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アパートメント紀行(35)完

アンティーブ(モナコ) #5


 モナコの港へ近づくにつれ、まるで高級リゾートのテーマパークに来たような気分になる。あまりに整った街の景色に、私は現実感を失いそうになる。うつくしいグレース・ケリーの血を引くモナコの王室一族が、全員映画俳優に見えてしまうように、何もかもが完璧だと、すべてがフェイクのように思えてくる。

 港へ着き、陸へ上がり、少し歩くと、いろんな意味での浮遊感が治まってきた。タマラの旦那さんが書いてくれたギャラリーまでの地図を見ると、目的地はすぐそこだった。とりあえず場所の確認に行くと、ギャラリーはすぐにわかったが、オープンは午後からだった。

 一度来たことがある土地だから、なんとなく土地勘はあり、この丘を上ると観光名所があったはずだと思い出し、道路脇の急な階段を上って行く。丘の上にはたくさんの観光客がいて、観光客の流れに沿って歩いて行く。

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 海洋博物館から市庁舎、大聖堂から大公宮殿へと続く眺めのいい崖沿いの道をのんびり歩き、完璧な街並みをうっとり眺め、湾になった静かなヨットハーバーを上から見下ろす。ベージュからオレンジの色合いに統一されたハーバー沿いのマンション群は、どう見ても絵にしか見えない。時折出艇するヨットが、唯一動いているものだったから、出航してゆくヨットが、絵の裏から磁石で動かしているヨットの絵に見えた。

 大公宮殿へ行くと、人だかりが出来ていて、何事かと列に加わる。ちょうど、衛兵交代の時間だったようで、それが目当てで来たわけではなかったけれど、人々の熱狂に巻き込まれて写真を撮る。あっという間に儀式が終わると、あっという間に人だかりはばらけ、何事もなかったように普通の広場に戻った場所で、私は一瞬途方に暮れる。 

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 人々の流れに沿って、真っ赤なハイビスカスが咲き誇る遊歩道をそぞろ歩いていると、また海洋博物館へ戻って来たので、博物館の中へ入ってみることにする。

 海洋学者でもあったモナコ大公アルベール一世が、約百年前に造ったという博物館は宮殿のようで、中へ入ると、長い木のカヌーから展示が始まり、帆船の模型へと続いていく。ここでは、海へ漕ぎ出した人間の歴史が、海洋学に疎い人間にもわかりやすく展示されていて、世界各地の貝から船に関する備品までが、大量の資料として所狭しと並べられていて、思いのほか楽しい時間を過ごせた。なんと、アクアラングはアルベール一世の発明品らしい。

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 地下の水族館へ行ってみると真っ暗で、足元も見えないほどだったけれど、その分、青い光に照らされた水槽の中がくっきりと見え、赤や黄色や青い色の魚たちが幻想的に目の前に現れた。まるで海の底にいるような感覚に囚われて、これこそまさに水族館の神髄だと感心する。目つきの悪いアンコウと目を合わせたあと、回遊する銀色の魚たちを見ているとお腹が空いてきて、屋上のレストランへ行く。

 眺めのいいレストランで、アジのグリルを頼むと、三十センチほどもある大きなアジが、丸ごと銀色のお皿に乗って出てきて心の中で絶叫する。美味しそう! 早速ナイフとフォークに手を伸ばすと、うやうやしくアジを持って来た給仕が、私のテーブルに何か出し忘れたものがあったのか、あ、といって一旦戻ってしまう。

 お預けを食らった感じで待っていると、仕切り直してやって来た給仕が、真新しい白いお皿を私の目の前に置き、その向こうにアジの載った銀色のお皿を置き、私のアジの頭と中骨と尻尾を取り除き、身のところだけをすくい取って白いお皿の上に置いた。
 相当雑に取り除かれた中骨や頭が、まだ少し身のついたまま、あれよという間に下げられていくのを、私は悔しく見守る。しかし、中火でじっくりと焼かれたのであろうアジは、柔らくて飛び切り美味しくて、悔しい思いをしたことはすぐに忘れた。

 もうギャラリーはオープンしているだろうか。丘を下り、見事な街並みを堪能しながら、港沿いのギャラリーへと向かう。ギャラリーはオープンしていた。

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 タマラの旦那さんの叔父さんのアルベルトさんは、一九二七年生まれ、一九八五年没。パリで学んだり、ピカソに陶芸を学んだりしたとパンフレットに書いてある。でも読めるのは数字と人の名前くらいだったから、タマラたちに聞いていた情報と照らし合わせながら、フランス語がわかって読んでいるふりをする。

 抽象画から陶芸、オブジェまで、たくさんの作品が展示されていて、好きな作品がいくつもあった。アルベルトさんの作品は、私の好みだった。
 ゆっくりと彼の作品世界を堪能し、どうしてこんなところにアジア人が来ているのだろうという好奇心に駆られているらしい受付のお姉さんに、これこれこういうわけで来ましたと英語で伝えると、まあそうなの、それはディスティニーねえ、という。それから彼の作品はとても好きです、見に来て良かったですというと、まあ、良かったわ、ディスティニーねえと、彼女は同じ台詞を繰り返した。

 ギャラリーを出て、鉄道の駅まで歩いて行く。F1の車がいつ飛び出して来てもおかしくないような国道を渡り、モンテカルロ駅へ通じる地下道へ入る。地下道といっても、駅は山の中腹にあるから、エレベーターを上ってゆく。駅はトンネルの中にあり、しかし一部はガラス張りになっていて、構内は不思議なほど明るかった。

 五分後に出発する電車があったので、急いでチケットを買ってホームへ向かい、すぐに入って来た電車に乗り込み、左手の海側の席に着く。
 各駅停車の電車は、地中海沿いを西へ進んでゆく。ガイドブックを何度も読んだおかげで、私はもうアンティーブまでの各駅名を誦じられる。

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 午前中に私が漂っていた海は、うららかな午後となり、ビーチも海上も賑やかに満員だった。私は、見納めだと思って一秒たりとも地中海から目をそらさずに、車窓におでこをくっつけている。のんびりとした航路と違い、早い速度の鉄道が恨めしい。三十分ちょっとでアンティーブの駅に着いてしまう。
 
 バスターミナルまで歩く間にいくつかお土産を買い込んで、一ユーロバスの運転席の後ろに座り、なんとなく覚えた道を、次は左折、その次は右折、と先読みしながら道中を楽しむ。
 やっと間違えずにパン屋の角のバス停で降り、公園でペタングに興じるお年寄りたちの脇を通り抜けて家路に就く。いっぱい遊んで夕方に帰る家があるのってなんと幸せなことだろう。

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 私の部屋の開かずの扉越しに、誰かの気配が常にあって、それがタマラのお父さんとお母さんの声や足音であることがわかっているから、隣家との距離が遠い別荘地の広大な家にいても、非常に心強かった。一人きりだと随分不安になったことだろうと、タマラたちが新婚旅行に出かけたあと、しみじみと思った。

 おめかしをしたタマラとルドゥミラが、さよならをいいに来てくれた時、私はまだ寝ぼけまなこだったので、きちんと感謝の気持ちを伝えられたかどうか、あとから心許なくなった。また絶対来年の夏に来てねって二人はいってくれたけれど、来年の夏、私は何をしているだろう。

 最後の日々は、やっぱりプールに入って過ごした。八月も終わりに近づき、太陽が隠れると少し肌寒く感じられる。名残惜しむように居続けるプールサイドで、言葉の通じないタマラのお父さんとお母さんと共に過ごす時間が、何物にも替え難い貴重な時間に思える。

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 タマラの新しいお母さんは初婚で、お父さんと結婚したことで一気に娘と孫が出来たことをすごく喜んでいた。一見無愛想に見えて、実はすごく深い母性の持ち主であるタマラの二番目のお母さんは、あなたにもそういう可能性があるのだから、今後の人生を楽しみにしているといいわよといってくれた。

 それは、みんなで食事をした晩に、タマラがロシア語からフランス語へ、石田さんご夫妻がフランス語から日本語へ、伝言ゲームのように私に伝えられた言葉で、今は一人の私にも、いつか子供や孫が出来るかも知れないという、考えてもみなかった可能性を与えてくれた。

 初めての新婚旅行へ出かけて行ったタマラの新しい旦那さんにとっても、娘となったルドゥミラはとても愛おしい存在のようだったし、ルドゥミラの天真爛漫な笑顔は、血のつながらないパパやグランマから惜しみなく注がれる愛情によってさらに輝いているように見えたから、新しい家族を作ることを考えてみてもいいのかも知れないと思えた。

 私はようやく荷物をまとめ始め、壊れかけた日仏電子辞書の代わりにエクスで買った新しい仏和辞典を、ルドゥミラの未来のために置いて行くことにした。その辞書で単語の綴りを調べながら手紙を書き、プールサイドでタマラのお母さんに、ルドゥミラが帰って来たら渡してもらえるよう頼んだ。

 お父さんが、明日の飛行機は午後二時発でいいんだよねと、私が以前渡していたメモを持って確認に来たので、そうです、よろしくお願いしますという。この頃は、ロシア語と日本語で驚くほどわかり合えるので、私たちはそれぞれの母国語で堂々と話している。じゃあ、明日は十二時に出発だよと、これは慎重に指の数で確認し合い、お父さんは、私の散らかった荷物が本当にトランクにちゃんと収まるのかどうか心配そうに見ながら、頑張って荷造りするんだよといって部屋を出て行く。

 出発の日、なんとか二つのトランクにギリギリ収まった荷物を横に置いて、部屋に掃除機をかけていると、開かずの扉越しに掃除機の音が聞こえていたのだろう、お母さんがやって来て、いいのよ、そんなことは私がやるから、という。

 ああ、もう終わりますから、大丈夫です、と掃除機を止めると、口を開けたままにしていたゴミ袋にお母さんが目を留め、これは私が捨てて来るわねというので、慌てて、いえ、私が、とゴミ袋を持って出てゆくお母さんを追いかけ、結局一緒に外のゴミ箱まで持って行った。

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 お昼ごはんは空港で食べるのね? とお母さんに確認され、はい、と答えると、じゃあ、またあとでね、と一旦別れる。

 十二時五分前にお父さんがやって来て、しっかりと鍵の閉まった私の二つのトランクを見て、グッジョブ、という。それからトランクを運んでくれようとするので、重いから私が、というと、任せときなさいとばかりに腕まくりをして、エンジンのかかった車のトランクに詰め込んでくれる。

 助手席のお母さんが、パスポート持った? チケットは? と聞くので、ショルダーバックの中を確認する。

 よし、では出発、とお父さんが車を走らせ、リモコンで重い門を開ける。後部座席に乗った私は振り返ってタマラの家をもう一度見て、それからゆっくり座り直す。

 快適な車内で、私たちは英単語だけで会話をする。
 ロンドン? LA? ジャパン? 
 イエス、ロンドン、LA、ジャパン。

 三十分ほどでニース・コートダジュール空港へ到着し、搭乗口に近いところに車を停めてもらう。お父さんがトランクから荷物を降ろし、では、元気でいるんだよという風に握手をしてくれたから、私はその手をしっかりと握ったあと、ひそかに用意していたメモをジーンズのポケットから取り出して、ちょっと照れながら読んでみる。

 スパシーバ・ザ・フショー。ブラガダリュー・ヴァ―ス。ダ・スヴィダーニャ、グー・ノーヴァイ・フレトゥレーチイ、ブッチェ・ズダローヴィ。
 いろいろとありがとうございました。とても感謝しています。さようなら、またお会いできる日まで、お元気で。

 片言のロシア語は、雰囲気で伝わって、まあ、といってお母さんが両手を広げ、私を抱き寄せ、ぎゅうっと抱きしめてくれた。

 お父さんは、私のアンチョコを取り上げて、私が書いた、カタカナでルビを振った記号のようなロシア語を何度も読み返し、これをくれという。

 お父さんともう一度固い握手を交わし、お母さんにもう一度抱きしめてもらい、ふいに温かい涙が頬を伝う。まさか泣いてしまうなんて、参ったなあと思いながら、ポンポンとお父さんに肩を叩かれて、気を取り直して搭乗口へと向かった。

 アンティーブの半島を見下ろす飛行機の窓から、タマラの家はあの辺りだろうかと見当をつける。
 涙で霞む地中海は、本当にうつくしかった。スパシーバ、メルシー、グラシアス、オブリガーダ、サンキュー、ありがとう。長かった私の旅の終わりが始まった。

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