日本キリスト改革派岡山教会 2024年3月31日礼拝説教(マルコによる福音書16章1〜8節)
↓前回の説教↓
【3月31日朝の説教】
◎聖 書:マルコによる福音書16章1〜8節
◎説教題:「復活の朝」
〜空になった墓に神の命を見る〜
◎説教者:柏木 貴志 牧師
【メモ】
◎イースターに『マルコ』を読む時、私たちは困惑を覚える。…『マルコ』には復活のイエスが直接描かれていない。「だれにも何も言わなかった。」
復活のイエスに出会った喜びが描かれないまま、『マルコ』(の原版)は終わってしまう。
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しかし『マルコ』を通してこそ味わえる「復活の福音」がある。
◎金曜日の3時にイエスは死んだ。
日没(安息日が始まる前)までの限られた時間に、大急ぎでイエスの遺体が降ろされ、墓に入れられた。
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イエスの十字架を見つめていた女性たちは、丁寧にイエスを葬り直すために、安息日の日没後に香油を買い求め、日曜の朝早くに墓へと向かった。
◎3節「あらやだ、私たちだけじゃ墓石を動かせないじゃない。どうしよう…」
そんな事を忘れてしまうほどに、彼女たちは「一刻も早くイエスを葬らないと」という思いで一杯だった。
◎4節「目を上げて見ると」
(15:40「十字架のイエスを見守っていた」、15:47「イエスの葬られたを見つめていた」)
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女性たちはずっとイエスを見つめ続けていた。
女性たちの気持ちは沈み、自ずと視線も下を向いていただろう。
しかし不思議なことに、彼女たちは「目を上げること」が出来た。
その視線の先には開いた墓穴があった。
◎6節「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。 」
=「よく見なさい。イエスはもうここには(死の領域には)おられない。空になった墓を通して、復活されたイエスをよく見なさい」
私たちクリスチャンの信仰は「十字架で死んだイエスを見つめる信仰」である。
しかし同時に、十字架の先を、「復活されたイエスを見つめる信仰」である。
◎私たちは神に見捨てられても、神に見捨てられない。
ひとたび見捨てられても(詩編22:1)その魂は必ず命を得る(同22:30)
◎7節「ペテロとヨハネに告げよ、『あなた方も復活のイエスを見ることになる。あなた方も“師を見殺しにした裏切り者”として終わるのではなく、“復活のイエスの証人”として復活するのだ。復活のイエスを見つめる喜びを、共にせよ』と。」
◎しかし、『マルコ』はそのまま大団円とはならない。
8節「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。
そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」
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後に婦人たちはイエスの復活を語った(だからこそ『マルコ』が記された)。
しかしその前に「恐ろしくて語れなかった」という事実も厳然としてある。
マルコも、初代教会も、この事実に立ち止まって欲しかったのではないか。
◎イエスは罪人である私たちのために、死んで復活した。
しかし私たちは、私たちのために復活したイエスをも拒絶するほどに、死者の復活を受け入れられない。
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人間にとっては「死んだものが生き返ること」は異常事態。
しかし神にとっては「生きている者が死ぬこと」の方が異常事態。
神はこの異常事態を正すために、イエスを世に遣わした。
◎神の御力(復活)が顕わになる所で、同時に私たちの罪(復活の否定)も顕わになる。
しかし、神のみ前では私たちの罪は隠せないし、隠す必要もない。
「死者を復活させる神」を認められない罪もまた、復活の光に包まれ赦される。
【次主日(4月7日)の朝礼拝】
◎聖 書:ヨハネによる福音書8章31〜38節
◎説教題:「真理はあなたたちを自由にする」
~真理に束縛されるとき、私は解放される~
◎説教者:柏木 貴志 牧師
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