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曾祖父(父方)の軍歴証明書を取ってみた

きっかけ

祖父から曾祖父は軍人だったと聞いていたのが、祖父も終戦時に6歳と幼く覚えていないことも多いので調べることにした。
祖父から事前に聞いた情報は「頭が良かった」「優秀だったから引き止められて外地に行かなくて済んだ」「馬に乗った姿がかっこよかった」等の曖昧な情報だけである。
曾祖父は私が生まれる2年前に亡くなっているので会ったことがないが、写真で見るとEXILEの関口メンディーに似ていた。ちなみに曾祖母はとても美人で「浜小町」と呼ばれていたそうだ。
この写真は祖父の自宅に飾られていた。

左から親戚の方・曾祖父・曾祖母・祖父の姉(昭和8年5月)

かかった費用・日数

かかった費用・日数については以下の通りである。
自治体にもよるが、取得ができるのは三親等までなので取れる場合はできるだけ早く取得した方が良い。

9/9  佐賀県に電話で問い合わせ
→陸軍なら各都道府県の福祉課、海軍なら厚生労働省に電話をして軍歴証明書があるかを尋ねる(この時に生年月日・本籍地の住所を聞かれる)
9/16 佐賀県から問い合わせの返答
9/26 佐賀県から申請書到着
→申請者と旧軍人の関係が分かる戸籍も同封して送る
10/11 佐賀県から軍歴証明書到着

定額小為替×1 350円 
定額小為替手数料×1 200円
切手代(往復) 214円
計 764円 


曾祖父の軍歴証明書

曾祖父の経歴は以下の表の通りである。佐賀県から送られてきた軍歴証明書をもとに補足情報とプライベートな情報と世界情勢を付け加えて編集した。

曾祖父の軍歴証明1/2
曾祖父の軍歴証明2/2

曾祖父の経歴を大まかに分けると、陸軍工兵学校時代・東京幼年学校時代・熊本幼年学校時代に分けられる。


陸軍工兵時代

20歳で兵役検査を受けて徴兵されて工兵第18大隊(久留米)に入隊しているが、8ヵ月で陸軍工兵学校に分遣されている。
陸軍工兵学校とは、大正8(1919)年千葉県松戸市に開校した工兵技術の修得や普及のために作られた学校である。
時期と軍歴証明書から見るに幹部候補生としての分遣ではないと思われる。
関東大震災後の東京に工兵第18大隊として派遣されている。9月2日に東京に戒厳令が敷かれているが、「朝鮮人が暴動を起こしている」といった流言が拡大し、9月4日には埼玉と千葉にも戒厳令が敷かれている。それにより人手が足りなくなったためあちこちの師団から人員を借りていた。
災害時に工兵は、バラック建設・社会基盤の復旧・崩壊した建物の爆破など衛生兵と並んで活躍していた。今の自衛隊の災害出動と似ているため、現代の私にも曾祖父がなにをしていたか想像しやすい。
その後は陸軍工兵学校として、市川・船橋方面の警備を担当していたようだ。幸い陸軍工兵学校のあった松戸では被害は薄かったようだ。
大正12(1923)年の12月に工兵二等兵から一気に工兵上等兵にまで進級しているが、これは陸軍進級規則の第13条に基づいた制度で、優秀な人物は飛び級できるシステムである。

「陸軍進級規則」
(中略)
第十三條
現役上等兵又ハ一、二等兵ニシテ抜群ノ功績アリ其ノ行為軍人の亀鑑トシテ師団長又ハ之ト同等以上ノ権アル長官之ヲ一般ニ布達シタル者ハ第五條、第七條又ハ第八條ノ規定及定員ニ拘ラズ其ノ際之ヲ進級セシム但シ二等兵ニ在リテハ特ニ上等兵ニ迄進級セシムルコトヲ得

『現行兵事法令集二』より引用

大正13(1924)年9月に原隊に帰隊しているが、その後三か月で陸軍工兵学校附になっている。ここが一番の謎でなぜ陸軍工兵学校附になったかは分からない。
昭和6(1931)年~昭和7(1932)年には陸軍工兵学校内で満州事変に従事している。ここで何をしていたかは『陸軍工兵学校史』から私が推察したものである。
昭和6(1931)年11月20日~12月30日に臨時関東軍鑿井(井戸掘りか)班指導員としてチチハル・錦州に出動している。実際に日本軍は昭和6(1931)年10月に錦州を、11月にチチハルに進軍している。

十一月十八日
臨時関東軍鑿井班指導員トシテ満洲ヘ出張ヲ命セラレ斉斉哈爾(チチハル)及錦洲方面二出動ス
十二月三十日
帰校ス

『陸軍工兵学校史』より引用

昭和7(1932)年2月24日~28日に軽便鑿井機使用法教育のため工兵第14大隊(水戸)へ出張している。

二月二十四日 
一、第十四師団動員ニ伴ヒ軽便鑿井機使用法教育ノ為工兵大尉小笠原信義ヲ工兵第十四大隊ヘ出張セシム

『陸軍工兵学校史』より引用

昭和7(1932)年5月27日~9月30日に鑿井業務のために関東軍司令部附に臨時配属されている。軍歴証明書には9月30日に終わったと記載があるが、『陸軍工兵学校史』には、11月28日に松戸に帰隊したとある。

五月二十七日
時局ニ伴ヒ鑿井業務ノ為関東軍司令部竝臨時配属ヲ命セラレ左ノ如ク出征ス
司令部附 教官 工兵中尉 佐々哲爾
司令部附 教導大隊附 工兵中尉 伊理仁一
臨時配属 教導大隊附 工兵軍曹 三船五郎
臨時配属 工七分遣 工兵軍曹 誉田敬一郎
臨時配属 外ニ兵十名

十一月二十八日
曩ニ鑿井業務の為関東軍ヘ派遣中ノ佐々大尉以下(伊理中尉ヲ除ク)ハ午前十時松戸著に帰校ス

『陸軍工兵学校史』より引用

『陸軍工兵学校史』と軍歴証明書を照らし合わせると同任務を行っていることが重なるのでこのように推察できた。
昭和7(1932)年2月15日に曾祖母と結婚していて、同年の11月25日に第一子となる長女(祖父の姉)が生まれている。故郷から遠く離れた松戸で、しかも夫は時局柄忙しいとなるとさぞ心細い新婚・妊娠期間であっただろうと同じ女性として心配してしまう。
昭和8(1933)年2月16日に特務曹長に昇進している。特務曹長は、士官学校等に行っていないわゆる「たたき上げ」の最高峰の階級だ。
上記の写真は昭和8年5月とあるから、この時期に撮ったのだろう。軍装については詳しくないが、おそらく特務曹長の大礼服であろう。


東京陸軍幼年学校時代

昭和8(1933)年9月26日に予備役となってから軍属として東京幼年学校附となっている。
東京陸軍幼年学校とは、年少時から将校教育を目的とした教育機関である。現在の新宿区戸山付近にあった。
軍属にも様々な役職があるが、後に陸軍理事官となっていることから、普通文官扱いではないかと思われる。
軍属になった理由をあえて考察するならば、表にもある通り年々昇給していることとから、より良い待遇を求めてではないかと思うが定かではない。
予備役となった後にも、特務曹長(准尉)扱いなのは処分されない限りは終身官だからである。

熊本陸軍幼年学校時代

昭和14(1939)年2月15日に熊本教導学校附を命じられて、4月1日から勤務をしている。これは昭和2(1927)年に軍縮によって閉校した後に、昭和14(1939)年4月に再び開校していることと関係があるように思われる。
東京から熊本に異動になった時には曾祖母は私の祖父を妊娠中だった。現在でも妊娠中に引っ越しをするのは大変だと聞くが、当時の移動手段から考えると現代と比べものにならないくらい大変だったと想像する。
戦争末期に臨時召集により歩兵第148連隊に召集されているが、3日で再び熊本陸軍幼年学校附になっている。
もしかしたらここで祖父から聞いた「優秀だったから引き止められて外地に行かなくて済んだ」という話と噛み合うのかもしれない。実際に歩兵第148連隊はビルマで死闘を繰り広げた。
終戦後、召集解除となった後に教育総監部附となっているが、これは工兵学校や幼年学校は教育総監部の下に置かれていたからであろう。教育総監部と熊本師管司令部で終戦処理を行った後、10月3日に免官となっている。
免官となった同日10月3日に理事官に昇進している。

奏任文官の任用については、その特例を認める根拠法令として「奏任文官特別任用令(大正9年年勅令第160号)」が1920(大正9)年から存在し、任用の特例が認められる奏任文官が限定列挙されていた。その後、順次、特例が追加され、特別任用により判任文官を昇任させることのできる奏任文官のポストは相当多数に上った。ここに至って、1941(昭和16)年に制定された「奏任文官特別任用令(昭和16年勅令第5号)」では、第1条第1 項において、「高等官四等以下を最高官等とする奏任文官は五年以上判任以上の官に在職 して行政事務に従事し判任官五級俸以上の俸給を受けたる者の中より高等試験委員の銓衡 を経て特に之を任用することを得」とし、限定列挙ではなく、「高等官四等以下を最高官等とする奏任文官」という表現に変更することにより、その対象となる奏任文官の範囲を拡大し、新たに爾後設置される奏任文官についても、この条件に該当するものは、従来のように、特に法令の改正による追加列挙をせずとも、任用の特例が認められることとなっ た。旧日本軍の事務系の文官の任用において、判任文官が高等文官試験を経ずに理事官等の高等文官に登用され得たのは、これらの規定に基づきなされたものと考えられる。

【研究ノート】 旧日本軍における文官等の任用について ―判任文官を中心に―
より引用

曾祖父はこれに基づき陸軍理事官に昇進したと思われる。高等官七等は中尉相当であり、昭和19年12月15日に従七位を賜っていることから、階級以上の働きをしていたと思われる。
昭和19年12月15日の叙位は、任官や在官の勤続年数に応じて叙される定期爵位と思われるが、従七位も中尉相当である。

総括

大学時代に吉田律人氏の軍隊と災害の関わりの授業を受けたが、その時はまさか曾祖父も関わっていたとは思わなかった。
曾祖父は経歴から、尋常小学校か高等小学校卒業程度であろう。そこからたたき上げの最高峰である特務曹長(准尉)まで昇進し、最終的には中尉相当の官位を叙されていることから、相当優秀な人物であった。
陸軍進級規則によって二等兵から上等兵に昇進しているが、これにより功績だけでなく「軍人の亀鑑」ともなる人物であったことが分かる。
私が生まれる前に亡くなっていて、すでに話を聞くことはできないことが残念でしかたがない。

調べた方法

調べた方法は以下の通りである。

防衛省防衛研究所史料閲覧室に行く
→丁寧にレファレンスをしていただいて疑問点が解決できたので足を運べるなら行くと良い
国立公文書館デジタルアーカイブ
アジア歴史資料センター
官報

参考文献
・秦郁彦 編『日本陸海軍総合辞典』東京大学出版会(1991)
・氏家康裕 防衛研究所紀要第8巻『【研究ノート】 旧日本軍における文官等の任用について ―判任文官を中心に―』(2006)
・吉田律人『軍隊の対内的機能と関東大震災:明治・大正期の災害出動』日本経済評論社(2016)
・上村直巳 熊本学園大学論集『総合科学』『熊本陸軍幼年学校におけるドイツ語教育』(2016)

参考史料
・『恩賞考』
・『現行兵事法令集2』
・『陸軍工兵学校史』
・『陸軍成規類聚』


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