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言葉はどこからやってくるのか

80年代半ばに浅田彰の「構造と力」が大学生を中心に読まれることで拡がったニューアカデミズムの動きの中で重石のように君臨していた蓮實重彦。 フランス文学の批評家としてだけでなく映画評論においても世界的に有名を馳せている氏のどの書物にも発表されていないテクストを集めた著作が刊行された。氏の映画評論は私自身が映画を観る際の道標ともいえるものでダニエル=シュミットやビクトル=エリセなどは氏を通じて知ることとなったし、ゴダールやトリュフォーなどもその作品に深くのめり込むきっかけはやはり彼によるところが大きい。それ以外の著作も手にし、「物語批判序説」や「夏目漱石論」「魂の唯物的な擁護のために」などを読んでみたが、記憶にあるのは何度も読み返さざるを得なかった読書体験である。それでも、氏の文体が好きで購入はしたものの頁を開くに至っていない大著「凡庸な芸術家の肖像」「ボヴァリー夫人論」はある意味宝物のようなものである。

氏は三島由紀夫賞受賞時のコメントで作品の方が「向こうからやってきた」と語っていたが、この著作の題名の「言葉はどこからやってくるのか」は小説だけでなく、氏が著すものについての成り立ちを教えてくれた様な気がする。中でも氏がこう語った「テレビ的な言説に対抗すべき他の言説があまりにも貧しすぎる。それを豊かにすることはごく単純にいまこれが真の現実だと思っているものは絶対に真の現実ではないぞということを、みんなが自覚することだと思う。これについて語るべき他の文脈は必ずあるし、その文脈を知らない自分は何かを失っているんだということを。」という言葉には今のSNSが示して見せている様を見事に言い当てていると思う。こうして示された言葉に力を与えられ、その姿勢を持ち続けようと思う。

ここのところ、少し遠ざかっていた氏の言説にまた触れてみようと思わせてくれた著作であった。

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