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詩と出会った頃

幼い頃、私は詩というものがあんまり好きではなかった。もっと言えば、積極的な興味がない子どもだった。ただ、実家にあった日本文学全集の詩歌の冊だけは、好きでよくぱらぱらと目を通していた。私がその頃、特に好きだったのは安西冬衛や北川冬彦らの一行詩と、谷川俊太郎とそして、黒田喜夫の詩だった。
(でも後年、分かってきたのは私は一行詩というものが苦手で、上手くないと言うことでもあった。)
その後、自分でも予想していなかった大病をして、私は病室の窓際で詩を綴ることを覚えた。それらはまだ詩の体裁をなしてはいなかったけれども、哀しみやさびしさを、埋めるために詩文があるのだと、30歳を過ぎて私は気がついた。
そして長い長い、自宅療養の時期が終わって、つたなくなけなしの詩であっても一応書けるようになって来た私は、現代詩関連の合評会やイベントに、臆することもなくあちこちに乱暴に突撃するようになっていった。今、振り返るといろんな詩人さんに、本当に迷惑をかけたと思う。
そんなことをつらつらとしている内に、事実上の第1詩集を出版することになった。でも、当時の私は、社会というもののルールを全然知らなかったのと、とにかくいい詩集を出すんだ、そのために妥協とかはしたくない。自分が思ったとおりにするんだ、という自己中心的な思いでいっぱいだった。それで、「狼」を主宰していた光富さんには多大な迷惑をかけたし、また最終的にこの版元になった、モノクローム・プロジェクトの一色真理さんとも、随分とごちゃごちゃと揉めた挙げ句の、『スパイラル』の上梓だった。

時間は若干遡るが、私が生まれて初めて手にした、現代詩の詩集は川口晴美さんの『live』だった。確か、自由が丘で行われた「歴程」の朗読会に観客として参加した際に、美しい女性が美しい装丁の詩集を並べていて、それが川口さんだった。家に帰って来て、頁を開くとそこには、憧れていた美しい言葉の世界があった。私は現代詩に陶酔した。

でも、自分が本当に書きたい詩と、憧れてはいるけれども自分には書けないし、必要のない詩。自分から遠くにある詩をごっちゃにしたのが、その後私が詩の世界で大きく躓く原因になったように思う。


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