見出し画像

宮城集落探訪③~白石市福岡の分校群~

白石市の白石川より西側を福岡地区という。福岡は鎌先温泉から弥治郎、南蔵王高原などの観光資源を多く有している地区だ。

その福岡地区には福岡小学校と深谷小学校という二つの小学校があり、それに付属して五つの分校が存在していた。

その五つはそれぞれ、福岡小学校八宮分校、同不忘分校、同長峰分校、同蔵王分校、深谷小学校三住分校という。今回はそのうち八宮、蔵王、三住の三校を実際に訪れた。

筆者は仙台市内に住んでいるので、白石駅までは東北本線に自転車を乗せて来た(これを輪行という)。

↑こんな感じの袋に入れて持ち運ぶ。↑

白石駅からは刈田病院→鎌先→弥治郎→大網と自転車で移動した。
ずっと勾配の大きい坂道でかなりきつかった。途中何度も自転車を止めてしまった。
後から考えたら垂清川沿いを来た方が無駄な上下が無くて楽だったかもしれない。


① 八宮分校


八宮分校

八宮分校は明治41年開校で、垂清川上流、大網地区にある。大網地区にはそれなりに人家があり、集落の方の車を何台も見た。平成24年(2012年)休校。


校舎の外観

平屋の校舎と体育館らしき建物が確認できた。
校庭の雑草は伸びきっていて、刈られることを忘れてしまっているかのようだった。

八宮分校の付近はまだ人の賑わいがある集落で、それがあり続ける限りこの分校には何か果たせる使命があると思う。地域住民同士を繋いでいた場所として、形だけでもずっと残っていてほしい。

② 蔵王分校


蔵王分校跡

蔵王分校は昭和24年開校、平成5年休校、10年(1998年)廃校。
県道254線、南蔵王白石線をひた走りようやく辿り着く。

現在は地元の会社の敷地になっているため、内部までは観察できなかった。
周囲に人家が一つもないといった様子で、ここに通う児童がいた風景を想像できないような場所であった。


近くに蔵王分校の沿革を記した看板があった。
このような集落の大半は戦後の満州などからの引き揚げによる開拓村で、やはりここもその一つのようだ。


付近にはここが開拓村であった証があった。
昭和前期に開拓された村々は、数十年の時を経てまた自然に還りつつある。

③ 三住分校


三住分校

深谷小学校三住分校は明治35年開校、平成20年(2008年)休校。蔵王分校からは県道51号、南蔵王七ヶ宿線をいくつかの上り下りを繰り返してついた。工事車両が意外と通る道だった。

校庭の雑草はそれとなく刈られていて、轍も見えるので、この学校からは人の息吹を感じた。まだ地域住民の生活の中にあることが何となく嬉しかった。

平屋の教室棟と体育館、それと別棟があるのが確認できた。裏門は神社に続いていた。
今回訪れた中では一番立派な作りだった。

一つだけ取り残されたブランコが漕がれたそうにこちらを見ている

また、この三住集落では久しぶりに商業施設を見た。

地域の方が営む八百屋さんだった。茹でトウモロコシが売られていたので、それを昼食にした。とても美味しかった。

店の主人は気さくな方で、分校について興味があることを伝えると、様々なことを教えてくれた。

三住集落は近隣の他の分校集落と違って、開拓前からあった歴史のある集落だということ。授業参観などの行事には村中こぞって訪れたこと。学校はどうにか残していきたいが、仕方ないと感じていること。
身をもって体験していないとわからない貴重なお話伺うことができた。


教室

教室内部はこんな感じ。間に仕切りのようなものが見える。また、前後に黒板があるようだ。

先ほどの店の主人曰く、複式学級では、前後の黒板で学年を分けて授業をしていたそう。

終わりに



帰りは国道457号線を下るだけだった。

この地域にあるもう二校もいずれ訪れたい。
また、近年の廃校は専らほかの施設として再利用されるなか、この近辺の分校は休校という扱いなので、手つかずの状態のまま残されている。必ず住民の意見を元に、活用するのか、あるいはいつか児童が入学することを待つのか、様々な選択肢の中から適切な方法で校舎が生かされてほしい。

帰りの道沿いで、山肌を崩す大規模な工事が行われていた。近年、メガソーラーによる自然破壊が問題視されている。ここもそれであると決まったわけではないが、そうであるなら少し悲しい気もする。(詳細を知っている方、コメントなどにて教えて頂けると幸いです)
かつてのダム建設のように、いつの時代も山間の集落は発電のための開発とともにあるのだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?