をまわし飲みし、ミサではパンとぶどう酒の入った聖杯(カリス)をまわし飲みするところです。
また、利休の死から100年後に書かれた『茶湯古事談』には、「むかしハ濃茶を一人一服つつたてしを、其の間余り久しく主客共に退屈なりとて、利休か吸茶(回し飲みのこと)に仕そめしとなん」とあり、各服だての濃い茶を回し飲みの形式にしたのは利休だとされています。

茶巾と聖布
茶道の場合は、濃い茶のまわし飲みの後、帰ってきた茶碗にお湯を入れて回してすすぎ、そのお湯を捨ててから茶巾という長方形の白い布で拭く所作があり、ミサのほうは、聖体拝領が終わった後はパテナ(パン皿)を拭いて、カリス(聖杯)に水を注いですすぎ、掃除布(プリフィカトリウム、聖布とも呼ばれる)という、こちらも細長い白い布で拭きます。
両方ともこれを縦に三つ折りにして使いますが、これを横に二つ折りにするか、それをもう一度二つ折りにするかという違いはあるものの、たたむ動作を見ている人には非常に似ている印象を与えます。

にじり口は聖書の言葉に通じる
さらに、茶室の入口である「にじり口」も利休の創作とされていますが、露地の中門も狭い門であり、にじり口は、身を小さく縮めなくては入れないごく狭い入口です。

これは「狭い門から入れ」という聖書の言葉(マタイ福音書7:13)に通じるのではないかといわれています。

戦国武将、高山右近や蒲生氏郷もキリシタン!茶道とキリスト教の関係はものすごく深かった!


千利休は、キリシタンだったと言われており、キリスト教のミサに見られる象徴的な作法などを、茶の湯の中に上手く取り込んでいたことが分かります。

スキタイは文字を持たず、できるだけ自らを目立たせず「潜入」という形で隠然と地球運営に力を発揮してきた種族と考えられます。

ケルト人と謎の古代人スキタイ(5)


さらに千利休について調べると、開口神社(あぐちじんじゃ)というのが目に留まりました。

天文4年(1535年)には念仏寺の築地修理料として堺南荘の豪商110余名が一人当たり一貫文ずつの銭を寄進しているが、このなかには茶人の武野紹鴎千利休(「せん与四郎」名義)、奈良春日神社春日大社)の石灯籠にも名を残す魚屋弥次郎といった有名人の名も記されている。これら豪商から選ばれた10数人が納屋衆、会合衆となって堺の自治組織の運営に当たり、開口神社の祭礼で重職を勤めたのである。

開口神社 - Wikipedia

ここで、驚くべき発見がありました。

開口神社の寄進者の中に、魚屋弥次郎という人物が記されているというのです。これは、あのヤジロウなのではないでしょうか。

ヤジロウ(弥次郎、1511年永正8年)頃? - 1550年天文19年)頃?)は、史料上確かな最初の日本人キリスト教徒と目される人物[1]

ヤジロウが以前何をしていたのかは不明確であるが、フロイスの『日本史』では八幡(海賊)であったと書かれており[6]、海賊や貿易など海に関わる仕事だったと考えられている。

ヤジロウ - Wikipedia

ヤジロウという人物と悪魔教についても、RAPT理論によって解明されています。


イエズス会と真言密教と浄土真宗と人肉食信仰「クロ宗」の奇妙な接点。フランシスコ・ザビエルを日本に招いた「ヤジロウ」から分かる悪魔教の現実。


ここで注目すべき点は、千利休とヤジロウはともにキリシタンだったと言われており、開口神社の同時期の寄進者に、千利休と魚屋弥次郎の名が連ねられているという点です。

千利休の生没年は1522年〜1591年であり、ヤジロウは1511年頃〜1550年頃とされています。

千利休は商家の生まれであり、屋号は「魚屋(ととや)」名は「与四郎」でした。合わせれば、魚屋与四郎となります。

魚屋弥次郎という名前、これは千利休である「魚屋与四郎」のことなのではないでしょうか。もしも千利休がヤジロウであったのであれば、千利休とは人肉食信仰である「クロ宗」の信者であった可能性が出てきます。

このヤジロウは、キリスト教の神様のことを「大日」と訳したと言われています。

大日とは、大いなる太陽との意味であるとされていますので、太陽神と考えても差し支えないかと思います。

ここでスキタイの話に戻ります。中央アジアの遊牧民に、マッサゲタイと呼ばれる人々がいました。

マッサゲタイギリシア語: Μασσαγέται Massagetai、ラテン語:Massagetae)は、紀元前6世紀から紀元前1世紀までその存在が確認される中央アジアの遊牧民および遊牧国家。カスピ海の東側に住んでいたと思われる。

マッサゲタイ - Wikipedia


マッサゲタイ人とは、どのような人々なのでしょうか。

その起源は明らかではないが、ヘロドトスの『歴史』には「スキタイ人と同種であるとする人もいる」とある。

ストラボン紀元前1世紀頃の記録として「カスピ海あたりの住民をダアイと呼び、それよりもっと東方の諸族にはマッサゲタイ、およびサカイが住む。」と記している。[8]

ヘロドトスは「マッサゲタイ人の服装はスキタイ人のものによく似ており、その生活様式も同様である。」「農耕は全くせず、家畜と魚を食料として生活している。魚はアラクセス河からいくらでも採れる。また飲み物には専ら乳を用いる。」と記している。

マッサゲタイ - Wikipedia


マッサゲタイ人とは、スキタイ人と同一民族であるようです。

宗教
として崇拝しているのは太陽ヘリオス)だけで、馬を犠牲に供える。神々の中で最も足の速い神(太陽神)には、生きとし生けるものの中で最も足の速いものを供えなければならないらしい。[11]

マッサゲタイ - Wikipedia

上記で注目すべき点は、マッサゲタイ人が神として崇拝しているのはヘリオスという太陽神だけだ、という点です。

マッサゲタイ人はスキタイと同じ民族であり、スキタイとは「サカイ」のことでした。

このことから「サカイ」の人々は、太陽神を信仰していた可能性が高いと考えられます。

ヤジロウが、キリスト教の神様のことを大日(太陽神)と訳したのは、ヤジロウがスキタイであり「サカイ」である、マッサゲタイ人であった可能性を示しているのではないでしょうか。

そのヤジロウと同一人物の可能性がある千利休は、大阪の堺(さかい)の商人出身でした。

太陽信仰から、スキタイである「サカイ」と、大阪の堺(さかい)が繋がりました。

これは単なる偶然でしょうか。


「本能寺の変」の黒幕はイエズス会と島津家と毛利家だった可能性大。または千利休がドルイド教徒だったという確たる証拠。



千利休がドルイド教徒だった、ということもRAPT理論によって解明されています。

そして千利休と同一人物と考えられる、ヤジロウは「クロ宗」と呼ばれる人肉食信仰を持っていたと考えられます。

それではスキタイであり「サカイ」である、マッサゲタイ人はどうでしょうか。

マッサゲタイ
マッサゲタイの国では生きていられる年齢の制限というものが格別あるわけではないが、非常な高齢に達すると、縁者が皆集まってきてその男を殺し、それと一緒に家畜も屠って、肉を煮て一同で食べてしまう。こうなることがこの国で幸せな死に方とされており、病死した場合は食わずに地中に埋め、殺されずに生き延びられなかったのは不幸であったと気の毒がる。[10]

マッサゲタイ - Wikipedia


マッサゲタイ人とは、同族の人を殺し屠った家畜の肉と一緒に煮て、食べてしまうのだ、ということです。

ヘロドトスの『歴史』には「マッサゲタイ人は東方のアラクセス河のかなたにイッセドネス人と相対して住む。」

マッサゲタイ - Wikipedia

マッサゲタイ人と相対して住んでいたのが、イッセドネス人と呼ばれる人々でした。

イッセドネス人
ポンポニウス・メラの『世界地理』によると、「イッセドネス人は親の葬儀で喜びを表し、集まって祝祭を催す。そして故人の遺体を引き裂いて家畜の胎児のミンチと混ぜ合わせ、宴に来た人々にふるまい、食べつくす。頭蓋骨は磨き上げて黄金を巻き、に使う。これらの行事はイッセドネス人における最も深く親に尽くす義務行為である。」という。[4]

イッセドネス人 - Wikipedia

イッセドネス人は、親が亡くなると祝祭を催し、遺体を引き裂き家畜の胎児のミンチと混ぜ合わせ、宴に来た人々にふるまい食べつくす、ということです。

マッサゲタイ人もイッセドネス人も、人肉食の習俗を持っていたということになります。

このことから、民族の呼称の違いはあれどスキタイ(サカイ)という一括りの民族が、公然と人肉食の習俗を持っていた、と考えられます。

千利休がヤジロウであるなら、堺(さかい)の商人である千利休は、クロ宗という人肉食信仰を持っていた可能性があるのです。

このように、人肉食信仰という極めて特殊な習俗から、大阪の堺(さかい)と、スキタイの(サカイ)が繋がりました。

サカ族について調べ始めたことから、千利休という人物の正体が、あの「ヤジロウ」であった可能性までもが見えてきました。


今この時代は、分からないことが全て分かるようになる、という奇跡の時代です。


サタンは私たち人間が何もかも分からなくなるようにし、神様は私たち人間が何もかも分かるように導かれる。だから、分からないことは全て分かるまで研究し、祈り求める者となりなさい。


非真理を受け入れた人はどんな悩みも疑問も解決できず、真理を受け入れた人はどんな悩みも疑問もすべて解決し、全てが分かる喜びに満たされて生きられる。


サタンは人々から考える力を奪い取り、主は人々に考える楽しみをお与えになる。


「考える楽しみ」とは、お金もほとんど必要ありませんし、永遠に尽きることがないものだと思います。

このような最高に次元の高い楽しみを与えてくださった神様とRAPTさんに、心から感謝をささげます。


RAPTさんのたゆまぬ御尽力によって、この世のものとは全く次元が違う、何度聞いても何度読んでも新たな悟りと叡智を得られる、全く飽きることがない、人類史上最高次元の完全なる真理と、真のキリスト教の神様による、未だかつて誰も聞いたことがない全く新しい成約時代の御言葉が、今この時代を生きる私たちに与えられました。


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