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おままごと

幼い頃、私はおままごとという遊びの方法が、わからなかった。

母は、曾祖父の代からクリスチャンの家に生まれた人で、母の母、つまり母方の祖母も、2歳半で自分の母親を亡くしており、そしてそのせいもあって祖母の父親も腑抜けたようになってしまい、生涯、精神が元に戻ることはなかった。
その母方の曾祖父は、腕のいい井戸職人だった。ところが、当時の国鉄から請け負った大きな井戸掘りの工事で、いくら掘っても掘っても、水が出なかったのだ。それで一家は、下町に引っ越すことになり、その私の曾祖母は半分は境遇が前とは違ってしまって、憤死したようなものだったらしい。
そんな悲惨な事件があったので、祖母は名古屋の下町に出来た教会付属の幼稚園にいたボーマン夫人というカナダ聖公会の宣教師の人を育ての親として成長した。祖母の晩年、松本の実家へ行くとその枕元の壁には温厚で懐が深い印象の、愛情深いボーマン夫人の写真が聖母画のごとくに掛けてあった。

ただ、この私のルーツは、いろんな悲喜劇を私に及ぼした。私のちいさな頃、家には各自のお茶碗がなかった。その代わりに、旅館のように柄も大きさもおんなじお茶碗と、全員がやはり洗っては使い回す箸があった。それもそのはずで、母の嫁入り道具は銀の食器と、スプーンとフォークとナイフだったのだ。おそらくは、そのボーマン夫人に祖母が「嫁入り道具とは何を揃えたらよいですか」と、質問した答えが、それだったのだろう。そしてカナダには、各々のお茶碗とか箸といったものはそもそもない。

なので、私の母は割烹着を着なかった。おひつから、ご飯をよそって各自に盛り分けることもなかった。私たちはおかわりは、自分で炊飯器の置いてある場所に行って、自分でしゃもじでよそっていた。クリスマスには、母は鶏の丸焼きを、ガス台の上に古い形のオーブンを置いて、料理するのが常だった。クリスマスツリーも居間の隅に備え付けた。父は、それをあまり喜んでいなかった。・・・そして、彼女は日本の子守唄がどうにもうまくなかった。祖父や祖母が、教会で歌っていたところの、賛美歌はでも朗朗とアカペラで私と弟に歌い聞かせていた。

そんな家にいて、私は、地元にいる近所の他の子どもたちとうまく遊べなくて、もっぱら図書館にある外国の児童文学の中に逃げ込んで暮らしていた。アーサー・ランサムやナルニア国物語の主人公たちが、私の友達だった。その当時、つまり1960年代の日本の絵本や児童文学は、何を伝えようとしているのか実感としてわかりづらかった。私はひとりで好きな本と育った。


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