見出し画像

ベビーフードの会社にパティシエが!?

皆さん、はじめまして!
株式会社MiL商品開発部のパティシエ菊地 俊輔(きくち しゅんすけ)です。
「何故、ベビーフードの会社にパティシエが!?」と思うかもしれませんね。

元々はウェディングケーキを作るブライダルパティシエだった菊地が、どうしてベビー・キッズのお菓子を開発しているのか、、、自己紹介も兼ねて、まずは経歴をお話したいと思います!

モブキャラから、なりたいものへ

出身は横浜市、父はサラリーマンで、母は専業主婦の平凡な家庭に生まれました。
何にでもなれるような気分になる自由さもなく、反骨精神を養うような不自由さもなく、得意なことも、不得意なことも特にないようなモブキャラとして順調(?)に育っていったわけですが、高校2年生の時に大きな壁にぶつかりました。多くの人が悩んだであろう進路面談です。

何の目標も無く、ゆるっと呑気に生きてきた自分にとって、将来を決めなさい!と自分の人生に向き合うことはとても難しいことでした。高校生でマンダラチャートを完成させていた大谷翔平さんとは大違い。何かを成し遂げたいならマンダラチャートを書きなさいと言われても書かないような高校生でした。

そんな高校生が進路を考えていくのですが、父と同じようなサラリーマンになるのはピンと来ず、漠然と何か手に職を付けたいなと思っていました。どんな専門職になろうと考えた時に一番しっくり来たのがパティシエという道。

何故パティシエだったかというと、思い返せば理由は色々とあって、

(1)  お菓子を食べるのが好きだったから

(2) 「アンティーク」というお菓子屋さんが舞台のテレビドラマがやっていたり、テレビチャンピオンでパティシエ選手権がやっていたり、パティシエブームでカッコいいと思ったから

(3) こどもが好きだったので、何か喜ばせられる職に就きたかったから

(4) 母や姉が家でお菓子作りをしていて、お菓子が焼きあがる香りが好きだったから

(5) 感情を表に出すのが苦手だったので、人々の感情が動く仕事がしたかったから

などなど、あくまでも思い返せばですが、これらを理由にパティシエの道を選んだ訳です。

改めて振り返ると、とても安易に決めた気がします。。。(というか、パティシエになる人は楽観的に決めた人が多いような気がします。料理のように幅広い分野で活躍できないし、嗜好品なので絶対的に必要なものではないので、ゆるっと安易に決めないと進めない道だと思ってます。確固たる決意でパティシエへの道を決めた同士たちが読んでいたら、ごめんなさい!)

なりたいものになったつもりが、やっぱりまだモブキャラだった話

そんなこんなでパティシエになる事を決め、製菓専門学校に入学し、あっという間に卒業。就職先は、子どもを喜ばせられる&人々の感情が動く場所ということでエンターテイメントの最高峰であるディズニーへ。ディズニーシーに併設されているホテルミラコスタに配属され、夢と希望(と魔法)に満ち溢れながら結婚式のデザートやウェディングケーキを作る毎日を送っていました。朝から晩までお菓子と向き合い、ディズニーのエンターテイメントに触れる中で、人が感動するにはストーリーが大切なんだと学びました。
ストーリーを生んでいる魔法使いのような気持ちでお菓子を作っていましたが、それはディズニーでの話。テーマに沿ってレシピ通りに作っていれば自然とストーリーが付いてくる。まだまだ歯車を回す小さな小さな部品のひとつだと気付いたのは入社してから3年後のことでした。パティシエや社会人として基礎を学んだディズニーを退職することに決めました。

ディズニー時代に作ったクリスマスデザート

食について改めて考えるキッカケになった話

ディズニーを退職した後は、お菓子から一度離れて子どもに関わる仕事をしようと思い、保育園で保育士見習いとしてアルバイトをすることにしました。お世話になったのは看護師の3人が立ち上げたNPO法人の保育園。明確な支援理念を元に、厳しくも愛のある園で先輩の先生達に保育について教えてもらいながら1年ほど働いていました。男性保育士ならではの子ども達との関わり方を意識しつつ、日々過ごしていくのはとても有意義だったように思います。

しかし、一点どうしても納得のいかない園の暗黙のルールがありました。それは給食を残してはいけないというルール。勿論、ご飯を残すことは一般的には良いことではないですし、管理栄養士の資格を持っている看護師さんが考えるメニューですから子ども達の為を想っての量・質だったのだと思います。ですが、体格差や家庭環境が違う中で、食が細い子や好き嫌いがある子もいて、どうしても残してしまう事があります。子ども達もご飯を残すことが悪いことだと理解していながらも、まだ幼い本人たちにはどうしようもなく、残すのが悪いと怒る先生に泣きながら謝ることしかできないのでした。日々その光景を見る中で「食はまず楽しくあるべき」と考えていたパティシエ出身の保育士見習いは、この状況を変えたいと主任の先生に相談しましたが、保育について何の資格も知識もない自分には変えられるものではありませんでした。食べることがツラいことだと思っているかもしれない子ども達から逃げるように、パティシエの世界に戻ることを決めました。

食は楽しくあるべきを求めて。 そこからの違和感と気付き

1年間の保育園でのアルバイトを辞め、平日はレストラン、土日はブライダルをやっているお店にパティシエとして入社しました。
レストランでは食べることが好きな方達の為にデザートを、ブライダルでは幸せに溢れた新郎新婦とゲスト達の為にウェディングケーキを作り、日本橋三越本店にもオリジナルブランドを出店したりとパティシエとして華やかな環境でした。
しかし、様々なお客様と直接お話をさせていただいたり、向き合う中で自分が作っているものにわずかな違和感があることも感じていました。
ウェディングケーキは見栄えが大切なので真っ白な植物性クリームを使い、デザートには面白い食感や見た目を演出する為にゲル化剤や着色料などの添加物を使用、アレルギーは限られた材料の中で可能な範囲での対応、万人ウケする美味しいを作る為に白砂糖や精製された薄力粉を使用するのは当たり前になっていました。
違和感を感じながらも、それを見て見ぬフリをして美味しくて見栄えのするお菓子を作る日々。仕事に余裕が出てきて、ふと視野を広げた時に自分のお菓子作りは本質的に人を幸せにしているのか?と感じることが増えてきました。

パティシエ時代

MiLとの出会い

そんな中、以前同じ店舗で働いていたシェフからお菓子の開発依頼がありました。
そのシェフが所属しているベビーフードを主とした会社で「アレルゲンフリーの幼児用ソフトクッキーを作りたい」というお話でした。ロカボ、グルテンフリー、ビーガンなど食の多様性が広がり、情報量が多くなっている現代ではそんなに難しい依頼ではないと感じたのが第一印象でした。
しかし、商品設計や試作を詰めていくと様々な制約があり、一筋縄ではいかないものでした。日々のお菓子作りでの違和感を見て見ぬフリをして、便利な材料に甘えてお菓子作りをしてきたツケが回ってきたと感じました。工場に落とし込むまでに3ヶ月間かかってしまい、そこからさらにシェフと工場で調整していただき、リリースまでには5ヶ月以上経過してしまいました。開発時間を多くを要してしまった不甲斐なさを感じつつ、アレルギー対応のお菓子を世の中に生んだことで今まで抱えていた違和感が少し軽くなったような気がしました。

その開発を機にシェフと会ったり連絡を取る機会が多くなり、会社やシェフの理念を伺い知ることで、自分の違和感を払拭できるかもしれないと思い、その1年後にMiLに入社することにしました。

さて、今回はツマラない自分語りになってしまいましたが、次回はブライダルパティシエがMiLに入社して、本物の商品開発を経験した中での学びや喜び、そして多くの苦悩を、同じく自分語りでお送りしたいと思います。
良かったら、次回も読んで頂けたら嬉しいです!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?