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【掌編小説】彼女は生きてくのがめんどくさい

「ぶしつけな質問だけど…」彼は、言葉を詰まらせながらいった。金曜日の午前9時。人通りはまばらで、他のテラス席に誰もいない。喫茶「リバーサイド」にしては珍しい光景だ。

 「彼女、死にたいんとちゃうん?」

彼はいつになく、声を低くひそめていった。彼は東北の出身なのに、こういう時はなぜか関西弁になる。それだけ、彼にとっても理解できない状況なのだろう。

 「いや…それがさ、どうやらそうでもないんだ…」

僕が頭をかきながらいうと、彼は首を傾げた。

 「どげんなっとーと?おまんの彼女…どないなっとんねん…」

彼は方言混じりにいった。国語教師の彼が、ちぐはぐな言葉になっているということは、ますます混乱しているのだ。

彼は腕組みしながら、からっからの青空を仰いでいる。ラグビーで鍛えた巨木のような腕も今は頼りない。

 「この前、どこどこのハンバーグが食べたいっていって、わざわざ電車で3駅先まで行ったんだよ…」

僕は、努めて平静にいった。思い出すと涙がこぼれそうになる。気持ちを落ち着かせようと、アイスコーヒーを一気に半分飲んだ。

彼女はひと月の大半を、6畳一間の部屋で過ごした。トイレ以外は、何をするでもなくベットに横たわっている。出された食事にも手をつけない。

その姿を彼女の母親は涅槃像といって揶揄していたが、今では何もいわなくなった。彼女が扉を固く閉ざしてから、かれこれ3年が経つ。

 「あかん…。頭がえろぅ、痛なってきだぎゃ…」

彼は頭を抱えていった。なにやらブツブツつぶやいている。耳をすましてみると、念仏だった。
博士をもつ彼の頭脳をもっしても、彼女を理解することは難しいようだ。

 「ありがとう。気長に待ってみるよ」

僕はそういって、川の向こうの、ねずみ色の古ぼけたマンションを見た。その先には、カーテンで固く閉じられた窓がひとつある。
彼は、小さく「あぁ…」とだけいうと、黙ってうつむいた。

僕は氷の溶け切ったアイスコーヒーをゆっくりとすすった。気の遠くなるような時間に思いを馳せてみる。

それは明日かもしれないし、1年後かもしれない。結局、僕は待つことしかできない。それでも、待つしかないのだ。

街には喧騒が戻りつつあった。足早な人波とは対極にある僕らは、淀んだ湿原みたいだ。

流れる川だけが、今日も変わらずそこにあった。

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