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せきぞろ(節季候)考

序:以下は「あわうた』の制作中に劇中歌として大事な役割を果たす小松島民謡『せきぞろ』についての長岡の考察である。徐々に興味が湧き始め、いつしか短編のための企画書のようになりだした。素人研究とドキュメンタリー企画のアイノコぐらいだと考えていただきたい。これをネットで公開するにあたって、『せきぞろ』に関する知見を有する色々な人に巡り会いたいというやましい動機があると告白しておく。
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●せきぞろ概観
せきぞろ(節季候)という名の古い徳島民謡がある。
千葉からの移住者である僕は、無論この歌の存在など知らなかったのであるが、拙作のドキュメンタリー『神山アローン』の主役である神山町のゴッドマザー湊幸子さんから、この曲の存在を初めて聞いた。彼女はこの曲こそが、「阿波踊りの起源」であると力説し、かつて県の偉い人々に説き回ったが一笑に付されたと苦々しく語っていた。爾来そのことが僕の脳裏にこびりつき、いつかこの歌と向き合わねばならなくなるんじゃないかと例によって勝手に思ってたのだが、すぐには何も動かなかった。動くきっかけがなかった。なにかきっかけがやってくるのを待っていたようにも思う。
それからしばらくして、仕事でたまたま日舞協会の花柳淳吾先生に出会い、彼女の師匠(もしくは師匠の師匠)がフリをつけたという、この「せきぞろ」の舞を見たのである。この時点ではまだ歌詞や踊りの一々の意味合いをそこまで考えはしなかったが何かピンとくるものがあり、『あわうた』というフィクション映画を作るにあたって、映画のもっとも大事な手がかりとした。つまりこの「せきぞろ」こそ、「阿波の歌」だと。だが深い考察があったわけではない。徳島で男女の色恋を描く物語の伴奏曲として、幾多の地名が刻まれ、義経と静御前の逃避行を歌うこの歌が適しているとボンヤリと思っているに過ぎなかった。
(注)花柳淳吾先生に確認したところ、先生の師匠ではなく、師匠の代に、大阪から徳島へ渡って来た花柳菅野という舞踊家がこの踊りを徳島に伝えたということらしい。そのことは元芸妓のチョンタさん(ポンタさん)という鳴物士からも確認をとり、その上で県下にて指導を始めたとのこと。
映画がだいぶできてきてから、改めてこの歌はそもそもなんなのか、どういう意味なのかと今更ながらに疑問に思い始めた。年末年始、不意に熱が入り出してしまい、知らず色々資料を調べたり、書籍を集めるようになる。これもなにかの縁である。
wiki的なことを書いておけば、この歌には京阪や江戸で様々なバージョンがあり(京阪では『獅子』『ぞろり節』江戸では『せつほんかいな』等と呼ばれている)、現代でもひっそりと残っていて、各地のお座敷などで踊られてはいる。だが芸者遊びなどは現代の僕らは中々縁がないし、そこで歌われている歌など巷間にひろまることはまずないであろう。
だがはるか昔の江戸の天保時代において、この歌はヒットチャート1位を独占していたような曲だったのだ。遊郭はおろか巷間の人々にまで広まっていた。季節は丁度正月前のクリスマス時期なので”天保年間の『クリスマスイブ』”といってしまおう(あ、山下達郎のやつ)。柳家小菊さんはこれを「江戸のラブソング」として演奏していた。
その江戸時代。「阿波大尽(あわたいじん)」と呼ばれるスーパーリッチな藍商人たちが、全国各地の遊郭や色街で、自らの出自である阿波の風景を詠み込んだこの曲を歌って踊り、どんちゃん騒ぎをして遊んでいた。吉原や京大阪の芸妓たちの間でこの曲はたちまち大ヒットしたとされている。ネットの書き込みから見つけた大阪の江戸時代から明治初期までの貴重な記録である「近来年代記(作者不詳)」に、次のように書かれている。

◯はやりうた大はやり
去冬年ゟ(より)うすうすはやりしに、此頃大はやりなり。ぞろりぶしとて阿州より来りし文句なりと云なり。

これが書かれたのは天保11年(1840年)のことである。去年はやったのならば、1839年に大阪で大流行りしていたとことだ。ちなみにこの年、モリソン号事件と鎖国政策を批判した渡辺崋山や高野長英が捕縛された「蛮社の獄」が発生した年である。天保12年には老中水野忠邦が奢侈禁止令を出して農本主義の推進する「天保の改革」を開始 (14年に頓挫して罷免される)、天保3年(1833)から天保9年(1839年)までに天保の飢饉が蔓延し、それが天保8年の大塩平八郎の乱へとつながった。大阪では1日に150~200人以上の餓死者がいたという。そしてこの前後に坂本龍馬や伊藤博文が生まれるという、明治への最初の足音が聞こえ出したような時代背景である。
なぜこの歌が全国ではやったのか。そしてこの歌にはどういう意味があるのか。ネットの周辺を見る限り、この歌の意味はよくわからないとするものが多い。あえてこの歌に挑もうとする自分が、同じく右に倣えしてよくわからないで済ませるのもなんだし、これから歌の意味や背景を自己流ながら解きほぐしていこうと思う。

● 門付き芸「節季候」
辞書を引いてみると、「せきぞろ」とは「節季で候う」のことで、今っぽく言えば「年末(年度末)ですねー」ぐらいの意味である。節季は盆と暮れにあり、商人にとっては掛売り金の回収、貧乏人にとっては踏み倒せるかという瀬戸際で、『掛取り万歳』など多くの落語の題材にもなっている。
この「せきぞろ/節季候」という言葉は、江戸時代の門付芸(かどつきげい)をしていた人々のことを意味する言葉でもあった。毎年12月の中旬から末に紙の頭巾をかぶって宝尽くしの紙の前垂をつけた(古くは裏白をつけた笠をかぶり赤い覆面をした)3~4人が、女に三味線を弾かせ、四つ竹(昔のカスタネット)・小太鼓・拍子木などを持ってせわしくはやしたて、「せきぞろ、ほうぼう、毎年毎年、旦那のお庭へ飛び込め跳ねこめ」などと唱えて、戸別に米銭を乞い歩いたのだという。割竹で胸をたたいたので胸叩とも呼ばれた。「せきぞろ」は、この年末期間限定の公認乞食芸人であったらしい。それ以外の期間は、乞食という職能(といっていいのか)は浅草にいた長吏頭弾左衛門の厳重な管理下にあり、いつでも自由に乞い歩くことはできなかった。京都では女の節季候として「婆等(うばら)」が、やはり赤前垂れに白木綿で覆面し「うばら祝いましょう」といってやってきたという。大阪では後になくなり、江戸にだけ残ったというが、各地で明治期にまでは来ていたとの記録がある。
『人倫訓蒙図彙』(元禄3年/1690頃発行)という様々な身分や職業を図版とともに紹介している書物に「せきぞろ」の絵がのっている。載っているのは「勧進餬部」(かんじんものもらいのぶ)の項。そこに覆面をつけて歯朶の葉を挿し、年末に各家を訪れる祝福芸、「節季候」(せきぞろ)が載っている。(ちなみにその横に載っているのは「うばら」)
顔に仮面をつけて踊る踊りは現在でもいろいろあり、頭巾や編笠で顔を隠す秋田県の西馬音内(にしもない)の盆踊りもその名残であるのか。はたまた阿波踊りの女踊りの編笠もその片鱗か。網野善彦の著作の中で、『一遍聖絵』に白覆面に柿色の衣の姿の人々が記されているが、古くからの非人の祖と言われる犬神人(いぬいじにん)らのコスチュームでもあり、そのような職能の人々の共通のコードであったのかもしれない。
或る学者の研究によると、室町時代の「胸敲」が、節季ごとに民家を訪れた名残とされ、後世悲田院の頭役の敲きの与次郎らがせきぞろとなって、正月や彼岸に手を叩き、口早に祝詞を唱えて来たものの流れであるという(郡司正勝氏の文章より引用)。

『人倫訓蒙図彙』
『一遍聖絵』の中の犬神人

かの松尾芭蕉は「せきぞろ」について二句詠んでいる。

節季候も来れば風雅も師走かな  /  節季候を雀も笑う出立かな

芭蕉がこれを詠んだ年は、九州を中心に不作続きで逃散する百姓が多く、かなりの乞食が江戸にいたらしい。覆面をして騒げば様々なものをもらえるのだから、それはやるだろう。芭蕉はこれを風物詩としてのみ扱っている感じだ。騒々しさと、おかしさと、年末を体現する季語的なものとしてのみ。そこになんら感情移入はみられない。これら門付け芸の人々は、元々は神の代替という意味役割があり、恵みを与える側の人々にとっては、彼らに喜捨することにより神様へ御奉仕する、神の力を借りる的な意味合いだったものが、段々に乞食たちに恵んでやる的ものにシフトしていったようだ。とにかく素っ頓狂な芸を大音量とともにやりながら正月間近に家に押し寄せて来るのだから、うるさくてしょうがないので金をやって退散させるみたいなことになったろう。
光田憲雄著『江戸の大道芸人』によると、本来は年末にやってくるのが「せきぞろ」、年始からやってくるのは「鳥追い」の女たちであり、そういう区分があったらしい。だが時代がくだってくると、年始にやってくる「せきぞろ」もいて、ぐちゃぐちゃになっていたらしい。「鳥追い」は暴れん坊将軍でかつて片岡礼子などが演じていた御庭番の女の格好である。編笠を被って洒落た着物をきて、赤い口紅をつけ、三味線を持った二人連れの女が(参勤交代をしてひとりぼっちで暮らす武士が多い)武家屋敷などを練り歩いたという。今の阿波踊りの有名連の名物美人三味線弾きみたいなものだろう。 そう考えると「せきぞろ」たちは騒々しい男踊りと重ね合わせられるかもしれないので、阿波踊り起源説もあながち嘘とは言えなくなりそうである。
門付芸はこれで映画が何本もとれそうなほど興味深いテーマであるが、深入りせずにざっと書いておくと、「せきぞろ」以外にも様々な呼称を持つ人々がいた。代表的なものは、万歳(三河万歳が有名)や春駒だろう。万歳は毎年三河などから江戸にやってきた烏帽子をかぶった太夫と、相方の道化役である才蔵がコンビとなり三番叟などを演じて練り歩いたもの(暮れになると日本橋に才蔵市というものがたち、太夫が相方の才蔵を見つけ、新年を祝う万歳をしてお金や米をもらいながら歩いた。才蔵は千葉や埼玉などの出身者が多かったとか。)春駒は下半身に馬の首のハリボテをつけ、仮面を被った男が歌を歌いながら練り歩くもの。まあそんなところである。
話を「せきぞろ」に戻そう。素朴な疑問がでてくる。この「せきぞろ」は、いつ頃まで存在していたのだろうか? 宮本常一の『生業の推移』によると、明治の終わりまで東京府中に「せきぞろ」が来たと書かれている。30歳くらいまでの女たちが組を組んでやって来たという。今から調査するとなると、明治生まれであればギリギリ覚えているといった感じか。これは門付き芸全般がこの前後に消滅したのであろうと推測できる。
さて、今ここで知るべきなのは、徳島の小松島民謡「せきぞろ」と、この門付芸「せきぞろ」との関連だ。そもそも京・大阪・江戸の三都を中心にいたという記録のある「せきぞろ」は、徳島にやってきていたのだろうか?やってきてないのであれば、徳島から三都へ向かって出発していった側だった可能性もでてくるが。これを解決するべき資料を見つけた。小沢昭一が昭和41年ごろに収録した「日本の放浪芸」の中で、小松島の老婆たちが、かつて正月に「せきぞろ」たちがやってきたと証言し、またその歌も記憶して歌っているのだ。このCDにたどり着くまで、僕は国会図書館のウェブや色々なところでとにかく「せきぞろ」という単語をググりつづけた。そしてCD復刻版をメルカリで買い求めるという当世風である。
ちなみに以下聞き取れた歌を書いておく。「ああ せきぞろせきぞろ せっきはぞろりと遠路(とうろ)をはるばる大和の国から大和が谷(だいわが)越え 青山飾らせ 福徳どんどと あなたのお庭に連れ込み 門にはぼんぼり 門には門松 お家は繁盛 お国は万盛 地方は万作 おめでたやー。おめでとうございます。」老女たちの記憶違いが、せきぞろに来た人々の言葉の癖なのか、「遠路」を「とうろ」と読んでいて(トウロというものを歌っている可能性もあるが)、大和につづく谷の名を「だいわが谷」と言っているように聞こえるがここは定かではない。(今の80~90歳たちがまだこれを記憶している可能性もあるので、この辺りは小松島付近で調査が必要であろう。)
小松島は商業港湾都市である。地元の人に聞いたところ、元々は蜂須賀家政が入国するのに際して、各地の商人たちを同行させ、彼らに小松島付近に住まわせ、ともに遊ぶ場所としたのが起源だという。商人たちの大きな家々が立ち並んでいたこの場所に、「せきぞろ」たちは当然喜捨を求めて、騒ぎ立てたであろう。そして商人たちは彼らに金を与えたであろう。だがこの歌が全国的ヒットソングになるというまでには、遠い。なぜ遊郭で、門付き芸の非人たちを指す言葉を曲名にしたその歌が歌われたのかがわからない。

●歌詞の全容
昭和10年。通称「お鯉さん」こと、徳島の芸妓・多田小餘綾(ただのこゆるぎ)は、大ヒットした「阿波よしこの」に次いで、「せきぞろ」を収録し、ポリドールレコードから発売した。以下がその歌詞である。
    
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宍(しし)は<ホンカイナ>喰わねど 宍喰(ししくい)越えて
雨や霰(あられ)や甲の浦(かんのうら)
ゾロリヤ ゾロリヤ ゾンゾロリ めでたいな めでたいな
橋の<ホンカイナ>欄干(らんかん)に腰うちかけて
向う遥かに見渡せば 弁天 松原(べんてんまつばら) 小松島(こまつしま)
きゅっ きゅっと たったはアリャなんじゃ あれないな あれかいな
昔 昔 その昔 ずっと昔のその昔
九郎(くろう)<ホンカイナ>判官義経様(はんがんよしつねさま)は
静御前(しずかごぜん)を 連れて逃げ
夜も昼も抱いて寝て よんぼり よんぼり よよんぼり
えぼし かけたる えぼし岩
ゾロリヤ ゾロリヤ ゾンゾロリ めでたいな めでたいな
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一文一文の詳細を見ていく前に気になるのは、義経様が静御前を連れて「逃げ」となっていること。
屋島の戦いの直前に、徳島の海岸線に上陸した義経はまだこの時点では「逃げ」てはいないのである。
上に書いた「近来年代記」に記載された歌詞を見てみると、歌詞が若干違う。
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ししは 本かいな くわねどししごえこえて、
あめやあられやかんの岩
ぞろりやぞろりやぞんそろり
はしの 本かいな らんかにこしうちかけて
向うはるかに見わたせば、
弁天松原・小松嶋、
きらきらと立たハあれなんじゃ、あれかいなあれかいな
むかしむかしもそのむかし、ずっとむかしのまたむかし
九郎を本かいなほうかんよしつねさんハ 
しづか御前をつれて来て、
夜も昼もだいてねて よんぼりよんぼりよぼんぼし
ほうしかけたるほうし岩
ぞろりやぞろりやそんそろり
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色々細部が違うが、義経が連れて「来て」となっているところが、徳島からの目線だと史実と符合している。東京に残っている「せつほんかいな」の歌詞も試しに載せてみると、
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獅子は せつほんかいな 獅子は喰わねど 獅子喰い喰いと 
雨やあられや かんろばい 
ぞろりやぞろりや ぞんぞろり 目出度いな 目出度いな 
橋の せつほんかいな 橋の欄干に腰打ち掛けて 
向う遥かに 見渡せば 
弁天 松島 小松島 
キュッキュと立ったは アリャ 何じゃ あれかいな あれかいな 
昔々 その昔 ずっと昔の大昔 
九郎 せつほんかいな 九郎判官 義経様は静御前を伴に連れ 
吉野を指して 落ちたもう ヨンボリヨンボリ ヨヨンボリ 
烏帽子かりぎぬ 烏帽子おり 
ぞろりやぞろりや ぞんぞろり 目出度いな 目出度いな
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「供に連れ 吉野を指して落ちたもう」とちょっと強引に辻褄を合わせた感じになっている。
「獅子喰い喰いと」や「烏帽子おり」などは、宍喰という地名の由来や、小松島にあった烏帽子岩の記憶が消失した感じがする。
それでは以下、お鯉さんバージョンを基準にして、歌詞を一つ一つ考えてみる。

●歌詞詳細①
「宍(しし)は<ホンカイナ>喰わねど 宍喰(ししくい)越えて
雨や霰(あられ)や甲の浦(かんのうら)
ゾロリヤ ゾロリヤ ゾンゾロリ めでたいな めでたいな 」

古くは肉のことを宍(シシ)と言った。主に猪と鹿の肉である。宍喰は現在の海部郡海洋町の地名で、甲浦は高知県東洋町の北東端に位置する町。宍喰と甲浦の間の宍喰峠には藩政時代の国境があり、双方の側に番所(つまり「関」)があった。最初思ったのは、労働歌的な感じで、荷を運ぶ人々が自分たちのルートを歌っているのでは?ということだったが、吉野川近辺にいる藍商人たちが、藍を主に生産していた吉野川河口からわざわざ土佐の浦戸港(高知港)に向かって陸路で赴き藍玉を江戸方面に運んでいたのは考えにくいし、海路で小松島から浦戸に行くことも想定しずらい。
蛇足的に藍商人たちのことを書いておくと、彼らは藍を発酵させた蒅(スクモ)を固めた藍玉(あいだま)を海路で江戸に運び、それを紺屋に売ることで生計を立てていた。藍は当時の衣服に切っても切れないもので、その藍の9割を阿波が独占していた。ゆえに彼らはスーパーリッチになったのである。その藍玉の運搬は、元和5年(1619)年に起こったという菱垣廻船が担った。吉野川河口部で収穫された藍は、津田浦や撫養(鳴門)から地元の廻船に積み込み、まず兵庫に送られ、そこから菱垣廻船に積み替えて江戸に送られていた。
もし陸路/海路で高知方面に運んでいた藍商人がいたと想定するならば、独自ルートで薩摩へ向けて阿波藍を販売していたという鈴屋も考えられるが、時代が大きく違うのと、九州にでるにしても当時の航海路は瀬戸内海を通って大分の港に行くか、下関を通って長崎方面に行くルートしかないから、いずれにせよこれは違うだろう。http://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/reference-11.html (この辺りは専門家へインタビューするのがいい)
もしくはシシは「喰わねど」とわざわざ書かれているところから、「近来年代記」に書かれている時代が天保の飢饉(1839年まで続いた)の直後だったということを踏まえて、当時肉を食べるのが禁じられていたことを考えると、「本当を言えば飢えているのでシシ肉を食べたいところだけども」という感情を込めた体制批判であるか?
もう一点考えられるのは、干支の亥を越えたことを含んでいるのではないかということ。亥の次は干支で言えば「子」だが、十干だと「甲」に戻る。天保年間だと、天保10年(1839年)が丁度乙亥にあたる。その前だと1827年の文政10年。「去年(天保10年の冬)より流行した」と書物に書かれていたとすると、亥年が過ぎたことを宍喰に例えた可能性もある。だが天保10年に流行したのはあくまでも大阪でのことであり、江戸が同時期だったとは限らない。
労働歌やルートを歌った歌ではないのなら、「せきぞろ」を「関ぞろ」と語呂をかけて、小松島から一番近い関所である宍喰/甲浦の関を節季とかけたというのが一番妥当な説明だと思われる。それに干支が重なった年に、流行に拍車がかかるみたいなことがあったのかもしれない。或いは「昔上臈」などとかけていた可能性もあるが。
もう一つ小松島にある「関所」と言えば、88カ所最初の難関と言われる19番立江寺である。これは悪人は入れない「関所」だと言われている。まあこれは余談として、次へ進もう。
「雨や霰」はどうとらえればいいのか。今の時代では「感謝感激あめあられ」ぐらいでしか使わないが、もともとは弓矢が大量に降って来ることに対する表現である。商人的世界観でいえば、歳末を超えて弓矢が雨あられに降ってくるという状態は、貸したツケがどっと帰ってくる、お金が大量に入ってくるという表現だろう。
ちなみに「近来年代記」だと、ここは「甲の浦」ではなく、「かんの岩」となっている。義経の侵攻ルートを調べてみると、弁天島周辺に船団を集結させた兜岩というものがあり、これが「かんの岩」と変化したか、そもそも地元では「かんの岩」と呼んでいた可能性がある。もしくは高知県大月町にある「観音岩」が訛って「かんの岩」になったことも考えられるだろう。(或いは小松島のすぐ近く阿南市羽ノ浦町には観音山がある)その場合は四国の右端と左端をぐるりと周るイメージになるが、ちょっと飛躍があるか。
江戸版ではここは「かんろばい/甘露梅(青梅をシソの葉でくるんだ砂糖漬けの菓子)」として伝わっており、おそらく出身や読む人によってこの辺りは無数のバージョンがあったはずで、「兜岩」だったことも「甲浦」だったことも、「観音岩」だったこともあるかもしれない。寒晒(かんざらし)というバージョンもある。
「ぞろり」は別に調べなくてもなんとなくわかる感じもするが、一応辞書で調べてみると、「一つながりになっているさま、贅沢な着物を着飾ったさま、だらしない感じに和服を着崩しているさま/着流しに粋に着たさま」のことだという。
芸者を一斉にあげた豪商が、彼女たちの着物を水戸黄門のお銀が悪い代官にされるように、ゆっくりと着崩させていく様子が眼に浮かぶようだ。或いは裾をまくっていったり、一枚一枚脱いでくみたいなことを考えてしまうのは飛躍しすぎだろうか。後にも記すが、この歌をある種の猥歌と見なせば(実際にこの歌をバレ(破礼=無礼講)の歌と説いている記事も見た)、烏帽子岩を男性器と考えることもでき、宍喰や甲の浦は女陰の表彰だともいえる。狂歌が全盛だったこの時代、こういうことを歌詞に含んでいないと考える方が不自然ではないか。
小沢昭一の「日本の放浪芸」に収録された小松島の老婆が歌うせきぞろに「節季はぞろりと」と云う歌詞があるので、この「ぞろりや」は、せきぞろたちが歌ってきたものを引用している可能性がある。
「めでたいなめでたいな」は、新年がやってくる喜びであろう。前述の「日本の放浪芸」の中でのせきぞろの歌や、門付き芸の歌の最後に必ず「おめでとうございます」と言い加えていたことを書いておく。染之助染太郎がかつて芸が終わるたびに「おめでとうございます」と言っていたっけ。

●歌詞詳細②
「橋の<ホンカイナ>欄干(らんかん)に腰うちかけて
向う遥かに見渡せば 弁天 松原(べんてんまつばら) 小松島(こまつしま)
きゅっ きゅっと たったはアリャなんじゃ あれないな あれかいな 」

「橋の欄干」とはなにか。「らんか」と読んでいるので「欄下(橋の下)」かとも思ったが、やはり欄干(手すり)のことだろう。ではどこの橋のそれだろうか。僕はずっと船から見た風景だと思っていた。商人たちが江戸から帰る船で向こうはるかに徳島の風景が目に飛び込んでくるというイメージだった。だが「橋の欄干」である。菱垣廻船にも欄干はあるようだが、素直に橋に戻るとしよう。
徳島の橋なのか、神戸・大阪の橋なのか。江戸に出た商人たちが江戸から故郷の方面を見ている可能性もある。となると場所は川沿いに藍蔵がひしめいていたという日本橋か江戸橋の欄干か。やってきた無数の菱垣廻船の姿を見て、その先の故郷である小松島の情景を想像したのではないかと。もしくは吉原の山谷堀にかかっていた小橋であるかもしれない。どこであるにせよ、そこに腰をかけて遠くを眺めていたということだ。花柳流の踊りでは、ここにタバコを吸う舞を入れている。
だがちょっと飛躍しすぎたようだ。欄干に座って実際に「弁天、松原、小松島」を見ていたと捉えた方が自然である。その三つは実際に現在の小松島市にある地名や場所のことだ。そこで小松島に当事あった橋を調べようと小松島市のホームページを見てみると、神代橋という橋に行き当たった。この橋は、『阿波名所図会』 という江戸時代の書に載っているとあった。調べてみると、本物の画像まで見ることができた。

『阿波名所図会』下巻 (文化11年 1814年 心斎橋通唐物町(浪華) : 河内屋太出版)

あらゆる説明は不要になってしまう説得力がここにはあった。ここから弁天、松原、小松島の全てが眺望できたのだ。まあ普通に考えてこの橋であろう。後で詳細に書くが、この絵にはこの歌を流行らせた張本人である可能性の高い「野上屋」の旧屋敷近くにあったという千歳橋がないので、まずこの橋で間違いなさそうである。
調べ物をしていて、「向こうはるかに」のくだりに気になるものがでてきた。上に挙げた光田憲雄の本で、「鳥追い」の女たちは三味線二上がりで「海上はるかに見渡せば七福神の宝船」と歌っていたと書かれていた。まあ珍しくもないフレーズであるし、ただの偶然の一致とも言えるが、小唄「門松」の中にもこの「海上はるかに見渡せば」が鳥追いの歌としてそのまま引用されているところを見ると、かなり代表的フレーズであったようである。また小沢昭一「日本の放浪芸」の中で収録されていた、徳島三好町足代の人形師たちが演じる「えびすまわし」の中の歌に、「岩の狭間に腰うち掛けて、向こうはるかと眺めてみれば あれは漁船 これは網船…」という言葉が偶然耳に残った。これも年始に家々の正月神を言祝ぐ門付け芸であるので、古くから門という門を訪れる人々のお決まりの言葉を、この歌の作者が引用したのではないかと思う。ようやくこの歌が、門付け芸の「せきぞろ」につながるポイントが出て来た。つまり門付き芸たちが歌う定番の「正月歌フレーズ」を歌詞に入れたのではないかということである

上にも書いたが、弁天、松原、小松島、烏帽子岩はすべて小松島市金磯町に存在する地名、もしくは場所である。この金磯町付近は今は完全に陸地になっているが当時はただの砂浜であり、義経はこのあたりに到着した。一説によると、静御前もこの後遅れて徳島に上陸したのだともいう。義経一行は、歌詞で「弁天」と言われる弁天島に船で上陸し軍議をひらいたという。この付近にかつて四国十二景の一つであった横須松原があったが現在はほぼ消滅している(つまりこれが歌の「松原」)。義経はそこから屋島方面に向かい、平家を殲滅するのである。
烏帽子岩は高さ7m以上、下方の周囲は32.4mほどあったとされる巨大岩であったが、1854年の安政南海地震により上部が倒壊し、昭和40年ごろの土地整備によって跡形もなくなった。この岩に義経が烏帽子をかけたとの伝説があり(おそらく後年の付会か)それが歌に詠まれている。
「きゅっきゅ」の意味はさだかでないが、「きゅっと」ならば強く締め付ける様、心に強く迫るさま、しごいて音を立てる様、酒を一息に飲む様を示す。この一文は、一番最後の文章の「烏帽子かけたる烏帽子岩」にかかっている。あれはなんじゃ→烏帽子岩だった。これまで書いてきたことからしても、いきり立った烏帽子岩が男根の象徴だと考えることは容易い。まあ色街の酒席で歌うんですからこれくらいじゃなきゃなるまい。「近来年代記」だと「きらきらと立った」になっているが、これは誤植か記憶の誤りであると思われる。

●歌詞詳細③
昔 昔 その昔 ずっと昔のその昔 昔
九郎(くろう)<ホンカイナ>判官義経様(はんがんよしつねさま)は
静御前(しずかごぜん)を 連れて逃げ
夜も昼も語り合い よんぼり よんぼり よよんぼり
えぼし かけたる えぼし岩

ずっと昔の具体は、まさしく上記の義経阿波上陸の時点である。歌詞に詠まれているように、寿永4年(1185年)2月18日に源義経は、摂津国渡辺津(現在の大阪の中心地付近にあった瀬戸内海最大の港)から、150騎のみを従え暴風の中を物凄いスピードで勝浦の庄(小松島市金磯町)に上陸する。天保11年から遡ること、約650年前のことだ。
お鯉版で「連れて逃げ」となっていることに対して、徳島の八万にある竹林院という寺に静御前の墓があるという説がありその印象が強くて、僕は何も疑問に思ってなかったのと、源平の戦いの顛末をいまいち理解していなかったのもあり、たいして気にはしていなかったのであるが、義経は小松島にやって来た後、屋島に向かいそこから壇ノ浦の戦いまで連勝を続けた後、兄・頼朝の怒りをかい、平泉方面へと逃げたのであって、京から徳島に逃げて来たのではない。静御前はその後、平泉へ落ち延びた義経一行を追う途中、吉野で捕まったとされる。さてこの静御前であるが、けっこう曰く付きなのである。彼女の墓は全国で10箇所以上あってどれが本当なのかまったくわからない。

伝説によれば、頼朝に捕まって後、鎌倉で目の前で舞を強制され、「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな (倭文(しず)の布を織る麻糸をまるく巻いた苧(お)だまきから糸が繰り出されるように、たえず繰り返しつつ、どうか昔を今にする方法があったなら)」との歌を詠んだという。「ずっと昔」のところがこの歌を意識したところがあったのか。
夜も昼も語り合い、よんぼりよんぼりということはまあずっとイチャイチャしていたということだろう。「よんぼり」という言葉の意味はよくわからないが、織田作之助の『俗臭』という作品の中に、不注意者の文字に「よんぼり」とルビをつけたものが見える。古い大阪弁にあった言葉かもしれない。或いは、宵っ張りが訛ったものか。「よん」の語感を考えると、よんどころ[拠る所]頼りにするところの「よん」。あるいは昨夜(よんべ)の「よん」が考えられるが、前者か。「よる」であると、「立て籠もる」や「物事に関係する」「ある物事の根拠、基準、理由となる」の意味になる。ぼりは、貪るから来た大阪弁の「ぼる」ではないだろう。おそらく、惚けるから来ているように思う。遊び呆ける、夢中になる。「よって惚ける」つまり「甘えて夢中になった」っていうことではないか。酔って惚けるかもしれない。阿波弁で酔っ払いのことを「よたんぼ」というが、なんとなく語感が通じる。
実際には義経の逃避行は、正室の夫人も同行しているので、二人でずっとイチャイチャしていたということはない(むしろその夫人は平泉で義経と一緒に死亡している)。そもそも静御前の存在そのものが、『吾妻鑑』のみに記されているのみで、フィクションである可能性が高いのだという。静御前は白拍子であった。白拍子は巫女であり、遊女でもあった。
この歌が遊郭で歌われていたことを踏まえれば、これは間違いなく、自らと遊女とを、英雄義経とその愛妾静御前に重ね合わせている。義経のようにお前と「ヨヨンボリ」したいと(酔って惚けてしまいたい)という粋なのかどうなのかわからない口説き文句なのではないか。そして烏帽子岩に烏帽子がかっているというフレーズはどうみても隠語であるだろう。そこから先は屋島に攻め入り壇ノ浦での八艘飛びか、はたまた平泉で塵と消えるか。史実がどうこうではなく、遊女や花魁を連れて逃げたい=水揚げしたいというマインドがあるようにみえる。
ちなみに、有名な歌舞伎の『勧進帳』は、5代目市海老蔵によって1840天保11年の3月に河原崎座にて初演されたという面白い符合がある。現代で考えれば、「東京ラブストーリー」が放映された年に愛媛出身のIT社長が、自分の実家付近がロケ地だったとキャバ嬢に告げ、おまえはさしずめ俺の鈴木保奈美だというようなものであるのか。とにかく「義経」と口にすれば「キャー」という反応が帰って来た時期であったろう。
そして再度ぞろりやぞろりと、衣服を脱ような語が示され、新年のめでたさを歌うのである。
上記から導き出せる現代語的に、意味を考えた訳を談志が喋っているような口調で蛇足ながら載せておく。
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この大飢饉の折、去年の干支のシシでさえ食べてしまいたいくらいだけども、もちろんご禁制ゆえ食えないけどね、とにかく郷里の阿波の国で関と言えば、宍喰を越えていって、甲浦にたどり着くわけだね。そこは雨や霰。金銀小判が弓矢が空から降ってくるみたいにどっさり来るといいね。
ぞろりぞろりと着物をはだけて。いやいやほんとにめでたいね。
郷里の神代橋の欄干に腰をかけてだね、海の方を眺めてみるとだね、弁天 松原 小松島。あの大きく屹立したものはなんだっけね。
ずっと昔、そのまた昔。かの九郎判官義経様が、御愛妾の静御前を連れて逃げてったね。屋島の戦いのみぎり、皆の反対を押し切って嵐の夜に義経様は、松原の弁天様のところに船を乗り付けたんだがね。小松島生まれのあたしはさしずめ義経様で、おまえさんはまあ言ったら静御前みたいなもんだね。昼も夜も抱いて寝て、酔い惚けてみたいもんだね。一緒に吉原の大門から逃げようじゃないか。
ああ、あれはなんだったか思い出した。義経様が被った烏帽子を脱いでかけたという烏帽子岩だった。
ぞろりぞろりと着物をはだけて。めでたいね。
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第二章  誰がこの歌を流行らせたのか。
この歌は小松島近辺の情景を歌っていることから、小松島出身か縁故の者であったと類推するのが一番の近道だろう。阿波の藍商人として思い浮かべると、代表的な久次米家(紀伊国屋文左衛門の邸宅跡を継いだ)や三木家に代表される吉野川流域の藍商人だけでなく、小松島近辺にも大きな藍商人がいたようだ。資料によると小松島は幕末期には阿波藍取引の25%を占めて重要な港湾都市として発展していたという。
小松島には、蜂須賀入国以前から活躍していた豪商の寺沢家(阿波藩藩札の座元人)や井上家。野上屋を営んでいた西野家(現在の西野金陵)などがいたという。野上屋は明和期(1764~1771)に江戸に出店を作る。7代目嘉右衛門は加古人(舟こぎ人夫)から苗字帯刀を許される大藍商になったという。8代嘉右衛門は吉原を三日三晩貸し切り豪遊し、「藍(阿波)大尽」と呼ばれていたという。(年代は安永年間1770年前後)
「阿波の大尽」とはこの人のことであったのか。
さて。この8代目が琴平に酒造を作り、そこに今でも西野金陵の酒蔵があるのだからすごい。https://library.tokushima-ec.ed.jp//digital/densi/desiryou/ken/mon_kikakuten/k8.pdf
祖先が土佐から移住してきたという島屋六兵衛は寛文年間(1661~1672)に初代島屋六兵衛となった。島屋六兵衛が江戸に出店を持ったのは嘉永6年(1853)年であったというが、ちょっと時代が遅い。可能性としては宍喰を越えた甲浦から郷里の土佐を越えてと歌った可能性も考えられるが、野上屋とライバル関係にあったというから、小松島の情景を歌うことはないだろう。色々な条件を踏まえると、野上屋の人々が一番怪しい。
現在小松島松島町付近の西野家の邸宅跡は、会社の寮が立っていて、後ろに才の字の屋号の蔵が見える。
旧辰巳屋敷と長屋門は、千歳橋付近の昭和22年の道路拡張のため、阿波十郎兵衛屋敷に移築されている。

中興の祖12代嘉右エ門が野上屋の印を「才」にした(1859年ごろ)のだというが、勝手な憶測であるが、この「才」マークは、日本橋で年末にされていた才蔵市(三河万歳の烏帽子をかぶった太夫が相方の太鼓をたたく道化役の才蔵を探す市)とリンクしないか。烏帽子岩を被る義経を太夫とし、商人はそれと行動を共にする「才蔵」だと洒落たのではないかと。まあこれは邪推に過ぎない。
興味深い社会学者の研究があった。「作付された藍は収穫後に粉にされ、乾燥後に発酵させ自然に固まった蒅(すくも)をつくる。これが藍染の染料であるが、これに砂を混入させて薄手固め、「藍玉」として販売されることが多かった。その砂によってもブランドが変わるようになり、阿波藍の場合は小松島浦にある根井や、弁天の沖砂が最良とされた。」
(たぬき合戦は砂をめぐる吉野川北岸と南岸との利権争いだったという説もある)
弁天松原小松島という時、この沖砂のことが念頭にあったかもしれないし、それに義経のブランディングをほどこし、今のCMソングのような形でこの歌を作った可能性もある。まあ十中八九、小松島の大藍商人(たぶん野上屋)が地元の地名を呼んだ歌を吉原を中心に流行らせた歌だといえそうである。この歌が文政天保以前に小松島で存在したのかどうかは調べて出てくるだろうか。鳥追い歌との符合を考えてみると、いくつか他にあった歌を詰め合わせて一曲にしている可能性もある。たとえば義経云々のパートは地元の別の歌が元になったのかもしれない。
この歌を広めた人の正体を「野上屋」だと比定すると、8代目の最晩年か、9代目の初期頃だろうか。
ちなみに天保11年は日本中が飢饉や圧政で荒廃していたのとは対照的に、阿波藍の作付け面積が6000町以上に達したピーク期であった。

この歌の作者候補として、ちょっと時代はさかのぼるが藍商人から狂言師になった遠藤宇治右衛門(阿波屋吉右衞門/六々園春足)の存在を上げておく。石井町出身。資料にあるように1810年に29だっとすると、天保11(1840 )年には59。この頃にギリギリ生きてたかもしれない。大阪よりもまず江戸で流行していたとするならば、彼が生きていた時代とシンクロしていたと考えても問題はなかろう。この辺りは専門家に聞いて見たい。
彼は江戸十組問屋(とくみどいや)の一人だったとされる。この十組問屋は永代橋、新大橋、吾妻橋の三橋の架け替えを申し立たところから発祥(橋のかけかえを請け負えるほどの財力があったということ)。そこには菱垣廻船の問屋仲間の会所(三橋会所)があった。彼はなぜか商人を辞して狂言師になった後、十返舎一九、蜀山人、式亭三馬、滝沢馬琴などの当時の最高峰の文人らとも交流していた。文政天保年間(1818 ~1843)は狂歌の大ブームだった時代でもあり、このような地名と干支と卑猥な表現を歌にしたセンスは察せられる。当時の豪商農らは俳諧狂歌を趣味とすることがおおかったようであり、阿波の商人たちを中心に多くの弟子がいたようである。
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ここまで見て来たように、これは新年のめでたさを、季語としての「せきぞろ」や、門付き芸的要素により彩り、
徳島の小松島の情景と義経伝説を歌った歌である。今現在は芸妓が歌い踊る曲となっているが、小松島の商人を主語とした歌であるように思える。
これを歌い踊る人々は、かつての「せきぞろ」のような格好をして酒席でこれを踊ったのではないかと想像する。

課題(現時点):
1.本かいなの合いの手の意味合い。他の唄や「えびすまい」にこのようなものはあるか。「ほんとかい?」と合いの手を入れるのはなぜか。
2.そもそも藍商人が「せきぞろ」を流行らせたという記録はなにかあるのか?

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