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意外と見られていなくて、意外と見られている

ずっと前から楽しみにしていた、いしかわゆきさんの講義あっという間でした!

「書く習慣」を読ませていただいたことで心が楽になった結果、勝手にハードルを下げまくらせていただいた(日本語が不自由)結果、

「1行でも下書きを進められたら上等」

という精神のもと、11月にスタートした「書く習慣1ヶ月チャレンジ」をなんとまだ終えていない私です。

しかし、「ハードルをめちゃくちゃ下げた」に見えたその決意の裏には、「ちゃんと納得する形でひとつの記事を終えたい」という頑ななこだわりがあったことに、今日改めて気付きました。

「1行書いてもそれが気に入らなければ、翌日書き換えて、また翌日はその1行が気に入らなくて……」のループになったことも。
だから、今回改めて講義を拝聴したことで、つっかえ棒のようになっていたこだわりが、ポロン、と取れました。


「人目を気にする」ということについて、以前大学で実験をしたことがあります。
このことについてはまたいつか詳しく書きたいな〜と思っているのですが、結局、「人って意外と見てない」んですよね。
一番気にしてるのは自分。

芸能人なら別ですが、残念ながら、ただのありふれた一般人のひとりでしかない自分のnote、何をそんなにこだわる必要があるんじゃい!と、いい意味で肩の力が抜けました。過剰な自意識、人間ってどうしても持ちがちなんですよね……


でも、それと同時に、意外と見られていたりもする。
ちょうど一年くらい前に、凄まじい熱量の自己満足マインドで書いたアイドル沼落ちブログに、自分では信じられない数のハートをもらったとき、しかも、最後の最後まで隅々まで読んでくださったとわかるコメントを結構いただいたとき、「こんなに、ただの自分のひとつの記事を一生懸命読んでくださった方がこんなにもおられるんだ」と思うと、嬉しさと同時に驚きがありました。


そして、ビュアー数は当然もっとあったので、「いいねをしていない人の中にも、気に入ってくださった方はたくさんいたのかもしれないな」と素直に思えました。

「意外と見られていなくて、意外と見られている」ということ。

一見矛盾しているように見える言葉ですが、今日のお話でどちらも真実で、そのどちらにどういう意味があるのかということを実感しました。

髪型や服装に異常に気をつかって、「どう見られているかな」とビクビクしたって、誰も大して気にしてないんですよね。
でも、だからといって適当な格好で歩いていると、「この前◯◯にいたでしょ、なんかいつもと雰囲気違ったし、すごく疲れた顔してたよ」なんて事細かに観察されていたりする。
「人目」自体が、そういうものなのかもしれません。

過剰な自意識過剰を消滅させるために、「意外と全然見られてない」の視点、それと同時に、「いいねがたとえ無くても意外とちゃんと読まれてる」という視点、両方が大事なんだと思いました。

そして、「誰かのためになるように」と燃えまくるのも悪いことではないですが、まずは伝えようと思いすぎずに、「自分のために書いてから相手のことを考える」こと。

なんだか終わり方がわからなくなってきましたが、それでいいとも教えていただいたので、終わります!笑

私は日月が休みで、明日から1週間が始まるのですが、休みの最後に本当に有意義な時間を過ごさせていただきました〜!

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