第九章 本多と花井の会話

「本多くん、不思議なことがあるのだ。佐渡で能舞台を調べているうちに、なぜか順徳さんに行き着いてしまう。真野が特別な場所だから、当然なのかもしれない。」

花井は、湯呑み茶碗にたっぷりと、お茶を注いだ。今日は饅頭を齧っている。

「承久の変で敗れた、後鳥羽院と順徳院は、それぞれ隠岐と佐渡に流された。なぜ、この島だったのだろうか。」 

花井の話は、いつも魅力的だった。本多が知らないことを教えてくれる。

「平安時代の遠流の地として、神亀1 (724) 年に伊豆、安房、常陸、佐渡、隠岐、土佐の六国と定められている。当時、都からの距離も考えて、これらの土地に決まったのだろう。」
ここで、花井は、一呼吸して、本多に尋ねた。

「では、この遠流の地のうち、なぜ隠岐と佐渡になったか、本多くん、わかるかい。」

「いいえ、考えたことはなかったです。漠然と配流なので、離島なんだと思っていました。」

本多は正直に答える。彼は知らないことを恥だと思わないひとだ。

「きみは日本書紀を読んだことがあるかい、神代上で、国生みの話が書かれている。伊奘諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)は、隠岐州(おきのしま)と佐渡州(さどのしま)がふたごとして生まれた。これが双子のはじまりであると。」

花井はうれしそうに語る。

「たまたま、日本書紀を読んでいて、最初にこの文章が目に飛び込んできた。後鳥羽院と順徳院は、双子のように仲がよかった。鎌倉方で、この史実を知っていたものがいたのだろう。」

本多は感心したように、うなづき、尋ねる。

「それで、土御門院は、みずから望んで土佐の国に行ったのですね。一度に三人もの天皇が配流されたのですが、日本中を騒がす事件だったでしょうね。」

「この間、教えてくれた『諸陵図記』だが、これは、寛永4年以降のものだね。国府川の流れ方でわかる。佐渡奉行所は、寛永4年(1627年)に国仲平野で大洪水が起こったことを期に国府川下流部の蛇行部分を除去する工事を行った。また、ここにならんでいる地名には、それぞれ能舞台があるのだ。まるで、真野御陵を囲むようにして、並んでいる。それらは、順徳院を慰霊しているようだ。この島に配流されたものは、昔から大勢いるが、中世まではいずれも政治犯だ。その中でも、世阿弥、日蓮、そして、順徳院がきわだっている。」

本多が身を乗り出して、諸陵図記を眺めた。
「順徳さんは、天皇だった方です。そんな身分の高い方は、彼ただひとりですから、特別な存在でしょう。真野御陵を中心にした地図も、当然のことです。島民たちがいまでも順徳さんと、気軽に話をしたり、物語をするのも、大切に思っているからでしょう。子どもの頃、読み聞かせられた佐渡の民話では、順徳さんと、日蓮さんが一番多かったです。」

「天皇だった方といっても、22年間も島で暮らしたのだから、島民とも馴染みがあったのかもしれない。あるいは、それだけ、苦労をされたのだろう。」
花井は、もうひとつ饅頭を頬張る。

「民話の中に、こんな話があるのです。」
本多は、一冊の本を取り出して、付箋のついているページを広げた。
「佐渡には、昔から狐はいません、狂言で佐渡狐という演目もあるくらいですから。かわりに、むじなが住んでいます。順徳院が、二宮に住まいする忠子親王を訪れようとすると、前の晩に石がピシピシと音を立てて、きれいに並べ替えられるそうです。それは、むじなの親分が、敬意を表して並べ替えていたといわれています。」

「なるほど、むじなも順徳さんを慕っていたわけだ。」
花井はうれしそうに笑う。

「それだけではありません、夜、順徳さんが道をゆくとき、危ない場所になると、止まれと叫んで知らせたそうです。身辺警護も担当していました。」

二人は、遠く都から離れ、むじなにもお可哀想だと思われている、順徳院の日々を想像していた。

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