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3月11日

私の故郷は福島県浪江町。
3.11、東日本大震災で津波と原発事故の被害にあって町民が避難せざるを得なかった町。

あの日、大学生だった私は春休みで地元・浪江町に帰省していた。地元の保育園でのボランティアが次の週から始まるためだった。

そのボランティアのための打ち合わせの帰り、保育園から実家まで歩いている途中でポケットに入れていた携帯が震えた。「メールかな?」と思ったら緊急地震速報。「あ、地震くる」と思った瞬間の大きな揺れ。立っていられないほどだった。
周りの田んぼが砂埃を上げて、電柱も倒れるんじゃないかと思うくらい大きく揺れていて、本当に怖かった。

揺れがおさまってから、実家に帰宅。家の中はめちゃくちゃ。食器棚の皿やグラスは粉々になって床に散らばっていた。「なんだこれ…」というのがはじめに思ったこと。
仕事がその日休みだった父と一緒に割れた皿を片付けていると、町の防災無線で「大津波警報が出ています。高台に避難してください」の放送。テレビでも同じように大津波警報が発令されたというアナウンス。私の実家は海からはだいぶ離れた場所にあったから、ここまではさすがにこないだろう、と思っていたけど、「大津波警報」という聞き慣れない放送にゾワっとしたのを覚えてる。

しばらくしてテレビに目をやると、宮城県名取市の津波の映像が中継で流れていた。大きな黒い塊が田んぼやビニールハウスを飲み込んですごい勢いで進んでいく様子が映っていた。今思えば、あれと同じ状況が自分の町でも起こっていたんだよね。

町の防災無線は津波がくること、避難することをずっと呼びかけていた。「津波が東中学校まできました」と流れた時、「え?」と思った。東中は海からは少し離れた場所にある。「そこまで津波がきてるってどういうことだ?」海沿いの地区はどうなってるんだろうと怖くなった。

次の日、3月12日。
朝5時くらいに家族に起こされた。
「避難指示が出たから避難するよ」
何が起こってるのかよくわからなかったけど、原発がやばいんだ、ということは理解できた。
そして、父と母はそれぞれの職場へ、私は祖父母と妹、弟と福島市の親戚の家に向かった。

請戸(海沿いの地区)が津波で壊滅状態だというのは、後輩からの情報で知った。

とにかくその時はみんな必死だったと思う。

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あれから9年。
浪江町は一部の地域が避難解除されて、町は少しずつ復興してきている。周りの町村も徐々に避難解除されてきているところがある。
でも、実際に町に戻っているのはわずか。私の家族も避難先の街で今も暮らしている。時間が経てば経つほど、避難した場所での生活ができてくる。「避難解除されました!さぁ町に戻れますよ!」と言われても、なかなかそうはいかないのが現実だ。でもいつかは浪江に戻りたい、そんな気持ちもあると思う。

私が育った幼稚園も小学校も中学校も高校も、今はもうその場所では開校されていない。休校として実質の廃校になっているところもある。
その代わりに地域には新しい学校ができた。嬉しいことでもあるんだけど、「ああ、もう私の母校はないんだ」という気持ちにもなる。

自己紹介をする時、そんなに自分から地元の話題は出さないけど、「こっち(今住んでいる街)が地元なの?」と聞かれると「あ、地元は浪江で、震災後に家族がこちらに避難してきて〜」という説明をすることになる。
反応はそれぞれで「あ、そうなのね」という人もいれば、明らかに「原発避難者」という目で見てくる人もいる。「かわいそうに、大変だったでしょう」と声をかけられることもある。
「どうせお金もらってたんだよね」と心ない言葉を言われたこともある。
震災前は、「浪江町出身です」って言っても「福島県の…どこにあるの?」と言われていたのに、今は「あぁ、原発の…」ってなるんだもんなぁ。

私が東北のために、地元のために活動したいと思うのは、震災が大きなきっかけなんだと思う。
浪江町出身者なのに、双葉郡出身者なのに、福島県に住んでいるのに、何もできていないことにもどかしさを感じる時もある。出身者だからこそ、伝えられることがあると思うし、できることがあると思うんだよね。
震災に対する想いはそれぞれもちろん違うけれど。

私は運良く家族や親戚もみんな無事だったけれど、友だちの中には家族や大事な人を亡くした人もたくさんいる。今も復興のために力を尽くしてる人がいる。原発の作業員の人たちは命がけで作業をしている。

毎年、3月11日はいろんな想いがごちゃまぜになって複雑な感情になるけれど、忘れちゃいけないし、忘れるわけはないと思う。何年たっても、どんな状況になっても。



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