誇り高き盲人
タイトルの言葉は、私の学校のモットーでもあった言葉。
私は、身体障害「視覚障害」“未熟児網膜症”を生まれた時から患っている。
今回は、そんな私の今、今まで気持ちをお話しようと思う。
❀“未熟児網膜症”の影響
私は、“未熟児網膜症”の影響で右目失明、左目強度弱視。眼鏡かけて0.15
裸眼で0.02しか見えない。
この視力なので、車の運転は愚か、日常生活に大きな支障をきたしている。
そして、視野がとても狭いのだ。
❀余命宣告
私は、出生時の体重が680gという、“超未熟児”として生まれた。
生まれてすぐに、“NICU”(小児集中治療室)に入ったという。
そこで、家の人に告げられたこと。
「この3日間が山場だと思う。たとえ、生きれたとしても、将来は、酸素ボンベを使用しないと生きることは難しい。」と言われたらしい。
でも私は、そんな余命宣告を乗り越え、今は酸素ボンベなくても生活をすることが出来ている。
生命力とは、すごいものだ。
❀見えない…
そう気づき始めたのは、幼稚園の時。
後で聞いた話だが、幼稚園の時は、眼鏡を付けるのを嫌がって、眼鏡を外し、幼稚園生活を送っていたということ。
今思えば、たった0.02の世界で過ごせることはすごいと思う。
“ぼんやりとした世界”に常に包み込まれていた。
極限に物を近づけ色んな事をしていた。
今でも、眼鏡を外すと“ぼんやりとした世界”に包み込まれる。
そんな中でも、幼稚園時代の私は、みんなと同じように過ごせていた。
運動会をしたり、水遊びをしたり。お遊戯会に参加したり。
❀新しい出会い-小1での寮生活-
小学校からは、県立の“盲学校”に入学し、小学1年で寮生活。
そんな日々を過ごした。
そこには、“見えない” “見えにくい”児童·生徒達が日々勉強や部活などに励んでいた。
“私と同じような人達がいる”そう安堵したのを覚えている。
ここでは、“見えにくくても、ありのままの私でいいんだ”と。
寮生活は、最初は、寂しく泣いていた。
でも職員の先生だったり、友達·先輩のおかげで楽しく過ごせた。
自分で物事をこなすのは、大変な事も多かった。
❀え、私、周りの人と違う…
小学生の時、“地元の学校や地域の学校に行って、一緒に勉強する”という“交流学習”というものがあった。
そこでは、“盲学校では当たり前”だったことが当たり前では無くなった。
授業を受けたけれど、見えなくてついていけない。
“黒板文字が小さい”
“プリントの字が小さくて見えない”etc…
そこで、私は初めて、“私はみんなとは違うんだ”そう気づいた。
❀私を変えてくれたこと
それは、視覚障害のある中学生と高校生が、それぞれの地方で、行われる文化·体育大会に出場するというもの。
私は、中学二年生の時に、文化部(弁論大会)で、優秀賞、中学三年生で最優秀賞を貰うことが出来た。その地域で、中学生の部で1位になったという事だ。
体育部の部でも、数々の賞を受賞し、大会新記録を出したこともあった。
とても嬉しかった。“見えにくい私でも、出来ることがあるんだ”と。すごく実感した。
❀そして今
今でも右目は“義眼”をしている為、
一見普通に見られることが多い。
でも実際は違うのだ。
近くて、大きい文字で書かれても読むことが出来なかったり、ちょっとした段差に躓いたり、視野が狭いため、脇から人が来ても分からなかったり。脇からの声に驚いてしまったり。
ネームプレートに書いてある名前が見えないので、直接聞いたりしたり、顔が見えにくいので、“人の声”で、誰だかを判断したりしている。
❀皆さんに知って欲しいこと
視覚障害“未熟児網膜症”を持っている私が知って欲しいこと。
それは、全く見えない人(全盲)“見えにくい人”(弱視)は、“点字ブロック”↓↓↓を頼りに歩くので、その上に物を置いたり、自転車などを置かないように配慮して頂きたいということ。
そして、“ヘルプマーク”(これは目に見えない障害を持つ人が周りに援助を求めるマーク)をつけて困ってる人を見かけたら、声を掛けて欲しいということだ。
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