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独りで死に向かって走りたくない

今年で27歳になった。

時間が過ぎるのは無情にも速く、「大人になりたいなぁ」なんてことも思わなくなったということはわたしはそれなりに大人になってしまったということだろう。周りの友人たちは結婚し、子どもが産まれている。"そういう歳"になったのだ。

小学生の頃によく人生設計を書かされた。
将来どんな仕事をして、いつ結婚をして、いつ子どもを産むのか。しかしながら、小学生にそんな未来のことなどわかるわけがなく、適当に会社に勤めて24歳に結婚、26歳くらいには子どもの1人くらいは産んでいるだろうと想像したものだった。

ただ実際は27歳になってもどちらも未だ成されてはいない。というのも、わたしは結婚をしたいという感情が全くもってわからなかったからだ。

周りから「彼氏はいるの?」「結婚はいつするの?」など言われるたびに、そんなに結婚が人生において当たり前のことなのだろうか、それが"幸せになる"ということに必要不可欠なのだろうかと頭を悩ませた。

結婚したいってどうすれば思えるのだろうか。どんな生活を送れば思えるようになるのだろうか。子どもを産むことを考えると年齢のリミットも存在するわけで、そうなると早いうちに結婚しなければと焦らずにはいられなかった。

世間一般の幸せや当たり前の定義に縛られる一方で、全くそう思えない置いてけぼりのわたしの気持ちのギャップに苦しんだ。

でも、別に結婚したくない!と思っているわけでもなくて、ただただレールに乗っかって”結婚”を選択するということにずっと納得ができなかった。自分なりの答えが欲しかったのだ。ややこしい性格だなぁと自分でも思う。

最近読んだ光浦靖子さんの『49歳になりまして』のエッセイの中で彼女は今の自分をこう綴っていた。

『私は独身です。旦那も、子供も、彼氏もいません。わかりやすく私を必要としてくれる人が側にいません。年齢に比例して増えてゆく休み、そりゃ不安になりますよ。長い夜、思っちゃいますよ。「私は誰にも必要とされていない」と。』

これを読んだときに「あぁ、この苦しみがわかってしまう」と心に刺さった。わたしも誰かに必要とされていることを感じていないと生きていけない人間だからである。歳をとれば両親はいずれいなくなるし、友人たちもいつまでも側にいてくれるわけじゃない。

遠い未来で誰がわたしを必要とし、価値のある人間だと位置付けてくれるのだろうか。

独りで死なない程度には誰かと一緒に人生を歩んでいきたい。パートナーを必要とし、必要とされながら笑って生きていきたい。それを叶える契約がもし結婚であるならば、結婚したい。

あぁ、そうなのか。
なんとなくで結婚することには否定的だったけど、自分の結婚したいと思う理由がこれなのだと腑に落ちた瞬間だった。

結局のところ、わたしは独りで死に向かって走りたくない。


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