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青柳 いづみこ著『ショパン・コンクール - 最高峰の舞台を読み解く』


クラシック音楽やピアノは好きだけど「ど素人」、ましてショパンなど一曲も弾けない。そんな私でも知っている国際的ピアノコンクールである「ショパン・コンクール」。その内実はいかなるものか?という軽い気持ちで読んでみた。

まず、演奏についての表現力が素晴らしい。引用してみよう。

・・・ラトヴィアのオソキンスは低い「マイ椅子」を持参する。この椅子でオソキンスがヤマハから引き出す音は・・・この世のものとも思えない不思議な光を放っている。『舟歌』のイントロからして独特の揺らし方、怪しい響きで耳を惹きつける。イ長調部分はとろけるように甘く、重音は蜃気楼のような響き。ゴンドラ部分で審査員席を見たら、アルゲリッチが左手で拍子をとっていた。(118ページ)

言葉選びに幅があり、プロの技を堪能できる。エンターテインメント業界のレポートを書くに当たっても、いいお手本になるのではないかと思う。

本書は「楽譜の解釈」という観点を重要視している。「審査委員の「ロマンティック派」対「楽譜に忠実派」論争」は、第二章、第四章と複数の章にわたってたびたび"再現"されるが、それにとどまらない。ショパンの楽譜とはどのような性格があったか。ショパンそのひとの芸術的スタンスはいかなるものだったのか。ある演奏が個性的過ぎるからといって、「ショパンでない」と言えるのか。これらの問題提起が最後まで登場する。

読みながら、楽譜の解釈とは、翻訳に似ているのではないかと思った。編集の仕事に長きに渡って携わってきたある知り合いが、こう言ったことがある。「翻訳とは、自分が読んで感じたことを、自分自身の言葉で表現することだ」と。原文がある以上、翻訳した作品は全てが自分の言葉にはならないけれど、自分というフィルターを通して新たな魅力のある作品を創り上げる姿勢も大事なのだ。ショパンの演奏の“コピー”ではなく、ショパンと弾き手の魅力が解け合った演奏こそが求められるはずで、だからこそ多くの音楽家が、クラシック音楽という完成された世界に挑むのではないだろうか。同じモチーフやテーマを扱った作品に、これまでに名演奏、名著、名訳が出ていたとしても、それは後人の挑戦を妨げるものではない。終章「コンクールの未来、日本の未来」で語られる著者の思いは、若い人への大事な助言になるだろう。

ショパン・コンクールは5年に1度の開催である。本来なら今年が開催年になるはずだった。本文中「「解釈の自由化」にともなって、二〇二〇年のコンクールでは、オリジナルな装飾をつけてノクターンを弾くコンテスタントが続出するだろうか」(173ページ)という記述が切ない。延期された2021年のコンクールでは、すべての参加者に幸あらんことを!

※本記事は2020年12月15日に「アマゾンレビュー」に掲載のものと同じ内容です

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