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鹿踊りと藤原氏と悪魔崇拝の繋がり。
今回は、鹿踊(ししおどり、しかおどり)について考えていきたいと思います。
鹿踊(ししおどり、しかおどり)は、江戸時代の南部氏領(盛岡藩陸奥国領)、および、伊達氏領(仙台藩・一関藩の陸奥国領、および、宇和島藩伊予国領)、すなわち現在の岩手県、宮城県、そして愛媛県宇和島市周辺で受け継がれている郷土芸能。
シカの頭部を模した鹿頭とそれより垂らした布により上半身を隠し、ささらを背負った踊り手が、シカの動きを表現するように上体を大きく前後に揺らし、激しく跳びはねて踊る。
獅子舞(ししまい)は、獅子頭(ししがしら)を付けて舞い踊りますが、鹿踊(ししおどり)は鹿の角と鹿の頭を模した鹿頭を付けて舞い踊ります。
鹿踊をご存知ない方は、次の動画を一度ご覧になってみてください。
この鹿踊には、八人一組で踊る八鹿踊・八ツ鹿踊(やつしかおどり)という演目があります。
「八(はち)」で思い起こされるのが、八大龍王(はちだいりゅうおう)です。
龍の角とは、鹿の角がモチーフとなっていると言われています。
そのため八鹿踊とは、八頭の鹿であるとともに八匹の龍を表しているのではないかと想像しました。
次に作家の宮沢賢治が書いた、『鹿踊りのはじまり』という作品の一部を引用します。
鹿はそれからみんなばらばらになって、四方から栃のだんごを囲んで集まりました。
そしていちばんはじめに手拭に進んだ鹿から、一口ずつ団子をたべました。六疋めの鹿は、やっと豆粒のくらいをたべただけです。
鹿はそれからまた環になって、ぐるぐるぐるぐるめぐりあるきました。
嘉十はもうあんまりよく鹿を見ましたので、じぶんまでが鹿のような気がして、いまにもとび出そうとしましたが、じぶんの大きな手がすぐ眼にはいりましたので、やっぱりだめだとおもいながらまた息をこらしました。
太陽はこのとき、ちょうどはんのきの梢の中ほどにかかって、少し黄いろにかがやいて居おりました。鹿のめぐりはまただんだんゆるやかになって、たがいにせわしくうなずき合い、やがて一列に太陽に向いて、それを拝むようにしてまっすぐに立ったのでした。嘉十はもうほんとうに夢のようにそれに見とれていたのです。
ここで、注目すべき点が二点あります。
鹿はそれからまた環になって、ぐるぐるぐるぐるめぐりあるきました。
鹿のめぐりはまただんだんゆるやかになって、たがいにせわしくうなずき合い、やがて一列に太陽に向いて、それを拝むようにしてまっすぐに立ったのでした。
スウェーデンの夏至祭では、ポールのまわりを輪になって踊るそうです。
夏至祭と言えば、ストーンヘンジが有名です。
ストーンヘンジとは、ドルイド教の神殿であり天文台であり、人身御供の場であったということです。
夏至の日に、ヒール・ストーンと呼ばれる高さ6mの玄武岩と、中心にある祭壇石を結ぶ直線上に太陽が昇ることから、設計者には天文学の高い知識があったのではないかと考えられている。
夏至祭とは、太陽を拝する祭典とも言えるのではないかと思います。
そして太陽信仰とは、悪魔崇拝であることがRAPT理論によって解明されています。
古代エジプトの太陽信仰=悪魔崇拝が、現在の日本の天皇家へと流れ着き、天皇家を最大級の財閥にするまで。
宮沢賢治の『鹿踊りのはじまり』という作品に書かれている、「輪になってぐるぐるめぐる」と「太陽を拝む」という鹿の行動が、この夏至祭で行われることと一致しているのです。
このことは、何を意味しているのでしょうか。
それは「鹿踊り」という郷土芸能が、太陽崇拝と悪魔崇拝に関わるものなのではないか、ということです。
宮沢賢治は現在の岩手県花巻市の生まれですので、本場の鹿踊を体験していたと思われます。
鹿踊は、伊達氏と南部氏領で受け継がれています。
伊達氏とは、藤原山蔭(ふじわら の やまかげ)の子孫ということで、藤原北家となるようです。
南部氏の系譜を辿ると嵯峨天皇に繋がり、嵯峨天皇の生母は藤原乙牟漏(ふじわら の おとむろ)ですので、南部氏も藤原氏の系譜となります。
これらのことによって、藤原氏が鹿踊を創始したのではないかと考えられます。
鹿踊とは、悪魔祓いの意義もあるということです。
悪魔を祓う必要があるということは、悪魔が存在する、ということが前提になります。
鹿踊とは、『シカの動きを表現するように上体を大きく前後に揺らし、激しく跳びはねて踊る。』ということでした。
激しく跳びはねて踊るという動きとは、悪魔あるいは悪霊に憑かれた人の動きを再現したものなのかも知れません。
原初の鹿踊とは、悪魔召喚の儀式であった可能性も考えられます。
『鹿踊りのはじまり』の中で、嘉十という主人公が自分の食べた栃の団子を鹿のために残し置き、その団子を六頭の鹿が食べるという「共食」によって、人と神(鹿)が一体となる宗教的概念が描かれています。
つまり、嘉十が栃の団子を鹿に捧げて、同じ一つの食べ物を「共に食べる」という行為をした結果は、鹿の言葉が理解できるようになったこと、そして鹿から見たこの自然の美しさと愛しさを、一緒になって分かち合えたことだったわけです。これは大嘗祭において、天皇が神膳供進と共食儀礼により皇祖神と一体化するということにも匹敵する、素晴らしい効果だったのではないかと思うのですが、どうでしょうか。
賢治の作品世界においては、もともと「人間と動物」とか「人間と自然」の間が境目なく連続している感がありますが、「共食」によってその連続性が、さらに促進されたと言えるかもしれません。
共食儀礼の行われる「大嘗祭」についても、RAPT理論によって解明されています。
『鹿踊りのはじまり』という作品の中で、共食儀礼によって人と鹿が一体となる概念が表されていました。
このことから鹿踊に表される鹿とは、神として崇められていたと考えられます。
岩手県奥州市江刺にある、「えさし藤原の郷(えさしふじわらのさと)」では、八ツ鹿踊の定期公演が行われているということです。
奈良県奈良市にある春日大社には、藤原氏の氏神が祀られています。
奈良時代の神護景雲2年(768年)に平城京の守護と国民の繁栄を祈願するために創建され、中臣氏・藤原氏の氏神を祀る。主祭神の武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿を神使とする。
武甕槌命(たけみかづち)が、「白鹿」に乗ってきたとされ、鹿を神使としているということです。
神の使いである鹿から思い起こされるのが、ケリュネイアの鹿です。
ケリュネイアの鹿(ケリュネイアのしか、古代ギリシャ語: Κερυνῖτις ἔλαφος, ラテン文字転写: Elaphus Ceryniti)は、ギリシア神話に登場する巨大な雌鹿。女神アルテミスの聖獣でもある。
ギリシャ神話のアルテミスは、月の女神とされています。
日本全国に月読神社はあるが、系統の違いで男神、女神と分けられる。それは発音でも分けられて、同じ月読(ツクヨミ/ツキヨミ)の訓みでも、月読の「ヨ」は乙音で、月夜見の「ヨ」は甲音という差異がある。この差異に着目すれば、月読神は男神で山祇系(中臣氏や隼人族など)系統が奉斎し、月夜見神(と月神)の方は女神の豊受大神であって海人族系統が奉斎したという整理ができる。
日本で月神を祀っていたのが、中臣氏や隼人族だということです。
中臣鎌足が藤原氏の始祖ですので、藤原氏も月神を祀っていたと考えられます。
そのため、藤原氏の氏神である武甕槌命の神使が「鹿」とされているのではないでしょうか。
武甕槌命が降り立ったとされるのが、奈良県奈良市にある春日大社の東側にある、御蓋山(みかさやま)頂上の浮雲峰(うきぐものみね)です。
なお、神山である御蓋山は「春日大社」の創建神話の舞台としても知られており、その山頂には、藤原氏の招請により鹿島神宮からやってきた武甕槌命(タケミカヅチノミコト)が最初に「浮雲殿」と呼ばれる場所に降り立った地点として知られており、その降臨したと伝えられる地には「本宮神社」が祀られています。
また、この歴史ある山は古代人たちの心の拠り所ともなったようで、「あまの原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山にいでし月かも」(古今和歌集 巻九の四〇六)かの阿倍仲麻呂の有名な歌は「若草山」ではなくこの山「御蓋山」を詠んだものと言われます。
その他にも万葉集では「春日なる 御笠の山に 居る雲を 出で見るごとに 君をしそ思ふ」(巻十二の三二〇九)、「雨隠る 御笠の山を 高みかも 月の出で来ぬ 夜はふけにつつ」(巻六の九八〇)などと御蓋山がうたわれるものは多く、特に「月の出」にまつわる歌が多くなっています。
御蓋山は春日大社の神体山とみなされているようで、その御蓋山が「月の出」と強く結び付いているのです。
「日の出」が太陽信仰で拝されるのであれば、「月の出」は月信仰で拝されていたと考えられます。
月の女神であるアルテミスは、「人身御供」を要求する神であったということです。
このように、太陽信仰と月信仰のどちらにおいても人身御供が行われていたということになりますので、鹿踊も人身御供をともなう悪魔崇拝と関わりがある可能性が高い、と考えられます。
悪魔崇拝者の滅亡と日本民族の祝福とを皆さんで一緒にお祈りしましょう。
日本人は「安定」という言葉に騙されて犠牲になった民族だ。この世に存在しない「安定」があると信じ込まされ、何の努力ももがきもせずに生きて「成長」できずに人生が詰み、滅んでいる。
人のために働いて、人から報酬をもらっても、生活が保障されない時代になった。だから、これからは生活も幸福も保証してくださる神様のために働いて、神様から報酬をもらう生活をしなさい。
神様を愛する人が神様から愛され、財も成し、家族にも恵まれ、愛に包まれて生きられる。
神様の世界では誰が最も愛するかという競争をするから、競争が激しくなればなるほど平和が作り出される。
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