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“表舞台”に立つということ。終わらない役を演じること。

世の中にはいわゆるタレントやモデルといった煌びやかな芸能人の人たちがいて、「表舞台の人間」なんて称したりする。

そうすると、そこに立てない人は何なんだろうか。裏方…?スポットライトの当たらない人々…?

そんなわけで、大多数の人は表舞台に立つことをひっそりと望んでいる(と思っている)。

小さい頃の夢ってアイドルとか、野球選手とか、割と目立つのが多い気がするし、「お札になりたい」とか「歴史の教科書に載りたい」とか一度は思わないだろうか。わたしは思っていた。結構ガチで。

普通の専業主婦であるおばあちゃんやお母さんを見ながら、「自分は絶対にビッグになってやる!」と野望を抱いていた。

だがしかし。

「表舞台に立つ」というのは想像以上にしんどいことなのだと思う。大して表舞台に立っていない私が言うのもなんだけど。

別アカウントで20000人くらいにフォロワーが増えたとき、叩かれたし掲示板にも晒された。

100人から言われる「可愛い」よりも、たったひとりに言われる「ブス」に死ぬほど落ち込んだ。

こんな小さな「表舞台」ですら四方八方から矢が飛んでくるのだ。もっと大きな舞台に立っている人たちの気苦労は計り知れない。

それから、降ってくるのは「矢」ばかりじゃない。

人の「目」だ。

つねに「視線を感じる」のだ。

この前初めて朗読劇に出て、暗闇のなかにいるであろうお客さんの目線を感じたとき、ページをめくる指先にまで神経がピーンとはりつめたのを感じたし、平常心ではいられなかった。

それは、生ではなく間接的にも感じるものでもある。

わたしはライブ配信をやっているけれど、そのあいだはやっぱり何となく気が抜けない。普段うっかり出てしまうような仕草も無意識の緊張によって引っ込められている気がする。声のトーンも、もしかしたらいつもより高いかもしれない。

SNSに自らあげた自撮りや動画ですら、「今自分の知らない瞬間に誰かに見られている」という感覚を覚える。

自ら露出しているのに、ふとした瞬間に「わたしを見ないでーーー!」と覆い隠したくなる気持ちになるのだ。

こんな弱小発信者ですらそう思うのだから、以下略、という話である。

きっと街を歩いていても、部屋のなかにいても、ずっと誰かに見られているような心地がするんじゃないだろうか。

ましてや今は、芸能人もSNSをするのだから、舞台袖に引っ込んだあともずっと舞台に立ち続けているような感覚なんじゃないだろうか。

この前、芸能人のプライベートに密着している番組で、料理をしながらライブ配信をしている様子や、お風呂あがりにTwitterでエゴサをしている様子を見ながらそう思った。

数多の矢と視線を浴びながら、終わらない舞台で役を演じ続ける。

誰もが望んでも立てない舞台。

今まではそこに立てない人は、「選ばれなかった」人だと思っていたけれど、本当はそうじゃないのかもしれない。

「選ばなかった」人なのかもしれない。

みんな普通を嫌うけど、普通ってとっても心地良い。

言葉を選ばずに発信して、カメラ写りなんて気にしないで、好きなときに好きな場所に行って。

当たり前に自分の名前なんて出てこないTwitterのトレンドを見つめながら思った。

観客のわたしに苦悩はわからない。演者になるというのは、とても勇気のいることだ。

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