日本キリスト改革派岡山教会 2024年02月04日礼拝説教(詩編86編)
↓前回の説教↓
2024年2月4日朝の説教
◎聖 書:詩編86編
◎説教題:「私たちはあなたの慈しみに生きる者」
〜神の慈しみは人を超えて〜
◎説教者:柏木 貴志 牧師
【メモ】
◎詩編86:2「私はあなたの慈しみに生きる者」今年の年間標語
◎詩編86…「貧しい者の詩編」
「貧しい者は幸いなり。彼は神(天の国)に満たされる。」(マタイ5:3)
「人は、神の民とは、いかに生きる者なのか」その問いにイエスは「心の貧しい者として生きよ」と答える。それは「イエスの姿にならうこと」でもある。
◎貧しい者=神の慈しみに生きる者(神に祈り求める者、神に依り頼む者、身を屈めて生きる者)
↓
決して隣人に対して胸を張っていない、自分の強さや正しさを誇らない。
「隣人に対する人間らしい態度」(カルヴァン)
◎貧しい者(神に依り頼む者)は、神への愛に振り切らない(隣人のことを忘れない)。
「神のために生きたい、同時に隣人のことも大事にしたい。でもどうやって?」
と、神と隣人への愛の狭間で悩む。
自分の知恵や力によっては答えが出ない。
だから神の「慈しみ」に依り頼むしかない。
◎「慈しみ」とは?(辞書では愛すること、可愛がること…)
聖書の「慈しみ」(ヘセド)は感情(好き、かわいい)の問題ではない。神が始めに立てられた契約に対する「誠実さ」が根本にある。
↓
◎神は契約に対していつも誠実であられる。だから神のヘセドは永遠に変わらない。
人間の方が幾たび契約を破りまた忘れても、その度に神は(先の契約に基づいて)何度も契約を結び直される。(アダム→ノア→アブラハム→モーセ→ダビデ)
(人間が神を忘れても、神は人間を忘れない)
◎私たち人間が愛するに値するから愛されるのではない。
私たちが愛されているという事実は、ただ神ご自身の性質、それも好き嫌い・損得といった感情ではなく、「始めに立てた約束を忘れない」神の誠実さに依って立つ。
「主は情け深く、憐れみに富み、忍耐強く、慈しみと真に満ちておられる」(15節)
◎私たちクリスチャン、そして教会は、人間自身の誠実さに頼らない。
「見捨てない、いつまでも共に居る」と仰る、神の変わらない慈しみ(ヘセド)に立ち続ける者。
そこに集う人が何も持ってなくても、教会には「神の誠実さ」という無上の財産がある。
◎「私の魂をお守りください」
人間自身の誠実さを頼りに、祈りを聞いてもらうのではない。
「私の魂を守ってくださる」神の誠実さへの信頼があるから、大胆に祈れる。
◎「神の誠実さ」に応えるには
・「絶えることなく(全ての日々において)神の名を呼び続ける」(3節)
→人間の努力や根性によって叫び続けるのではない。
「絶えることなく、全ての日々において、恵みを注いでくださる神」だからこそ、
その神に信頼し、神に叫び返す。
イエス「求め続けよ、探し続けよ、叩き続けよ」(マタイ7:7−9)
→自分勝手にゴールラインを設定してはならない。
自分が思うゴールに達しても達しなくても、「求め続けよ」。
・「一筋の心をお与えください」(11節)
→心を尽くして、心の全てを用いて、ただ唯一の神を仰ぐ。
自分の心が思い描く《神》を神としてはならない。
神は「私の心を超えて大きい(13節)」、私の心に収まりきらない神なのだから。
・「良いしるしを私に現してください」(17節)
神様を信じることは「私の胸の内がスッキリしておしまい」ではない。
神はこの不信仰に満ちた世において、彼らに信じさせるほどの「良いしるし」を現してくださる。
私を通して良いしるしが現れるように、私を通して神の栄光が現れるように、祈り求めよう。
【次主日(2月11日)の朝礼拝】
◎聖 書:ヨハネの手紙二 1〜13節
◎説教題:「続・愛の手紙」
〜尽きることのない神の愛を語り続けよう〜
◎説教者:柏木 貴志 牧師
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