「インスタントな善意」から「コンスタントな支援」、「償い」について。短編『恩讐の彼方に(菊池寛)』になぞらえて、機能不全家族に育った私の見解。

先日公開させて頂いたこちらの記事について、お読み頂きありがとうございます。
数日経ち、私自身もう一歩深くこの問題を掘り下げてみようと思いました。
今回は以下の点について私の見解をお話しさせて頂きたいと思います。

①署名活動に危惧される問題の確認。「見えない被害者(子供達)」「署名活動と判例の問題」「何が善意をインスタントにしてしまうのか。」

②今からできる「コンスタントな支援」とは。

③菊池寛による短編小説『恩讐の彼方に』から、「一時的な貢献と長期的な貢献」「罪を償うとは」「自分の正義を選ぶ事」「描かれない当事者達」について、考えてみる。

④罪を犯した人とその周辺人物を描く映画『友罪』の紹介。

前回同様、長い文章になりますが、お付き合い頂きたく思います。



最初に、改めて私の立場を明確にしたいと思います。
前回のnoteでも述べさせて頂きましが、私自身、機能不全家族(何かしらの問題を抱えた家族)のもとで育っており、親が子供に与える影響について興味がありました。(私は独身で育児経験のない女性です。)そんな折、多くの方が「子供を死なせてしまった母親の減刑に賛同している署名活動」があると知りました。しかし「母親」「父親」「育児の過酷さ」については話題になっている中、もう1つ、「父、母」と同等に重んじられるべき「子供達」の存在については何故か透明になってしまっています。そこで私は「機能不全家族の子供を最も重要視した視点」で、家庭や虐待の問題についてお話させて頂く立場を取ろうと思います。

「機能不全家族の子供を最も重要視した視点(立場)」。これは育児や家庭が抱える多面的問題の1側面にスポットを当てる視点であることを前提としてご理解頂きたいと思います。「現在過酷な育児に向き合っているワンオペの母親の視点」「父親の非協力的態度の問題」「行政の不甲斐なさに対する怒り」そういったものも、やはり1つの側面でしかありません。多くの視点があるということを知った上で、自分がどの立場に立つのか。それによって、「自分が取り組む活動」の優先順位が決まると思います。1つの視点しか知らなければ問題の一部しか見えません。このnoteを読んでくださった方が、「機能不全家族の子供」という新しい視点を獲得する一助になれば嬉しいです。



「見えない被害者(子供達)」

勘違いされがちなのは、「子供達」にとって辛いのは「虐げられている今」だけではありません。例えば虐待で保護された子供達の問題は、「今まで酷い扱いを受けてかわいそうだったね、これからは安全なところで暮らそうね。」では終わりません。保護されるなどして加害から救われる事は事実です。しかし、心の傷が子供を顕著に傷付け始めるのは「今」ではなくもう少し成長してからであることが多いです。これが「子供達の存在が見えにくい」理由です。

両親がリアルタイムで感情を表現できるのに対し、子供(未成年や幼児)は大人とは違い、感情を、それを引き起こす原因に繋げて理解する事が出来ません。場合によっては自分が傷付いている事を認識できておらず、また言語表現力も乏しいため声を上げる事は出来ません。成長し、アイデンティティを確立する段階でようやく感情を表現できるようになります。しかしその頃にはもう子供としてでは無く大人として扱われる年齢になっているために「子供」の存在は不可視になりがちなのです。大人になってからようやく自分の状況を分析する機会を得て、自分の傷を正視した時、十数年分の悲しみや怒りの感情がどっと押し寄せてくるのです。(40代50代でようやく…という事もあります。)そしてそれを今も抱えて生きている。それが機能不全家族の「子供達」です。

また「傷を負った(負いはじめた)時期」と「それを自覚した時期」にギャップがあるため、傷の責任の所在や原因が曖昧になりがちです。幼少期は声をあげる事が出来ず、自分の傷を自覚した頃にはもう根本原因を取り除く事は不可能な年齢である事が多いため、対処療法しかありません。精神的な病として現れる事もありますが、そういった病に対して風当たりが強い社会である事は、皆さん既にご存知のことと思います。

このように「不可視」の存在としてあなたの近くに生きている「子供達」ですが、
突然日常にパッと「可視化」される事があります。

それが「虐待死した子供の死体」です。

ある程度年齢が上がった子供や、大人の死(自殺)には遺書がなくてもそれらしい理由が1つ付けられます。いじめ、過労、家族不和、借金…しかしその理由ももしかしたらその人物の苦悩の一部でしかなく、「機能不全家族の子供」としての苦悩が一部の要因にであったかも知れない、という可能性は全く透明です。

しかし「虐待死した子供」の死因はただ1つ。虐待だけです。

平穏な生活の中で「虐待」という問題が死をもたらす事実について私たちが本当に実感するのは尊い子供の命が失われてしまってからです。しかしここで、はっきり「虐待は人を殺す。」という現実を認識出来ます。

「毒親」という表現はなんて適切な言葉だろう。と思います。
毒の種類によっては、このように子供の頃に大量に投与されて死んでしまいます。
しかし遅効性の毒は…。幼少期から少しずつ溜まって行き、成人してからある日致死量に達する事もあります。後遺症に苦しみながらなんとか80歳まで生きる人もいます。

まるで青酸カリを用いた他殺のようです。一度に大量に与えれば証拠を残して殺せますが、ゆっくり少しづつ長年かけて与えれば突然死んだように見えて証拠は曖昧です。

しかしどちらも原因を同じにした「死」と「苦しみ」です。いきなり日常に出現した「子供達」と共に、同じ理由で見えにくいが存在している遅効性の毒に苦しむ人間の存在とその原因についても、少し意識を向けて頂けたらと思います。



「署名活動と判例の問題」

「判例」を気にされている方も多くいらっしゃるようで、「署名推進派」と、「署名反対(撤回要求)派」の大きく2つの意見に分かれているように見えます。「子供を死なせてしまっても執行猶予が付く判決になったら、虐待がまかり通ってしまうかも知れない。」と考える「署名反対(撤回要求)派」。「産後うつという病気でありながら過酷な子育てをした、という事例に厳しい判決が下り判例になるのは好ましくない。」と考える「署名推進派」。

しかし、署名活動を通して考えなければいけない「判例」はこの2つだけではないと思います。

もう1つ、出現するかも知れない判例は「署名活動によって減刑された事件」という判例です。

私は刑罰の妥当性や署名活動の法的影響力についての知識はありません。なので実際この署名活動が司法に影響を及ぼす可能性がどの程度なのかはっきりとは認識出来ていないのですが、仮に「署名活動によって減刑された」場合、その根拠になる部分はどこだろう。その妥当性は?という問題に私は答えが出せませんでした。誰かの命を奪ってしまった人への罰の妥当性とはどのように決まるのだろう。法律の専門家(人の罪と罰について考えることがはるかに多かった人)や裁判員が下した決定に影響を与える根拠の基準を1つ作ってしまう。という部分についても考えてみる必要があると思いました。

世の中を変える力の1つに「数の力」がある事は疑う余地のない事だと思います。「数万人の署名が集まった。」はどの程度効力を持つのかわかりませんが、1つ思うことは「この数万人の人はみんな同じ根拠に署名したのだろうか?」という事です。「産後うつ」についてなのか、「2人の子供」のためなのかetc…。それぞれの理由で「減刑」に賛成しているという事は皆さん一致していると思うのですが、「根拠」についての考えが一致していない場合、その署名の正当性は低くなってしまうのではないかと思います。

例えばですが、
【母と子の愛着形成に関わる時期に、この実刑は長過ぎるので、減刑を希望します】
・○歳〜△歳までの間、実母と離れていた子供は、そうでない子供と比べて〜という差     が出ます。(データや論文引用)
・それは、実母でなくてはならず、代替不可能です。
・過去に子供を死なせてしまった親がもう一度育児をする事による相互の影響について、〜という影響もありますが、〜の部分では、一般的な家庭と差はありません。(データや論文引用)
                  :::
というように、何を根拠に、何に賛同したのか、「賛同者の意見を保証する」ような署名文であれば、「数万人」の意志を純度高く伝えることが出来るのではないかと感じます。
(効果的な署名の方法、や司法への影響力については門外漢なので、あくまで私の感想です。)
    

「何が善意をインスタントにしてしまうのか。」

前回のnoteで用いた「インスタントな善意」という言葉の、インスタントは「気軽」「一時的」という意味を込めて使いました。

私が思う「気軽」とは、「事象は多面的であるにも関わらず、今持っている1つの視点でのみ反応してしまう事。」です。1つの視点しか知らなければ問題の一部しか見えません。複数の視点があるということを知った上で、自分がどの立場に立つのか。それによって、「自分が取り組む活動」の優先順位が決まると思います。「色々な視点があると知った上で選ぶ立場、起こす行動。」と、「1つ、2つの視点しか知らないで選ぶ立場、起こす行動。」同じ結果が得られたとしても、この違いを無視してしまうと善意の厚みに差が出てしまうのではないかと思います。

「一時的」に反応した内容でも、しばらくすると忘れてしまう事は多いと思います。何かのきっかけでその事に興味を持ち、一瞬関わるけれどもいつの間にか意識の外に行ってしまう。署名した数万人の方全員が、この件に関わったという事、そしてこの事件が集結しても同じような問題はいつかまたどこかで起こってしまうかも知れない事を、「控訴の結果が出る頃」まで(そしてそれ以降も)忘れないで欲しいなと思います。

しかし、一時的な貢献が良い影響を及ぼす力を持っていないかというと、そうでもないと思います。③ではそれについてお話しさせて頂きたいと思います。


今からできる「コンスタントな支援」とは。

地味な答えになってしまいますが、「知る」「学ぶ」「考える」それを持続させる事が「コンスタントな支援」に繋がるのではないかと思っています。(支援というと大袈裟かも知れません。)
「愛着の形成」や「親子関係の心理学」「愛着障害を持つ子はどんな家庭に育っているのか。」etc…について、子育て前や最中に少しでも触れておくと無意識の虐待を避けられるかも知れません。(被虐待児の親には、「これが虐待(子供を傷付ける結果になる行為)だと思わなかった。」と言う人も多いようです。)

またこういった本を読み続けると、機能不全家族の特徴がなんとなく見えて来ます。周りを見渡しても、子供が家の中で虐待されているかどうかなんてわからないものだと思いますし、自分の友人や同僚が機能不全家族で育った「子供達」かどうかも分かりにくいと思います。しかし、「心理学」とは「統計学」であり、実験と研究の積み重ねによって得られたデータをもとに人間を分析しているので、本に書かれる被虐待児(愛着障害)や「親子」の特徴はかなり正確です。もしこういった知識が付けば、ふとおかしいと気付いた近所の子供を意識できるようになり、ある時、昨日はなかったはずの「あざ」を見つける事が出来るかも知れません。(選ぶ本と、「レッテル貼り」には細心の注意をしなければいけません。)

そして、蛇足ですが「周囲の困った人」への対応も可能になったりします。
少々厄介な性格の人物は、実は機能不全家族で育った可能性があります。「愛着障害」を抱えたまま大人になるといくつかのパターンの「スタイル」になります。その「スタイル」ごとに求めているもの、恐れているものがあるので、それに目星を付けられれば、不要な地雷を避けることができ、トラブル回避にも役立ちます。

「育児」には行政のサポートが必要ですし、「被虐待児」の保護も行政に頑張って頂きたいです。しかし、大人になった「子供達」については少々他人の介入が難しいことがあります。他人を信用出来ないという人も多いからです。それが機能不全家族で育った子供です。

なので、私が思う、本当にあったら良いなと思う支援は理解ある人が周りに増える事です。
慰めて欲しい、同情して欲しいと言う事とも違います。

『親に誕生日プレゼントなにもらった?』
「もらってないよ。」
『え!仲悪いの?毒親?(笑)』

というような無神経な会話が少しでもなくなりますように。


菊池寛による短編小説『恩讐の彼方に』から、「一時的な貢献と長期的な貢献」「罪を償うとは」「自分の正義を選ぶ事」「描かれない当事者達」について、考えてみる。

「恩讐の彼方に」は100年前に発表された菊池寛による短編小説です。青空文庫で読めます。本当に素晴らしい小説なのでぜひ読んで頂きたいです。(最後にURLを載せました。短いお話なのでこのnoteと同じくらいの時間で読めます。)恩讐とは「情け」と「恨み」の事です。

罪に見合う罰とは、それを決めるのは誰か。その決定は全ての人間が納得出来るものなのか。について考えます。(③はご興味の無い方は飛ばして下さい、抽象的で長いです…ごめんなさい。)

簡単にあらすじを説明さて頂きます。
「市九郎」は主人である浅草田原町の旗本、中川三郎兵衛ともみ合いになった末、刀で彼を斬り殺してしまいます。その後「市九郎」は争いの元となった三郎兵衛の愛人の女と逃げ、落ち着いた先で強盗殺人を繰り返しながら生活します。しかしある時自分の犯した罪の恐ろしさに気付いた「市九郎」は女の元を去りその後修行し僧侶となって滅罪の旅に出ます。そして交通の難所と言われる鎖渡し(ロープにつかまりながら蟹移動するしか無いような断崖絶壁です。)で毎年多くの人が死ぬ事を知ります。「市九郎」はここに安全な道を作る事が自分の生命を懸けた償いだ、と考え金槌と鑿で大絶壁に穴を掘り、トンネルを通す事を決意します。「人々」はそんな事は出来ないと彼を無視しますが「市九郎」は生命維持のための食事をする以外の時間、ただひたすら岩を掘りー20年が過ぎるある日、殺された主人の息子「実之助」が父の仇討ちに「市九郎」の元を訪れて…。

「一時的な貢献と長期的な貢献」

「市九郎」は脇目も振らずに21年間大絶壁を掘り続けますが、「人々」は最初関心を示しません。しかし彼が1人で壁に向かって9年目、「人々」が手伝いに現れます。しかし1年間手を動かしても全く進捗を感じられず次第に作業を切り上げてしまいます。そして「市九郎」はまた1人で何年も…するとまた「人々」は 手伝いに現れますがやはり1年ほどで切り上げてしまいます。しかし、18年目、「市九郎」がたった1人でトンネルを半分ほども掘り進めたのを見た「人々」は30人の石工を連れ、本格的に作業に加わり始めます。

私たちは「人々」なのだと思います。

最初に「一時的」に作業した「人々」の行いに意味がないわけではありません。1年、2年分は進んでいますし、「お、もしかしたら本当にトンネルが作れるのかな?」と思い行動したことは事実ですし、そうして「市九郎」の苦労を知ったからこそ、30人の石工を連れ出す行動に出られたのだと思います。そして18年間、「人々」は常に「市九郎」の様子を意識していた事は最後の総動員工事に繋がりました。

18年間も岩の奥に居て姿も見えない人の事を、「人々」はちゃんと意識していたのです。

「罪を償うとは」

しかし忘れてはいけないのは、「市九郎」はたくさんの人間を殺し金品を奪っていた犯罪者だという事です。十数年間も金槌と鑿だけでほぼ1人でトンネルを掘り、事故で死んでしまう人々を救おうとしたことは、本当に罪を償うに足る行いなのでしょうか。それとも、重すぎる罰なのでしょうか。

「自分の正義を選ぶ事」

そのこたえを、仇討ちにやって来た「実之助」が出します。
「実之助」の家は、「市九郎」が主人を殺したことで、お取潰しとなってしまいます。「実之助」はその事実を13歳(父死亡時3歳)で知り、父の敵討ちを決意。19歳で免許皆伝し「市九郎」を探して報復の旅に出ます。9年間、艱難の旅を続け、27歳にしてようやくこの付近でトンネルを掘っている男が、僧侶となった「市九郎」であると知ります。お前は自分の父を殺した仇だ。と言うと「市九郎」は、「実之助」の手にかかるのであれば本望。と述べます。しかし、20年もの間大絶壁に立ち向かい、痩せてみすぼらしく哀れな姿の「市九郎」を前に「実之助」は葛藤します。13歳で仇を討つと決めそのためだけに生きてきた。家名再興を「実之助」に託した親類に見送られて旅に出た。憎しみだけで生きてきた。ここで使命を果たさない訳には行かない。しかし、20年間「市九郎」を見ていた石工は彼を庇います。そして「実之助」はトンネルが開通するまで待ち、「市九郎」の悲願が果たされたら、その時に斬る。と答えます。そして自身の目的を少しでも早く達成するため、この工事に加わります。そして1年と少し、とうとう大絶壁が貫通し「市九郎」の大誓願は果たされます。喜びに涙を流しながら、さあ斬ってくれと言われますが、「実之助」は彼への憎しみよりもこの偉業を1人で達成したと言う驚異と感激から、「市九郎」を殺さない決断をします。物語はここで終わります。(完成したトンネルは「青の洞門」と検索すると出て来ます。)

「市九郎」は偉業を成し、その現場を経験したとは言え犯した罪は大罪、しかも父親の仇であり自分の人生の全てを、彼を殺すことに費やしてきた。そして自分の問題だけではなく、今まで育ててくれた親類の悲願でもある仇討ち、そのプレッシャーたるや想像も出来ません。どう考えても私なら殺します。しかし、「彼は罪を償った」と自分で考え納得しどうするか決めた事が「実之助」の強さだと思います。

「描かれない当事者達」

「実之助」にとって「市九郎」は罪を償ったと判断されてもそれが全てでは有りません。主人殺しは大罪とされていますし、何より「市九郎」に殺された他の人間の親族が、「実之助」と同じようにさまよっているとしたら。彼は偉業を成し遂げ、罪を償ったのだ。と言われても腑に落ちるかどうかは分かりませんし、それはもっともだと思います。そして、「実之助」の親類には一体どう説明するのでしょうか。そして「市九郎」によって人生の大半を奪われた「実之助」は…これから先どの様に生きて行くのでしょうか。


罪を犯した人とその周辺人物を描く映画『友罪』の紹介。

最後に1つ、映画を紹介させて頂きたいと思います。
生田斗真さん、瑛太さんが主演を務めている『友罪』という映画です。
かつて凶悪な殺人事件を起こした鈴木(演/瑛太さん)と学生時代の「罪」に苦しめられている益田(演/生田さん)の交流を軸に、それぞれのやり方で罪と罰に向き合う人々が生々しく描かれています。恋人の妊娠を機に家庭を持つ事を望む過去に事故で人死なせてしまった正人、そんな息子が幸せになる事を許せない正人の父。医療少年院で犯罪少年を治療する仕事に邁進する白石、実の娘よりも犯罪少年に関心を向ける母に不満がある白石の娘…。

償いはいつ終わるのか、それは誰が決めるのか、過去に過ちを犯した人は幸せになってはいけないのか。観終わった後、暗い気持ちになりますがぜひおすすめしたい映画です。

私自身は、両親が宗教活動(勧誘)に精を出し子供よりも「どこかの誰か」を救うことに一生懸命でしたので、白石と白石の娘の関係について胸が苦しくなりました。これは映画ではありますがここに登場して来る人物と同じ境遇の人間は現実世界にたくさんいます。また、いつ自分が同じ立場になるか分かりません。白石親子の様な問題を現在進行形で抱えている人も多いと思います。

このnoteを最後まで読んでくださった方は「一方的に断罪出来ない現実」について少なからずご興味があるのではないか、と思います。こういった映画や小説を紹介することで「見えにくい存在」を「可視化」させる一助になれば嬉しいです。演技とはいえ、人の感情が現れている映像を見る事は、この様な文章を読むより身に迫るものがあると思います。また、実際にそういった作品に触れる、という行動を起こし、ゆっくりお考え頂きご自身なりの解釈でもう一度自分の手の届く周囲の人間模様について見まわして下さる方が少しでもいたら少しだけ「子供達」も生きやすくなるのではないかと信じたいと思います。

大変長くなりましたが、お読み頂きありがとうございました。

今後は、機能不全家族/虐待/家族と宗教…について、今回のように小説や映画などと絡めつつ書いていきたいと思っております。

「恩讐の彼方に(菊池寛)」

映画「友罪」

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