見出し画像

アパートメント紀行(21)

ニース #1


 バルセロナのサンツ駅から南仏のニースまで、所要時間は約九時間。 途中、フランスのモンペリエという駅で、スペインの国鉄からフランスの国鉄に乗り換えなければならない。

 地中海沿いを走る列車からの眺めは、ため息ものの景色だけれど、音もなく国境を越えてフランスに入った辺りから、やっとそろそろ車窓から延々と地中海が見えてくるという辺りから、私はうとうとし始めた。
 
 車内放送がほぼない静かな車内には、さあ眠りなさいというような穏やかな空気が満ち満ちていて、車内には数匹の犬も乗っていたけれど、とても躾の良い犬ばかりだったから、誰も睡眠の邪魔はしてくれなかった。

 過去に幾度か、この路線の列車に乗ったことがあって、その時の感動を再び味わうために列車での移動を選んだのに、これではもったいないじゃないかという自分への叱咤の声が、車窓から流れ去る景色と共に消え去ってゆく。 楽しかった昨夜のことを思い出しながら、心地良い車両の揺れのおかげで、また眠りの世界へと導かれてゆく。

画像1

画像15

画像16

 列車がすうっと静かに、どこかの駅に止まった。 眠い目でホームを見ると、コリウールと書いてある。 ああ、私はずっと以前、ここに滞在したことがある。 ピカソやマティスが愛した町。 地中海を庭のように抱き、うつくしい色とりどりの家が立ち並ぶその小さな町は、フォービズムの画家たちに愛され、たくさんの絵が描かれ、その絵が描かれた場所に、その絵の看板が立っていた。
 
 どこを向いても絵になる町には、ピカソのかつての定宿があり、そのホテルの一階にあるレストランのクリームブリュレは絶品だった。週末になると、街中にキャンバスが立てられ、特に海沿いの遊歩道は日曜画家でいっぱいになり、真っ直ぐ歩けないほどだった。

 ガイドブックにも数行しか載っていないコリウールの町を知ったのは、南仏に留学していた妹が、その町にアパートを借りていたからだ。 妹が通っていた学校からはバスで一時間以上もかかるというのに、オフシーズンで安かったからという理由で妹が借りていた部屋は、夏だけしか営業しない土産物屋の上にあった。

 土産物屋は細長くて小さな三階建てのサーモンピンクの建物で、土産物屋の横のドアを開けると狭い階段があって、突き当りの小さなドアから中へ入ると、メゾネットの部屋があった。寝室になっているロフトの天井には開閉できる天窓があり、思いっきり力を入れないと開かないその窓から、よく地中海を眺めていたことを覚えている。

 地中海沿いを走る列車を乗り継いでそこへ辿り着いた若かった頃の私は、それこそ絵に描いたような、「ザ・南仏」な素敵なアパートに感嘆し、二週間ほど滞在させてもらった。 そこが南仏ではなく西仏で、もともとはカタルーニャ地方であったことはずいぶん後で知った。 その時は、気まぐれな妹に振り回されて、大半の時間を一人で過ごしていたので、姉妹の確執と孤独感に向き合いながら、その町と地中海のうつくしさに癒されていた。

 その妹も今では、中学生の子どもを持つ母親となり、日本で幸せに暮らしている。 少しだけ残っていた姉妹の確執も、母の死を期にすっかり解消された。 同じように少しギクシャクしていた父とも、母亡き後、初めて父娘らしく振る舞えるようになった。 死が結ぶものもある。 妹も父も、私の旅を面白がってくれている。 大人になるって素晴らしいことだなあと思いながら、なんとか眠気に打ち勝って、車窓から地中海を眺めている。

画像17

画像4

画像5

画像6

 ああ、ここはやっぱりため息路線である。 また来ることは叶わないかも知れないので、車窓からの景色を、目カメラから脳みそのハードディスクへと焼きつける。 ため息をつきながら、それでもやっぱり少しうとうとしてしまい、ぼんやりしたままモンペリエ駅に到着。 若いポーターに手伝ってもらって重いトランクを二つ列車から降ろし、ホームに降り立った。

 乗り換えの列車は一時間半後に発車する。 それまでにまずチケットを買わねばならない。 チケット売り場へ行くと長蛇の列で、ああ、間に合うかなあと心配していると、構内を巡回していた元気な駅員のお姉さんが、私の手にある一枚の紙に目を留め、あら、予約しているのなら発券機で買う方が断然早いわよといって、私の手から予約番号を印刷した紙を取り上げる。そして張り切る彼女に案内されて、私は難しげな発券機の前に立たされる。

 手取り足取り教えてもらいながら、発券機に数字を入力すると、最後にクレジットカードを入れるよう促され、私が財布からクレジットカードを取り出すと、それを見た彼女が、え? と私の顔を見た。

 あなた日本人なの? と聞かれ、そうですと答えると、ああ、この機械、日本のクレジットカードは読み取らないのよ、と申し訳なさそうにいう。
 そうなのかあと私ががっかりしていると、待って、うん、でももしかしたらいけるかも、なんとかやってみましょうと、なぜか俄然やる気を出した彼女に後押しされ、クレジットカードを挿入してみると、あにはからんや、すいっとカードは読み取られ、ががががと印字された紙が出てきて、その後にちゃんとチケットが出てきた。

 ワーオ! といってハイテンションになった彼女が、やったー、日本のカードが読めたわー! とハイタッチを求めてきたので、私はわけもわからず背の高い彼女とハイタッチする。

 途中から英語をやめてフランス語で話し出した彼女が、なんといっているのか全然わからなかったけれど、多分、これまでの日本人旅行者のカードは読み取れたことがなくて、彼女にとって私が、読み取れる日本のカードを持った乗客第一号なのだろうと推察した。

 とりあえずめでたい。 メルシーボクーとお礼をいうと、彼女は嬉しそうに、どういたしましてといい、次の困っている人を見つけるべく颯爽と立ち去って行った。

 待ち時間がまだあったので、スタンドでコーヒーを買ってベンチに座って構内を眺めていると、彼女が次の困っている人を見つけ、また丁寧に仕事をしているのが見えた。 使命感を持って仕事をしている若い人を見ていると清々しい気分になる。とても気持ちが良い。

 私の乗る列車の出発ホームがやっと決まり、ごろごろとトランクを押しながらホームへ向かう。 新しいトランクに変えて本当に良かった。 車輪がちゃんと回っているだけで有り難い。 

 ニース行きの列車に乗り込み、何度も車両番号と座席番号を確かめる。 食堂車の位置も確かめ、列車が動き出したら早速ランチを買うために食堂車へ向かう。 食堂車といっても、簡単なサンドイッチやサラダや飲み物を売っているカウンターと、立ったまま食べられる背の高いテーブルが二つあるきりの車両だけれど、食堂車という名を聞くだけで旅情は高まる。

画像7

画像8

画像14

 オリーブのサラダとサンドイッチとコーラを買って席に戻り、ゆったりとした一人席のテーブルに広げる。車窓からの景色に見惚れながらゆっくりと昼食をとり始めると、隣りの二人席に座っていた老夫婦が、バッグから紙袋を取り出し、二人席の広いテーブルの上に、タッパーに入った美味しそうなランチを広げ、 赤ワインのボトルを開けてプラスティックのカップに入れて飲み始めた。 無意識にそれを眺めていたら、ふと奥さんと目が合って、一杯いかがと勧められてしまう。

 フランス語が不自由なので、うっかり頷いてしまい、差し出してくれたカップを受け取ってしまう。 ご主人がなみなみと赤ワインを注いでくれ、奥さんが、これも食べない? とタッパーに入ったお惣菜を指差してくれたけれど、私にはこれがありますメルシーとジェスチャーで答え、英語に切り替えたお二人から、どこへ行くの? と聞かれる。

 エクス・アン・プロヴァンスというところでフランス語の学校に行きます、でもその前にニースに少し寄り道します、というと、まあ、素敵ね、あそこはいいところよ、とエクスのことを教えてくれる。 緑がきれいで、たくさん泉があってね、水の都なのよ。 

 ええ、一度訪ねたことがあります。 それで好きになって、一ヶ月だけ滞在してみようと思ったんです、というと、まあ、一ヶ月ではフランス語はマスター出来ないけれど頑張ってね、まだ若いから何事にもチャレンジね、素敵、と笑ってくれる。 

 パリにいる娘さん一家を訪ねるというご夫婦は、マルセイユで乗り換えとなるが、マルセイユまではあと二時間。 私はご夫婦に赤ワインをいただきながら、簡単なフランス語講座を開講してもらう。 

 自己紹介くらいのフランス語は覚えて来たので、名前や生まれや職業などを下手な発音でもごもごといい、私が年齢をいうと、奥さんが、フランス語の数字は難しいから間違えているのね、三十八歳はトランテュイットよ、と教えてくれるけれど、私はカランテュイット、四十八歳だと指を使っていい張ると、二人は目を丸くして、日本人というのはずいぶん若く見えるのねえとびっくりしている。

 その黒髪も若く見えるポイントなのよね、とプラチナブロンドの奥さんにいわれ、私はそんなうつくしい髪に憧れますというと、奥さんは、みんな自分に無いものを求めるのよねと笑う。 

 奥さんと私は、うとうとし始めたご主人を気遣って、小声でおしゃべりをし、マルセイユがそろそろ近づいてきて、奥さんは荷物をまとめはじめる。 

 親切なご夫婦は、去り際に、楽しかったわと握手してくれたので、私はホームに降りたお二人に手を振り、無意識に頭を下げると、お二人は荷物から両手を離して合掌する。外国で、うっかりお辞儀をすると合掌を返されることにもだいぶ慣れてきた。

 それから二時間半、車内ががらがらになったので、広い二人席へ移動して、海を見ながらうとうとと至福の時間を過ごす。
  終点のニース・ヴィル駅へ降り立つと、そこは紛れもなく南国で、寒かった列車内で着ていた上着をすぐに脱いでバッグに仕舞い、タクシーに乗って行先を告げた。

画像15

画像10

画像9

 前にニースを旅した時は、ビーチ沿いの、ベッドから寝たまま海を見渡せる高級ホテルに泊まっていたけれど、今回は、物価の高いニースで、自分の財布からお金を出すので、短期滞在者用のリーズナブルなアパートメントホテルをネットで借りていた。

 地図で見る分にはぎりぎり海辺の遊歩道の端っこの、海沿いの道から一本奥に入ったところに位置していたホテルは、到着してみると、観光地から少し外れた静かな通りに面していた。

 タクシーを降り、すぐ近くにスーパーがあることを確認してから、マンションの管理人室のようなフロントへ行き、鍵を受け取る。 六階の部屋へ入ると、窓からは向かいのマンションが見え、歓声のする下方を見ると、プールではしゃぐ子供たちの姿が見えた。

 向かいのマンションもアパートメントホテルだろうか。 あちらこちらのベランダに、水着とバスタオルが干してある。 私はニースで少し休憩するつもりだったけれど、休憩とヴァカンスは同じ意味だろうか?
 とりあえず私も水着は持っている。 しかしまずは食料品の確保が第一だ。 暗くなる前にスーパーへ行き、両手いっぱいに食料品を抱えてアパートに戻る。 キッチンとベッドが同じ部屋にある小さなワンルームで、私は五日間、巣籠りをするつもりだった。 

画像11

画像12

画像13

画像16






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?