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夜の隙間に

蒸し暑い夏の夜、拓也は一人、自室の窓を開け放っていた。街灯の薄暗い光が部屋に入り込んで、微かに揺れるカーテンの影が壁に映し出されている。彼は何もかもがうまくいかない日々に疲れていた。仕事の失敗、人間関係のいざこざ、未来への漠然とした不安。その重さに押し潰されそうになりながら、拓也はひたすら時計の秒針の音を聞いていた。

「何かが違う、何かが足りない」

心の中でそう繰り返しながら、彼はぼんやりと天井を見つめていた。外からは、遠くでかすかな車のエンジン音が聞こえ、たまに通り過ぎる風の音が混じっていた。

その時、不意に窓の外で何かが動いた気がした。拓也はゆっくりと体を起こし、窓の外に目をやった。最初は何も見えなかったが、次第に視界が慣れると、月明かりの下にぼんやりとした影が立っているのがわかった。

「誰だ?」

声をかけると、その影は静かに振り返り、女性の姿が浮かび上がった。白いワンピースを着た彼女は、拓也の知り合いではない。しかし、どこかで見たことがあるような、そんな不思議な感覚に襲われた。

「どうしてここにいるんだ?」

拓也は思わず口にした。しかし、彼女は何も答えず、ただ微笑んでいるだけだった。その微笑みには、深い悲しみと懐かしさが混じり合っていたように見えた。彼女は静かに手を伸ばし、拓也に何かを渡そうとした。薄い指先が差し出したものは、古びた鍵だった。

「これは……?」

拓也がその鍵を受け取ると、突然、世界が歪み始めた。窓の外の風景がぐにゃりと曲がり、壁や床が不自然な形で揺れ動く。目の前の女性の姿も、ぼやけて見えなくなり、気がつくと拓也は暗闇の中に立っていた。

「どこだ、ここは?」

見回しても、何も見えない。ただ、遠くから聞こえる微かな音だけが、静寂を破っていた。まるで誰かが泣いているような、そんな音だった。

「誰かいるのか?」

拓也は恐る恐る声を上げたが、返事はなかった。代わりに、目の前にぼんやりとした光が現れ、その中から再び、あの女性が姿を現した。彼女は今度も何も言わず、ただ拓也を見つめていた。

「どうして俺はここにいるんだ?」

問いかけるが、やはり答えはない。代わりに、女性は再び拓也に近づき、その手をそっと彼の手に重ねた。その瞬間、拓也の頭の中に一瞬だけ、強烈な光景が流れ込んだ。

それは、自分が忘れていた記憶だった。幼い頃、拓也はこの女性と出会っていた。夏祭りの夜、迷子になった自分を助けてくれた優しいお姉さん。彼女は拓也を家まで送り届けた後、ふっと消えてしまった。その後、彼女のことを誰に聞いても、そんな人物はいないと言われた。

「あの時のお姉さん……」

拓也がそう呟くと、彼女は初めて口を開いた。

「あなたは、ずっと私を探していたのよ」

彼女の声は優しく、しかしどこか悲しげだった。

「私はここに閉じ込められているの。あの時、あなたが渡してくれた花火を見ていたら、ここに迷い込んでしまったの。もう戻れないのよ」

彼女の言葉に、拓也は息を飲んだ。

「じゃあ、俺はどうすればいいんだ?」

「あなたは生きている。ここにいてはいけない。元の世界に戻って、あなたの人生を生きるのよ」

拓也は再び、あの古びた鍵を握りしめた。そして、それをそっと差し出すと、彼女は静かに頷き、薄く笑った。

「さようなら、拓也。ありがとう」

その言葉を最後に、彼女の姿は再び消え、周囲の闇も一瞬で消え去った。気がつくと、拓也は自分の部屋に戻っていた。時計の秒針が規則的に動いており、窓の外には何もない。

手の中には、いつの間にかあの鍵は消えていた。ただ、心の中にほんの少しの軽さと、懐かしさだけが残っていた。

拓也は静かに窓を閉め、深い呼吸をした。これからは、彼自身の人生を歩んでいくのだと心に決めて。


終わり

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