「日記なのでお許しください」
どこかから流れてきたnoteの文章で「カフェで知らない人に話しかけて、席をいい感じにゆずることができてよかった」みたいな、些細で鮮やかな瞬間のことを書いてる人がいて(フフフいいね……)とその人のプロフィールを見たら「つまらないかもしれませんが日記なのでお許しください」と書いてあった。
いやいや、大丈夫。こういうのが読みたいんだよ!席をゆずろうとする勇気、話しかけるかどうかの葛藤、タイミングをはかる感じや緊張、言葉のやりとり、焦り、その後の安堵。すべてにその人の温度が宿っていて、それが文章からこちらに伝わってきたときに個人的な体験の美しさがドワーッと発生する。それが他人の日記を読むおもしろさだ。
しかし「日記なのでお許しください」という控えめでワガママな気持ちの表明のしかたも、現代に生きている者としてひじょうに愛らしい。
日記やブログなんて本来何の話をしてもいいんだし、誰に対して「お許し」を乞うているのかわからない。でも「日記なんだから何書いたって自由だろ!」と居直らないその、想像上の読者に対する謙虚さやサービス精神と、しかしつまらないとて人に伝えたいという欲求の同居するところがたまらない。
正しげで論理的なことを突きつけて君という人間を暴いてやろう……というムーブがいま世の中そこらじゅうにあり、この「日記なのでお許しください」タイプの人(私もそのひとりだ)というのはそういう人らの勢いに喰われ心がキュウキュウにしぼんでしまっているのだ。
主にTwitterで作られるような、公開された場での個人語りとか根拠のない語りを許さない雰囲気、人が「ただ言いたい」という欲を封じる力はけっこう強く作用してくる。
ところでよく忘れてしまうけれど、人が自分の脳から飛び出せない以上、すべては「私の場合」という個人的な語りにしかなりえないよな、と考えることがある。ということはもしかしたら、世の中のすべての文章は日記のようなものなのでは……?!
もしこの世にあるすべての文章が日記だとすれば、こないだ私の身にああいうことが起こって、その瞬間こういう風に感じて、そのようにしたらうれしかった・悲しかったんだよー!というエピソードが無限に溢れているだけなのだ。なんだか一気にラブリーに思えてはこないか。
実は論文すらもそうで、筆者の主観性をなるべく取り除くよりもむしろ自分の立場をはっきりと「こういう者が、こういう条件でやったこと、見たものをお伝えします」と明記する方が誠実じゃないのかい、みたいな質的研究の話を大学の頃によく読んでいた。データすらも解釈するのは私なので「これは私の見方ですが、かつてAさんもBさんもこう言っていて……」と補うことでそれらしさを担保しているんである。
だから「それってあなたの感想ですよね」というちょい前の流行フレーズは、実際そうだな!という感じであり、逆にいえば誰も「私の感想」以外は言えないんじゃあないだろうか。
ずいぶん話が膨らんでしまった、戻そう。
私には特別なことだけどこの話ってつまらないかも……でもほら、あくまで日記だからね!もしかすると何人かはおもしろいって思ってくれる人もいるかもしれないし……みたいな、慎ましさやプライド、恥ずかしさ、希望とかいろんな気持ちがどうしようもなくまぜこぜになって出たセリフが「日記なのでお許しください」だと思うと、ギュッと抱きしめたい気分だ。
誰でも何でも公開できるようになってしまった時代に、ウーンウーンと頭をひねる。自信はないままで、それでも我が身に起こった特別な出来事にぴったりの言葉を選り抜いて書かれた渾身の日記はいつも、太陽が照らした波のようにキラキラと輝いて見える。
みんなばらばらの暮らしのなか、大小さまざまな美しさ、時には痛みがすべての人のもとに降り注ぎ、それぞれの感性によってはっと感ぜられる。誰かの日記を読むたびに私はその事実を知り、驚かされるのであった。
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