日本キリスト改革派岡山教会 2024年3月10日礼拝説教(マルコによる福音書15章1〜15節)
↓前回の説教↓
【3月10日朝の説教】
◎聖 書:マルコによる福音書15章16〜32節
◎説教題:「十字架から降りない神の子」
〜自分を救わず、人を救う神の御業に気づく〜
◎説教者:柏木 貴志 牧師
【メモ】
◎十字架刑…ローマ帝国に叛逆した者への、最も残虐な刑。
その恐ろしさは「すぐに絶命出来ないこと」にある。
全身の痛みと通りがかる人の罵声に数日耐えなければならない。
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◎しかしマルコはイエスの死において、刑罰そのものの過程(鞭で打つ、手足を釘で打つ)・イエスが身に受けた身体的・精神的な苦痛を描いていない。
それよりもイエスを取り巻く人々の陰湿な悪意、冷酷さ(イエスを侮辱し痛め付ける事を喜んですらいる!)を細かく描いている。
◎マルコ「ここに私たちの罪がある。」
「そして私たちを罪から救う王がおられる。十字架とは“私たちための王”の戴冠式なのだ。罪人たちよ、十字架につけられた王の元に集え。」
◎イスラエルの王の戴冠式…サウル、ダビデ、南北王国の王たちの戴冠の様子は聖書に詳しく記されていない。
(詩編には戴冠式の式文と言うべき文章が幾つかある→2、20、21、72)
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本当の(全人類にとっての)王ではなかった彼らの戴冠を、聖書記者は詳しく記さなかった。
旧新訳を通して唯一記された王の戴冠、それがイエスの裁判と死の場面だった。
◎黄金の冠→荊の冠
王笏→葦の棒
紫の衣→赤い外套
最後にはそれら全ても奪われ、全ての人から「用無し、役立たず」として捨てられた。
◎マルコ「ここに私たちの罪がある。」
「同時に、私たちを罪から救う王がおられる。彼は私たちの罪に怒らず、裁かず、その罪がもたらす傷を担われた。」
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◎私たち人間の本来あるべき姿は、一体どちらなのか。
私たち人間は他人と争い、奪い合い傷つけ合う事で生きているのか。
それとも互いに憐れみ、互いの欠けを担う事で生かされているのか。
◎23節「没薬を混ぜたぶどう酒」(麻酔薬)を、イエスは受け取らなかった。
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マルコ14:26…「再びぶどう酒に酔うのは、君たちと神の国で再開する時だ。
酒を味わい酒に酔う愉しみは、その時まで取っておこう」
弟子たちは逃げたが、それでもイエスは“神の国”で再会するという希望を捨てていなかった。
人間は神を簡単に簡単に捨てるが、神は人間を決して捨てない。
◎30、31節「お前がメシアなら、今すぐ十字架から降りてみろ。そうすれば信じてやる。」
同じような「荒野の誘惑」の時はみことばによって答えた。
しかしこの時イエスは沈黙した。
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イエスは神としての力を、自分自身のために使わなかった。
自分のためではなく他人の救いのために用いる事で、神の力は神の力としての栄光を放つ。
◎キレネ人シモン…図らずも王イエスの戴冠式に招かれた人。
彼は生前のイエスに会ったことがなく、名前すら知らなかったかもしれない。
何だかよく分からないまま、でもローマ兵には逆らえないので仕方なく、イエスが一人では運べなかった十字架(の横木)をゴルゴダの丘まで運んだ。
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結果的に彼はイエスの十字架(王として民を救う御業)を完成させた。
神は「死んでもついて行く」と言った弟子たちを散らし、生前のイエスを知らなかった人を教会の数に加えられた。
神はご自身の選んだ者を「強いられた恩寵」によって歩ませる。
そこには当然不自由があるが、孤独ではない。
イエス・キリストが共に歩んでくださる。
【次主日(3月17日)の朝礼拝】
◎聖 書:コリントの信徒への手紙一 15章50〜58節
◎説教題:「復活信仰に固く立つ」
〜復活は死に対する完全勝利〜
◎説教者:佐々木 稔 教師
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