第十三章 花井と本多の会話


「佐渡で能楽が盛んになるのは、大久保長安が、慶長8年(1603年)7月に佐渡奉行に任命されたからだといわれている。大久保長安は、猿楽師の大蔵太夫十郎信安の次男として生まれ、佐渡に能楽を持ち込んだという。」
花井は、いつものノートを広げて、書き込みを読み始めた。

「この慶長8年というのは、どんな年か知っているかい。2月12日 に 徳川家康、征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開府。一方で4月22日 に 豊臣秀頼が内大臣に任じられている。豊臣氏はまだ健在。豊臣氏が大阪夏の陣で滅びるのは、それから十二年後だ。徳川家康は、大久保長安の事務的手腕を見込んで、全国の金銀山の統轄や、関東における交通網の整備を任せていた。」

「なるほど、大久保長安が佐渡奉行になったのも、兼任で、そんなに忙しい人なら、佐渡に長く滞在することは、難しかったでしょう。能楽者たちを連れて来たといわれていますが、優雅に能楽を楽しむ時間はなかったかもしれない。」

本多は、佐渡の人間だが、大久保長安については、詳しくは知らなかった。

「本多くん、佐渡で能楽が盛んになるのは、江戸から明治時代にかけてだ。組み立て式の能舞台を含めると、四百くらいあったといわれている。人口10万人くらいの島に、多すぎるだろう。どうして、そんなに能楽が盛んだったのだろうか。」 

花井の問いかけに、本多は言葉を捜す。

「ぼくは佐渡には日本の能舞台の三分の一が集まっていると、習いました。そんなものかなあと、思ったけれど、どうしてなのかと、考えたことはありません。」

本多は、正直に答える。佐渡生まれの彼には当たり前のことなのだ。

「能舞台は、国仲平野に集中している。組み立て式の舞台は材料の保管や出し入れが大変で、散逸してしまったものが多い。木材が他の用途に使われてしまったものもある。兼用舞台もあるが、いつでも使えるものが便利だ。床と柱さえあれば、茅葺の屋根を葺いて、作れるのだから、いつでも使えるように、神社の境内に建てられたのは理にかなっている。」

今日も花井はノートを出して、書き込んでいる。

「子どもの頃、佐渡では、能舞台に自由に上がって、舞っていいと言われていました。ただ、靴のままあがるのは禁止で、裸足で歩いて遊んだりしていましたよ。」
本多が懐かしそうに言う。

「いまでも、演能の前にはまず雑巾掛け。装束が汚れないようにするのはもちろん、神様に対して、清らかな空間を作るのが一番大切なんだ。あちこちのシテ方を訪ねて、話を聞くと面白いことがわかってきた。」
花井はノートを広げてみる。

「ほう、それはなんですか。」
本多が身を乗り出して聞く。

「能楽の伝承は、祖父から孫の組み合わせなんだ。歌舞伎の世界などでは、父親が子どもに芸を伝える。だが、佐渡の能楽は、おじいさんが、孫を稽古に連れ出し、小遣いをやったり、食べ物でつったりして、能楽に巻き込む。このとき、息子は農業や家業に精出していて、父親に、あまり子どもをつれださないようにと、釘をさしたりする。」
花井の話は新鮮だった。

「つまり、稼ぎ手は別にいて、その役割から外れたものが能楽を習うのですね。いまでも、会社を定年退職したから、これで、能楽に専念できます、という話を聞きます。」
本多は、そんな挨拶を最近聞いたことがあると思った。

「孫は、子方から始める。ここが大切なんだ。演目には子方が必要だろう。佐渡では、身内から連れてくるしかない。今、名人と呼ばれるシテ方は、みんな明治生まれの祖父から、連れられて能楽を習っている。本格的な演能をみて、自分から学んでいったそうだ。お稽古も楽しみで、出かけると帰りに祖父が好きなものを買ってくれたと、教えてくれた。そして、今は、宿題や塾があって、祖父が孫を連れ出そうとすると、父親から猛反対されるらしい。」
花井は、あちこちで煩いほど質問しているらしかった。

「時代が変わりましたね。羽茂の小学校では、四年生から仕舞いや謡を習って、発表会があると聞いています。その衣装は、自前で、立派な袴姿のものもいます。親や兄弟からの借り物。なによりも、親が熱心に我が子の演ずるのをカメラに撮っていました」
本多は三月に発表会を見に行ったばかりである。

「一度舞台の魅力を知ったものは、もっと稽古して、精進して、みんなにみてほしいと思うものだ。観客が演能を支えている。」
花井は、ノートに書き込む。
「これは江戸も明治も同じだったのだろう。」

「昔は、神社で能楽があるとき、屋台の店が並び、のぼりが立ち、まるでお祭りのようでした。能楽も五番までやったと聞いています。」
本多も祖父に連れられて、でかけたのだ。

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