見出し画像

自分が理解できない価値観の人を人は「やべーやつ」と呼ぶ~彼女は頭が悪いから~

SNSをやっていると、たまに「やべーやつ」に遭遇する。もちろん絡みはしないけど、遠目に「やべーな」と思って見ている。世の中にはいろんな人がいるんだな~と。

一方で、自分のまわりには「やべーやつ」はあまりいなくて、どうしてだろうと考えたとき、そもそも「やべーやつ」と仲良くならない、むしろ避けているからなんだろうなと思った。

かつては「やべーやつ」は何人かいて、何か違和感を覚えたり、なんか違うな、と思うたびにそうっと離れていたから多分、仲良くならずにおわった。

決してまわりに「やべーやつ」がいなかったわけじゃなく、排除していった結果なのだ。

では、この「やべーやつ」とは何なのかといえば、自分が受け入れがたい価値観を持っている人のことなのだと思う。

要するに、その価値観を共有している者たちの集まりのなかでは、その人は「やべーやつ」ではない。なぜならそれが普通の価値観とされる世界だからだ。

最近、姫野カオルコさんの『彼女は頭が悪いから』という小説を読んだ。

2016年に起きた東大生による強制わいせつ事件をヒントに書かれた小説で、被害者の女子大生と加害者の東大生の日常が、中学時代まで遡って交互に描かれる。

善き家の長女として生まれ、「どうせ私だから」と思いながら多くは望まず、慎ましやかに暮らしてきた女子大生と、勉強ができることがすべてである環境で、自分よりも学歴が低いものを自然に見下しながら、つねにまわりからの下心を感じながら生きてきた東大生。

同じ大学生で、オクトーバーフェスで肩を並べ、ともにビールを飲んでも、ふたりの価値観が重なることはない。

ストレートに東大に入り、近づいてくる女性はみんな「自分に気がある」と何の疑いもなく思えるほどのピカピカな心はある意味清らかとも呼べる。

一方で、自分にやさしい言葉をかけてくれ、キスまでしてくれようものなら「この人は王子様かもしれない」と思い込んでしまう女子大生の心も清らかなことに変わりはない。

だからこそ、女子大生にとっての「強制わいせつ」は東大生から見れば「ただの飲み会でのおふざけ」と捉えられ、なんでこの人は泣いてるの…?と本気で思われてしまう。そしてお互いに「やべーやつ」になっていく。

会話はできるのに心が重ならない。世界が違うと心のつくりも違ってきてしまうのだ。

とすれば、価値観がぴったりと重なる人と会うことの、なんとむずかしいことか。そして、すべての出来事に対して「賛否両論」になってしまうのも頷ける。

だって最近の出来事って基本的に「賛否両論」じゃないか。それって当事者も含め、育ってきた環境が違うからこそのすれ違いなんじゃないか。

つねに自分の近くには「やべーやつ」がいて、自分も相手に「やべーやつ」と思われていて、どこかのタイミングで交じりあってしまうことがある。

そんなとき、わたしたちは価値観を擦り合わせられるんだろうか。

この小説を読む限り、「無理じゃね…?」と思わざるを得ない。

「やべーやつ」に寄り添ってわかりあうか、「やべーやつ」は「やべーやつ」同士で寄り添ってもらうか。

わたしは、否定も肯定もしないから、どうかお互いに干渉せずに、ちがう世界で平和に生きようや、という折衷案を選んでしまうかもしれない。

ごめんねわかりあえないね。それは仕方のないこと。

でも、分断されてても共存はしよう、というやわらかさだけは持ち続けていたい。

サポートは牛乳ぷりん貯金しましゅ