日本キリスト改革派岡山教会 2024年2月25日礼拝説教(ヨハネの手紙三 1〜15節)
↓前回の説教↓
【2月25日朝の説教】
◎聖 書:ヨハネの手紙三 1〜15節
◎説教題:「真理の手紙」
〜いつなんどき、誰に対しても真理を語ろう〜
◎説教者:柏木 貴志 牧師
【メモ】
◎聖書に含まれなかったものも含め、ヨハネは多くの手紙を書き送っていたらしい(9節)。
しかし当時において紙(パピルス)もインクも決して安いものではなかったし、口述筆記が出来るプロも用意する必要があった。
コストで言えば「直接会いに行く」方が楽だし、伝えたいことも誤解なく伝えやすい。
(⇄聖書に収録されたパウロの手紙は「よほど遠方の相手に伝えたい」「自分が足止めを喰らって会いに行けない」など、必要に迫られて書いた手紙が多い。)
◎それでもヨハネの場合、比較的行き来しやすい所に居るガイオに、わざわざ手紙を送っている。
なぜか?動くのもしんどいほどに年老いていたから。
「近いうちにお目にかかって親しく話し合いたいものです。」(14節)→「本当は会いに行けないかも」という悲壮な思いが滲んでいる。
◎「そこまで大事な内容だろうか?わざわざ手紙を書くほどの内容なのか?」
そう思ってしまう様な、逆に「手紙を書いた所でどうにもならないだろう」と思う様な、小さな(ありふれた)問題。
それでもヨハネは心を傷めずには、愛と励ましの言葉を送らずにはいられなかった。
◎「神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。」(1ヨハネ2:6)
イエスがこの世の底辺に生き、最も小さな人々を友と呼び、彼らのために命を捨てた様に、ヨハネもまたコスパや問題の大小を問わず、愛の言葉を書き送った。
そのヨハネの姿に、ガイオも世々の小さな教会も、励ましを受けたに違いない。
◎ガイオ…教会のまとめ役であり、ヨハネからの信頼(単なる個人的な好き嫌いではなく、「神の愛に生きる者」への信頼)が篤かった。
5節「よそから来た人たち」=キリストの福音を伝えるために旅をする巡回伝道者
7節「この人たちは、御名のために旅に出た人で、異邦人からは何ももらっていません」=定職を持つ事は出来ないし、その信仰のゆえに迫害される事もあった。教会の助けがなければ野垂れ死にしてしまう。
その様な同労者を温かく迎え、衣食住を用意し、次の町へと送り出す役目を担っていたガイオを、ヨハネは「真理のために共に働く者」と讃えた。
◎ ディオトレフェス…ガイオと同じ教会のまとめ役。
「指導者になりたがっている」=「教会の中で自分が一番でありたい」→「反キリスト(キリストすら蹴落として一番になりたい)」
そんなディオトレフェスですら教会の人々は愛したいと願うから、誰も注意出来ない、だから問題が拗れる。
◎ディオトレフェスは巡回伝道者を信頼出来なかった(実際伝道者の方にも落ち度はあったのかもしれない)し、送り出してくるヨハネも年老いて頼りになるか分からない。
「“互いに愛し合いなさい”それは分かった!でもそれだけでは教会はやっていけない!もっと別の、新鮮な言葉で神について語ってくれないのか!?」
ディオトレフェスにはそんな焦りがあったのかもしれない。
◎しかし「私がしっかりしないと!手を尽くして言葉を尽くして教会を支えないと!」という焦りは、傲慢と表裏一体である。
誰に対しても膝を屈め、謙遜に歩むなら、どんなに未熟な説教からでも神の御言葉を聞き取ることが出来るし、その様な者こそが教会を建て上げていく。
ディオトレフェスもガイオと同じくヨハネの薫陶を受けていただろうに、根本的な事が分かっていなかった。
◎しかし…ヨハネの胸中にあったのは「自分の言う事を聞かない者への怒り」ではなかった。
むしろイエスや十二使徒の生前、兄弟ヤコブと共に気性が荒く、一番に成りたがっていた若き日の自分と、ディオトレフェスと重ね見ていたのではないか。
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◎逆に言えばディオトレフェスにも希望はある。
ヨハネが十字架に躓いても、その躓いた自分をイエスは赦し、「行きなさい、互いに愛し合いなさい」と再び歩ませてくださったのだから。
◎「彼のしていることを指摘しよう」=「彼に思い起こさせよう」
「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネによる福音書 14:26 )
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「ああ、イエスはこんな事を言っていた。イエスはこんなにも自分を愛しておられたじゃないか!」と思い起こさせる。
思い起こすことで、私たちには「平和がある」(同14:27)。
赦しあうことが可能になる。(同20:23)
◎ヨハネが望むことは、ディオトレフェスを責め裁くことではない。
彼を「自分が一番でありたい」という思いから解き放ち、「互いに許し合い愛し合う生き方」がもたらす豊かさを思い起こさせること。
◎どんなに優秀でも、一人で教会を建て上げる事は出来ない。
互いに欠けを持つ者として、へりくだり、赦し合い、愛の言葉を交わす時、一人一人を通して神の愛、神の力が現れる。
【次主日(3月3日)の朝礼拝】
◎聖 書:マルコによる福音書15章1〜15節
◎説教題:「神の子を裁く人間の罪」
〜神の子の沈黙を覆う人間の嘲りを知る〜
◎説教者:柏木 貴志 牧師
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