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「空っぽ」没後50年の三島由紀夫について

今年は三島由紀夫没後50年ということで彼に関する著作が多く刊行されている。その中の代表的な2冊を手にして改めて三島由紀夫について思いを馳せた。三島由紀夫を語る時にしばしば引用されるのが<このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう>という言葉であり、まさに今のこの国を言い表している。

三島はこうした日本の行く末を案じ、その「空っぽ」を埋める存在としての天皇を位置付けたが、これについては批判が多く結果としてその理解が得られずに自刃という形で生涯を終えることとなった。彼を語る時にその作品群をつぶさに検証することは当然のこととして、そもそも作家が彼にように社会にコミットしたことは後にも先にも彼以外にはいない。そのことが彼の作品を違った意味で変説した形で読まれることにもなったのは彼にとって不幸であった。彼の作家としての矜恃が尽く挫かれたかのように自身で思い至ることになり、そこにニヒリズムをみる論者も多かったように思う。

ここの作品は「仮面の告白」「金閣寺」「鏡子の家」「豊饒の海」をはじめとして多岐にわたり、どれも高く評価されるに値する著作であると思うが、その作品自体にバイアスをかけるものが彼にはあり過ぎた。彼を評したこの2冊を読んで新たに知ったこともあったが、概ね今までの三島に対する思いを裏書きする内容であった。個人的な思いは三島は先が見え過ぎていたことが不幸だったということに尽きる。この2冊は時系列に三島の作品が整理されており、彼の作品を再読する際にも有用な著作となりそうである。

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