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家族を越境する他人

近頃、訪問看護師さんが来るようになってから、人間をつがいにして、二人(あるいは数人)きりで密室的状態に閉じ込めることの是非を激しく思う。昔、種村季弘氏のエッセイを読んで驚いたのは、東京でさえまだ、純粋な意味合いでの核家族で氏が育っていなかったことである。何かあるたびに、お寺のお坊さんが種村宅(だけではなかったに違いない、)に寄って、「手のかかる子ども」であった氏の行く末について、あれこれと、トラブルを起こした場合はこういう対応をなさいとか、あるいは高校進学の際は、氏にはここの学校が向いていますよとか、まさにカウンセラーの如くに家族、ひいては共同体の中に息をしていたというのである。私はそのエピソードに驚愕した。本来の宗教の役割と言うのは、倫理的なものも無論あるけれども、このように共同体の精神的肉体的なかすがいになることなのではないか、と思ったりもした。無論、現代にはカウンセリングというものがその役割を果たしていると言えばいえるが、白い密室で顔を突き合わせて話すことと、家を直接に訪問することの間には、深くて大きい谷がある。以前、福祉作業所のチーフに聞いた台詞をふと思い出した。
「引きこもりの家族に、外で会っていても何もわからない。自宅訪問してもやはり、わからない。二、三日間滞在してもわからないことが、二週間その家に泊まり込めば、引きこもるという現象が、その子ども個人の問題ではけしてなく、家全体の歪みであることが手に取るようにわかる」と。
今、必要とされているのは、核家族の各員が奮起することではなく、むしろ核家族を越境する他人の存在なのかも知れない。


                初出 Facebook 2021/5/1

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