日本キリスト改革派岡山教会 2024年01月07日礼拝説教(ヨハネの手紙一5章1〜5節)
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2024年1月7日朝の説教
◎聖 書:ヨハネの手紙一5章1〜5節
◎説教題:「必ず最後に神の愛は勝つ」
〜2024年が神様の愛の中に導かれますように〜
◎説教者:柏木 貴志牧師
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【メモ】
◎神に赦されてこそ、私たちは集い礼拝を捧げることが出来る。
今までがそうであったように、今年も礼拝を捧げられるように祈りを合わせたい。
◎私たちは終末的状況に「心を騒がせる」のではなく、「目を覚まして」主を待ち望むことが求められている。
その具体的な相が「神を礼拝すること」「神の愛を観ること」「神に命じられるままに、神にして頂いたように、互いに愛すること」
◎「みことばに“親しむ”」という姿勢もあって良いが、私たちの灯火・命綱として、畏敬をもって「みことばを“頂戴する”」という姿勢こそ忘れてはならない。
その様な真剣な受け止めを通して、みことばは生きて働く。
◎しかし3節「神の掟は難しいものではありません。」を、私たちはどの様に受け止めたら良いのか?
何をもってヨハネは「難しくない」と言ったのか?
◎「難しくない」=「重荷ではない」
イエス「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)
◎イエスと聴衆にとっての「重荷」=「律法」…本来「神によって罪から解放された者はこんなに自由に生きられるんだ!」と示す律法が、律法学者やファリサイ派によって「他者を責め、自由を奪い、マウントを取るための武器」にされていた。
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なぜそうなるのか…一人で背負う(一人に背負わせる)から。
◎ヨハネ「神の掟は“共に”担うものだ。お互いのために、お互いによって担うものだ。だから重荷ではない。」
◎キリスト者=「もう一人では重荷を担えない」「その私を神は愛し、赦してくださった」と信じる者。
そして神の掟を共に担うために、「教会」として呼び集められた。
◎イエス「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」…キリスト者になっても担うものが無くなる訳ではない。
でもそれは一人で担うのではなく、(イエスと)共に担うもの。
◎4節「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つ」=私たちの力・富・名誉によって勝つのではない。私たちが勝たなくても、神から生まれた者は神の勝利に与る。
◎ダニエル7:18「いと高き者の聖者(キリスト者)」は王権を受ける。
聖者は獣に敗北するが(21節)、やがて神が現れて正しい裁きを行い、それぞれに相応の報いをお与えになる。
◎「神は勝利される。私たちはその勝利に与る。神は私たちの涙に報いてくださる」
その信頼があるから、私たちは(たとえ負けるとしても)「互いに愛し合う」という務めを果たしていける。
【次主日(1月14日)の朝礼拝】
◎聖 書:ヨハネの手紙一5章13〜21節
◎説教題:「真実の神、永遠の命」
〜確かなものに、どれだけ触れることができるか〜
◎説教者:柏木 貴志牧師
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