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きれいな愛じゃなくても


#創作大賞2024 #恋愛小説部門

【あらすじ】

男女の双子に生まれついた献と優。平凡だが笑顔の絶えない幸せな家庭は、あるきっかけを境に積み木のように崩れた。母親の目前での自殺、父親の育児放棄で餓死寸前のところを児童相談所の職員、棚田夏美らに保護される。東北の修道院施設に預けられた献と優は、14才の夜、互いの愛を確かめ合うように讃美歌に包まれながら結ばれる。母親からの遺伝と思われる精神病を抱えた献と優。幾多の障害をお互いの存在だけを頼りに生きてぬいてきた献と優は、引き裂かれてもなお互いを求めて止まなかった。そして二人のように姉弟で愛し合ったという伝承の残る神を祀る神社で結婚する。子供を授かることのできない献と優の傍らには、献と夏美の間に授かった子供、尊という息子がいた。2人は幸せな家庭を生きて死ぬ。

【本編】

1.

正月明けのとても寒い日だった。雪が降っていた。傘をささずに前を行く中年男のコートの肩には雪が積もりはじめていた。
私とその男、上司の柏木(かしわぎ)は、大きな団地の迷路のような通路を歩いていた。どっちを向いても5階建てコンクリートの同じ建物が立ち並んでいて、私はすでに迷子になっていた。
 
「ここか」
 
柏木が白い息を吐きながら言った。

「403号室です」
 
私は何度も確認済みの、分かり切ったことを言った。

「エレベーターもないのか、今どき」

柏木は、号棟入口にある集合ポストの403号室に「おくでら」とあるのを確認すると、重いとばかりにコートの肩の雪を払って階段を登りはじめた。私もすぐ後に続いた。
集合ポストの表札は、不器用に切った紙に鉛筆で書かれたものだった。子供の字だ。
今行くからね、今すぐ行くから、と私は心の中でまだ見ぬ子供たちに語りかけていた。

「一週間ほど前から人が出入りする気配がないそうです。お隣さんが何度も回覧板を持って行っているそうですが」
 
私は柏木に報告した。

「母子家庭で、子供は男の子と女の子がひとりずつ、8歳の双子、小学2年生です」

「ほぅ。男と女の双子は心中した男女の生まれ変わりとか言うな」

「やめてください課長!」
こんな時になんて不謹慎なオヤジ!
 
私、棚田(たなだ)夏(なつ)美(み)は児童相談所職員1年生、今までは事務所で内勤をしていたため現場に出るのはこれが初めて、つまり事実上、これは私の児相(児童相談所)職員としての初仕事だ。
通報の内容を聞いて柏木課長は私にこう言った。

「棚田、覚悟しとけよ」
 
私はつづけた。

「冬休み中で学校は長期休暇のため、学校からの通報はありませんでした」

「死んでんじゃねーだろうな、やだぞ、新年早々」

4階にたどり着いたところで息を切らしながら柏木が言った。
私は初対面からこのオヤジを好きになれずにいたが、今の言葉を聞いて、心底このオヤジに嫌気が差した。こんな無神経な人間がなんで児相の仕事をしているんだろう。しかも課長だなんて。
報告をしながら階段を登っていた私も息があがっていた。頬が熱かった。


廊下に一列に並んだドアは、くすんだ青、くすんだ緑、と交互に塗られていて、まるで小学生の工作のようだった。
私たちはくすんだ青いドアの前で立ち止まった。
表札に名前はない。もし集合ポストにあったような紙の表札を作っても、この高さでは小学2年生では差し込むのに手が届かないだろう。
両手をコートのポケットに入れた柏木にアゴで指示され、私はくすんだ青いドアをノックした。ドアは凍っているように冷たい。インターホンはない。もう一度ノックした。応答はない。近所に聞こえないように、小さめの声で名前を呼んでみる。

「もういい」
と柏木は言うと、管理事務所から借りた鍵をポケットから取り出してドアを開け、なんの躊躇(ちゅうちょ)も遠慮もなく中に入っていった。

「奥寺(おくでら)さん?」
私は玄関に入り声をかけた。
中は雪が降っている外よりさらに冷えているように感じられた。
室内は薄暗くてよく見えない。目が慣れるにしたがって、室内の様子がだんだんはっきりしてきた。

「奥寺さん?大丈夫ですか?気分が悪いですか?」
台所のテーブルで、椅子に座って洗面器に顔を突っ伏している女性に近づいて私は声をかけた。

「よせ棚田(たなだ)、その母親はもう死んでるよ」
「そんな・・・」

「目を開いてしっかり見ろ、新入り。これが児相の仕事の現実だ。不幸な家族を救い出すヒーローになれるとでも思っていたのか?」

その女性は20cmほど水を張った洗面器に顔を浸けて絶命していた。

「自殺だな。うちの仕事じゃない。そっちは警察に任せとけばいい」
「子供たち!子供たちは?」

私は部屋の奥へ踏み込んだ。
暗い。何かが擦れるような音がした。

「献(けん)くん、優(ゆう)ちゃん、どこ?声を聞かせて?暗くて見えないよ」
「誰も来るなっ!」

男の子の声だ。よかった。生きてる!

「頑張ったな。そんな毛布一枚じゃ寒かったろ。おじさんは柏木、このおねえちゃんは夏美、今からみんなで温かい鍋でも食べに行かないか?すきやきはどうだ?優くん」

「僕は優じゃない!献だ!」
大切なものを守る番犬のように男の子は吠えつづけた。

「課長!献くんです!優ちゃんは女の子のほう」
「まいったな」
柏木が暗がりの中で舌打ちした。が、私が知っているいつもの姿からは想像がつかない優しさで子供たちに接していた。私はこのオヤジをちょっと見直した。
 
2DKのアパートに石油ストーブがひとつ。
灯油切れか、それとも8歳では給油の仕方やストーブの点け方なんてわからないかもしれない。とにかく火事にならなくてよかった。

「献くん、無事でよかった。おねえちゃんに教えて。優ちゃんはどこに・・・ちょ、ちょっと課長!」

柏木がいきなり毛布をはぎ取った。
男の子の胸元に茶色い猫っ毛の髪の長い女の子が丸まっていた。

「大丈夫だ、生きてる」
 
女の子の脈をとりながら柏木が言った。

「優に触るな!クソじじー!」

男の子が知っている限りの悪態をついて柏木の腕に嚙みついた。

「えらかったな、坊主。よくがんばった!さすが男の子だ。おまえが妹を守ったんだ」

柏木は男の子を抱きしめた。二人ともしばらく動かなかった。柏木はまるで自分の体温を男の子に分け与えて温めてやっているようだった。やがて男の子がしゃくりあげた。そしてすすり泣きをはじめた。まだ8歳。命の危険にさらされるには、あまりにも幼すぎる。どんなにか怖かったことだろう。
 
女の子はすやすやと眠ったまま柏木に抱っこされて車の後部座席に乗り込んだ。私は男の子と手をつないでその冷たさに驚いた。凍傷になっているかも知れない。事務所についたら急いで様子を見てあげないと。

家を出るとき、男の子は一瞬足を止めて、動かなくなった母親を見た。その瞬間、私の手を握る手に力がはいった。それから何事もなかったかのように、また歩き出した。
いったいこの家庭に何があったのだろう。
わずか8歳の子供たちが、なぜこんな心の傷を負わなければならないのか。
私の頬を涙が伝った。今度は私が男の子の手をギュッと握りしめた。さほど大きくない私の手にさえスッポリ包まれてしまう小さな手を。男の子は無表情で私を見あげた。
雪は止んでいた。

2.

5歳の秋のある日曜日。
 
「そうだ、これこれ、ねえ、このチラシ見てよ」

洗い物をしていた母さんが、赤い花柄のエプロンで手を拭きながら、ハガキ大のチラシを持ってリビングに来た。
父さんは興味がなさそうにテレビを見ていたが、5歳の僕は興味津々でそのチラシを覗き込んだ。

「今度の日曜日、みんなでこのバザー行ってみない?」
母さんがとびっきりの笑顔で言った。

「バザーってなに?」
優が父さんに聞いた。
「おさがりの洋服やなんかが売りに出るんだよ。おさがり、ってわかるか?優」
 
優はニッコリとうなずいた。父さんは優の髪を撫でた。そして優の笑顔につられるように微笑んだ。僕も思わず笑顔になった。

「綿あめや、たこ焼きの出店もやるって、献」

母さんが僕の鼻先にエサをぶらさげるようなことを言った。

「綿あめ!行く行く!絶対行こうよ!ね、パパ!」

父さんが僕の髪をくしゃくしゃにしながら、諦めたように笑って頷いた。

「わーい!やったね、ママ!」

母さんは嬉しそうに微笑みながら、また洗い物に戻っていった。
 
このバザーをきっかけに、僕たち家族の運命は嵐に向かって大きく舵を切ることになる。


 
その教会は屋根の上に十字架が載っているこじんまりした一軒家だった。
牧師さんは40歳くらいのとても快活な人で、僕はすぐに牧師さんを好きになった。でも牧師さんの奥さんは、優しいが、どことなく馴染みにくくて苦手だった。
 
「ようこそ、いらっしゃい」
「ジュースやお菓子もあるわよ、こっちへどうぞ」
 
出向かえてくれた4、5人の初老の男女はみなとても柔和な笑顔をしていた。
後で知ったことだが、彼らは洗礼という正式にクリスチャン(キリスト教徒)として教会組織から認められるための儀式を受けた、いわば教会の正規メンバーで、その中でも執事とか長老とかいう肩書のあるエライ人たちだった。
みな一律に穏やかな声と柔和な笑顔を浮かべていて、5歳の僕にはその様子がちょっと不自然で気味悪かった。
そんな違和感と居心地の悪さはその後も続くのだが、お菓子がもらえるから、という理由だけで、僕は母さんと一緒に教会に通い続けた。
 
日曜日ごとに教会に通うのが我が家の決め事になった。
朝10時半になると、プロテスタント教会らしい1階の飾り気のない質素な礼拝堂で大人たちの礼拝が始まる。
僕たち子供は、大人の礼拝が終わるまでの間、二階の広い一室で、お菓子を食べたり絵本を読んだりして過ごす。
そして大人の礼拝が終わると、僕たち子供も一階に呼ばれ、礼拝堂の最前列に座り、牧師さんの簡単な聖書のお話のあと、ひとりずつ順番に牧師さんが頭に手を載せ、祝福というものを与えられるのだった。
次に大人たちは礼拝堂の椅子やテーブルを片付け、どこからか引っ張り出してきた大きな丸テーブルを中心に、みんなで持ち寄ったお昼ごはんを食べるのだ。
もちろんこの時もお菓子やジュースが出る。いくら食べても叱られないという、5歳の僕には至福のときだった。
 
僕は、あるとき見てしまった。大人の礼拝の光景を。
みんなプリントを手に持ち、牧師さんと教会員がそこに印刷されている文章を交互に読み上げ、座り、立ち上がり、読み、座り、立ち上がりと繰り返していた。自分たちのことを何度も罪びとと言っていた。
僕はその異様な光景が怖くなり二階にもどろうと振り返ると、その日の子供のお世話当番のおばさんが真後ろに立っていたものだから、思わず悲鳴をあげてしまった。叱られるわけでもないのに、ひどく恐ろしかった。
そのおばさんは、たしなめるでもなく僕を二階の部屋へ戻しただけだった。
 
二階にもどると優はおとなしく絵本を読んでいた。僕は優のぶんもお菓子を持って優のとなりに座った。
甘い香りがした。シャンプーとかの香りじゃなくて優の香りだ。僕はこの香りが大好きだった。優の笑顔も、声も、優のすべてが大好きだった。

3.

いつもと同じ、だけど違う日曜日。今日は特別な日曜日だった。
僕はいつもどおりお菓子とジュースを食べあさり、優もいつもと同じくおとなしく絵本を読んでいた。

「神ともにいまあして・・・主イエスは生まれたア・・・いんえくせるしす・・・?」

近づいてみると、優が開いていたのは絵本ではなく讃美歌集だった。クリスマスの讃美歌を歌っていた。
一階からはオルガンの音が聞こえていた。
 
大人の礼拝が終わり、僕ら子供たちはいつものように一階に呼ばれ、いつものように牧師さんから祝福をもらい、最後に大人も子供もまじって立ち上がり、牧師さんが目を閉じて、両手を広げて呪文のような言葉を唱える。
僕は薄目を開けてまわりを見てみると、優以外みんな目を閉じて頭を垂れている。

「神様は天にいるんだったら上を向けばいいのにね」
 隣で優がもっともな事を呟いた。

何となしに振り返ってみると、後ろの壁沿いに父さんが立っていた。目も閉じず、頭も垂れずに。
 
今日はクリスマス礼拝だ。
母さんも張り切って手料理を持参していた。クリスマスクッキー、パウンドケーキ、ほうれん草のキッシュなど。母さんは料理が上手だった。そして、5歳の僕から見ても、とても美人な自慢の母さんだった。

今日はすごいご馳走だ。誰もが陽気になっていた。普段は遠慮がちな優でさえ、お菓子の山に手を伸ばしていた。

「イエスさまはお食事の時間をとても大切にされていてね、罪びとや重い病を患っているような、誰もが近寄らないような人たちともご一緒にお食事されたの。だからわたしたちも皆で仲良く食べるのよ」

誰だか分からないおばさんが、子供たちに向けてそう話していた。
ふ、と気づくととなりに優がいなかった。
僕はお菓子をつまみ食いしながらうろうろと歩き回り、教会の外で父さんと話している優をみつけた。遠くから見ても優はどことなく悲しそうだ。まもなくして、優はひとりで戻って来た。

「パパ、おなか空いてないから車で待ってるって」

父さんに一切れあげるつもりだったのだろう。両手にパウンドケーキを持った優がちょっと寂しそうに言った。僕はその一切れを引き受けた。
 
クリスマス祝会も終わり、片付けが始まった頃、教会員の人たちが洗い物をしているキッチンのほうから、母さんの声がした。

「私にも何かご奉仕させていただけませんか?」
「いいんですよ、奥寺さん。あとは私どもでやりますから」

この教会の教会員の中で一番エラい長老のおばあさんが、お菓子をいくつか袋に詰めて、母さんに手渡しながら言った。

「今日はおいでいただいて本当に嬉しかったです。ぜひまたいらしてくださいね。これ、献くんと優ちゃんにおみやげ」

とても柔和な笑顔だった。が、自分たちの仕事、大事な神さまへのご奉仕を母さんと分け合おうとする人は誰もいなかった。
母さんはお菓子を持たされて追い払われたのだ。言葉もないままお菓子の包を手にその場に立ち尽くしていた母さんが、惨めでかわいそうだった。僕はわざと救いようのないガキを演じた。

「ママ~もう帰ろうよ~ねぇ~早く帰ろ~もう飽きた!つまんないよ~」

母さんは複雑な表情で僕を見ると、僕の手を引いて、みんなに軽く会釈をして教会を出た。母さんの手は汗ばんで、小刻みに震えていた気がする。
僕はあの時、母さんを守れたのだろうか。父さんがそうしないぶんも。
 
教会を出るとサラサラと細やかな雪が降っていた。僕と優には生れて初めての雪のクリスマス・イブだ。嬉しさで寒さなど感じなかった。優が母さんと一緒に美しい声で粉雪舞う中「まきびとひつじを」を歌っている。その姿はまるで雪のひとひらに乗って地上に舞い降りてきた天使たちのように美しかった。

4.

母さんは最近、外でよくトラブルを起こすようになった。いくつもの店で店員や他の客ともめた。
最初は冷静に説教するような口調からはじまり、次第に早口になり、最後はヒステリックに怒鳴り散らして手が付けられなくなる。
そういう時、父さんはいつもいなかった。僕は母さんを守らなくては、と思った。が、まだ幼稚園児の僕にできることはといえば、母さんの手をギュッとにぎって、僕は味方だよ、と伝えることくらいしかなかった。
店員が店員を呼び、数人で固まって困ったような、またか、というような表情で母さんを見ていた。
通りすがりの客たちが、おもしろいイベントでも見るように母さんを見物して行った。

「あれじゃあ子供がかわいそうだ」
と決まり文句があちらこちらから聞こえた。

「またあのイカレ女か」
初老の男がそう言って通り過ぎて行った。
僕はなぜそいつを追いかけて、その鼻をへし折ってやらなかったのか!一本残らず入れ歯が折れてしまうほど殴ってやらなかったのか。なぜ、なぜ、なぜいつも僕は母さんを守れない?幼いとはなんと無力なことか。
父さんはいつも車で待っていた。母さんがこうなるのを知っていたのだろう。
母さんが情緒不安定になってからというもの、父さんが一緒に店に入ることはなかった。優はうれしそうにそんな父さんと一緒に車で留守番しているのだった。
優が母さんのああいう姿を見ないですむことは、僕にとってせめてもの救いだった。
 
日曜日の教会通いは続いた。
毎回何の奉仕の役目ももらえない惨めな母さんの姿を見るのがつらかった。

「まずは洗礼を受けなきゃ、ねぇ」
 
と誰かが言った。
母さんは、その言葉を抱えて今度は牧師さんに詰め寄った。
牧師さんは人を相手にするプロだけあって、母さんとおだやかなまま話を進めていた。
ただ、洗礼を受けるには、聖書の学びなど、いくつかのハードルがあって、早くても1年はかかる、とのことだった。
母さんはそれを聞いてひどく落胆していた。
 
それ以来、母さんはパッタリと教会に行かなくなった。
教会のどんなイベントにも興味を示さなくなった。
その頃には父さんとのいさかいが絶えなくなっていて、やがて父さんは、僕と優に別れも告げずにいつのまにか家を出て行った。僕らが6歳のとき、小学校の入学式が父さんに会った最後だと思う。
 
母さんは仕事をしていなかった。父さんからの仕送りで僕たちは生活していたのだと思う。
母さんは、家の一角に自分でこしらえた祈りの間(と母さんは名付けていた)で長い時間ブツブツ言ってるかと思えば、一日中どこかへ出かけていることもあった。
僕は次第に、母さんがいない、優とふたりだけの時間が平和で心地よく感じるようになっていた。冷蔵庫にはプリンやヨーグルト、ジュースもあったし、菓子パンだっていつも何個か用意されていた。
 
母さんはときどき祈りの間の十字架に頬ずりし、狂ったように泣きじゃくることがあった。父さんの名前を呼んでいたこともあった気がする。
 
お腹が空いた。
このところ、僕と優は腹を空かせているのが日常だった。菓子パンがない。冷蔵庫の中もからっぽだ。父さんはきっと僕たちのことなんて忘れてしまったに違いない。でなければ、たまには会いに来てくれるはずだ。
「献、はんぶんこ」
優が最後の一個の菓子パンを半分にちぎって差し出した。どう見ても半分なんかじゃない。僕に差し出されたほうが大きかった。自分だって腹ペコのくせに。大人はみんな嘘つきだ。優がいれば誰もいらない。二人で生き抜いてやる。6才の僕は幼い心に固くそう誓った。

5.

その日も母さんは美しかった。
「神ともに居まして」を歌いながら、お気に入りのクリアレッドの洗面器を両手で持って歩いていた。
歩くたびに、ちゃぽんちゃんぽんと規則的な音をたてながら、洗面器から水が跳ね、床にこぼれた。
台所のテーブルの上に洗面器を置くと、母さんは僕たちを呼んだ。
優は明らかに怯えていた。僕は優を守ろうと抱きしめた。

「早くしなさい!」
母さんの美しい顔が怒りに歪んだ。最近の母さんはひどく短気だった。僕は優の手を強く握って母さんのほうへ行った。

「ほら、みて」
母さんはうっとりと洗面器の中を眺めて言った。

 「神様が呼んでいらっしゃるわ」
 洗面器には20cmほどの水が入っているだけだった。

母さんは目を僕たちに移して言った。
「わたしね、神様から大切なお役目をいただいたの」

母さんは夢うつつな表情でそう言うと僕の頭を、そして優の頭をなでた。優の身体がこわばるが分かった。僕は優とつないだ手に力をこめた。

「じゃあね、わたし、ご奉仕にいってくるわね」
次の瞬間、母さんは洗面器に顔を沈めた。
しばらくするとゴボゴボとイヤな音がした。
母さんは足をつっぱらせ、あたりを蹴り倒して、空気を求めることが罪であるかのように自分の欲望に抗っていた。
ほどなくして静かなときがやってきた。嘘みたいにあっけなく母さんは逝ってしまった。いや、もしかしたら長い時間が過ぎたのかも知れない。僕と優は心が麻痺していて何もわからなかった。
僕たちは母さんを止めようともせず、ただつっ立ってずっとその光景を見ていたのだ。
 
母さんが完全に動かなくなると、僕らは手をつないだまま、なかばホッとしながら隣の和室に行き、空がよく見える窓際の一番隅っこに並んで座り込んだ。
気まぐれな雲たちが思い思いに浮かんでいる青空を見ながら、優が「主よみもとに」を静かに唄いだした。悲しくも美しい歌声だった。
このときになってはじめて、僕は自分が泣いていることに気づいた。母さんを守れなかった。守ろうともしなかった。父さんと同じだ。誰からも理解されずに孤独だった母さん。父さんにすら見限られて・・・分かっていたのに。僕が守らなきゃいけないってわかっていたのに。母さん、ごめんね。ごめんね。
優が僕を引き寄せ、背中をぽくぽくと叩いてくれた。
「お姉ちゃん」
 優の小さな胸に抱かれて僕はいつまでも泣きつづけた。

6.

「こういう時のコネクションですから。私にやらせてください!」
私は断固とした口調で柏木課長に言った。

献と優が二人一緒に入所できる施設の空きがなく、離ればなれの施設で暮らすことにならざるを得ない状況になりかけていたのだった。

「ああ、そうか、おまえさん、そうだったな」
柏木がちょっと嬉しそうに言った。
「やってみろ」

私の叔母は児童福祉関係のおエライさんで、その夫(義叔父)はやはりその方面に影響力のある議員だった。
献と優をどこか同じ施設に入所させることは、叔母夫妻の力を頼れば不可能なことではないだろう。
 
ほどなくして二人は東北の児童養護施設に入所することが決まった。
東京から近いとは言えないが文句は言えない。献と優を引き離してはいけない、と私の心は強く感じていた。
 
施設へは私が車で送っていくことにした。念のため1泊2日の許可をもらった。
東北へ向かう長い道中、献も優もひとことも口を開かなかった。
バックミラー越しに見る二人は、手をつなぎ、右の窓から外を見ていた。
私も右を見てみた。茨城あたりを走っている時だ。窓越しにはねずみ色をした荒々しい広大な海が見えた。そうか!東京育ちの二人には海が珍しいのだろう。

「ねえ、ちょっと海に行ってみようか」
 
私は次のインターで高速道路を降りて、一般道を走りながら後部座席の二人に聞いた。
献はたずねるように優を見た。ややあって優が献を見てニッコリ頷いた。献も笑った。私は二人の子供らしいその感情の動きが、たまらなく嬉しかった。
 
海岸沿いの空き地に車を停めて、3人で砂浜へ歩いて行った。
波が砂を巻き上げネズミ色の海は荒い音を立てている。
献と優はスニーカーと靴下をそそくさと脱ぐと、献はズボンの裾をたくし上げて、うれしそうな叫び声をあげながら波に向かって走って行った。優もワンピースの裾を持ち上げて笑い声をあげながら献に続いた。

「浅瀬だけよー!」
 聞こえるとも思えないが私は二人に叫んだ。

二人の笑い声が、浜辺の流木に座っている私の耳にまでかすかに聞こえてきた。
思ったより大きな波が来て、二人は腰のあたりまでズブ濡れになった。優がキャッキャッと笑い声をたてた。
やれやれ、と、私も踝(くるぶし)まで海に入ってみることにした。

「こらー、それ以上、沖へ行っちゃダメよ」

まだ春になりきらない季節、快晴で暖かい日とはいえ海水は冷たかったが、献と優は飽きることなく波と戯(たわむ)れていた。
あんな残酷な経験をしたとは思えない、ごく普通の子供たちに見える。心の傷は消えることはないだろうが、今だけでもすべてを忘れて楽しんでくれれば、と私は心からそう願わずにはいられなかった。

7.

石造りの建物のてっぺんには十字架がそびえていた。
変わった服を着たおばあさんと夏美さんが話していた。
僕たちは海でびしょ濡れになったため、車の中で暖房にあたっていた。

「献くん、優ちゃん、おいで。修道院長にご挨拶してね」
 夏美さんが迎えに来た。

「献くん、優ちゃん、こんにちは。はじめまして」
夏美さんが修道院長と呼んだそのおばあさんは、見た目によらず、のびのびした声をしていた。

僕はそびえ立つ十字架を尻目に恐る恐る尋ねた。
 「ここが僕たちの新しいお家?」

優は石造りの重々しい、ひんやりとした建物を見ていた。

「そうよ」
 夏美さんが答えた。

「ふたり一緒でいいの?」
 優はまだ不安なようだ。

修道院長は優の不安を察して言った。
「もちろん、二人一緒よ」

修道院長はそう言ったあと、おやおやというように二人を見て笑った。
「あら、二人ともびしょ濡れじゃないの。ささ、くしゃみが出る前に中に入りましょ。夏美さんもどうぞ」

「いえ、私はここで失礼します。仕事が控えてて。二人をよろしくお願いします」夏美さんは少し硬い口調でそう言うと「またすぐに会いにくるからね」と僕たちの背中をさすった。

修道院長はわかりました、というように頷くと、夏美さんに背を向け、僕らの背に手を当て、促しながら建物の中に入った。
大きな木のドアが閉まるまで、僕らは振り返りながら夏美さんを見ていた。夏美さんも木のドアが重々しい音をたてて閉まるまで、手を振りながら僕らを見送っていた。
 
夏美は高速道路のサービスエリアでパンと飲み物を買い、手っ取り早く空腹を満たすと、運転席のシートを倒して横になった。
あれでよかったのだろうか?
叔母からキリスト教の受け入れ施設だとは聞いていた。二人一緒の絶対条件が叶ったので夏美はOKしたのだが、キリスト教がらみで母親を失っているあの子たちをあそこに委ねたのは間違いではなかったろうか・・・しだいに夏美は深い眠りに落ちていった。
 
建物の中は明るかった。
通路の両側の窓にステンドグラスがはめ込まれていて、そこから差し込む光が万華鏡のような彩りを床に落とていた。
修道院長と同じ変わった衣装を着た女の人が来て、修道院長にお辞儀をしたあと僕たちにもお辞儀した。大人にお辞儀をされて、僕は何となくバツが悪かった。
修道院長が言った。
「こちらはシスター玲(れい)。これから、あなたたちのお世話をしてくれます」

「献くん、優ちゃん、はじめまして。分からないことや困ったことがあったら何でも聞いてくださいね」
シスター玲ははつらつとしてとてもにこやかに言った。ずいぶん若いようだが、大きすぎる頭巾(ずきん)のせいで顔がよく見えなかった。

「この時期に海に入ったんですってね!早く着替えましょ。風邪をひきますよ」
シスター玲は笑いながら言った。

「それでは修道院長、失礼します」
「お願いしますね、シスター玲」
そう言い残して修道院長はその場を立ち去った。

「着替えが終わって少し休んだら、修道院の中を案内しましょうか」
シスター玲が献と優の荷物の中から着替えを探しながら言った。
 
「教会は嫌いだ」
 僕は言った。

「そっか、そうよね。いろいろあったんですものね」
シスター玲は献に着替えを手渡しながら目を上げずに言った。
「でもね、ここには十字架はあっても、修道院と教会はちょっと違うのよ、献くん。おいおいお話するわね」

その間、優はせっせと自分の荷物から着替えを出し、その場ですっ裸になって着替え始めた。シスター玲は一瞬目を丸くしたが、まだ8歳の子供のこと、ましてや姉弟だし問題なかろうと、そのことについて何も咎めなかった。
 
石造りの建物の中はひんやりとして寒かった。
修道院内には大きな薪ストーブが2つあって、そのうちの1つが、おそらくずぶ濡れの僕たちのために火を入れてあった。僕と優は横並びに座って暖をとった。
受け入れ児童が多く、本来は男女別の部屋に空きがないため、1部屋空がある修道女用の個室で僕ら二人は暮らすことになったそうだ。

シスター玲が、他の何人かのシスターと一緒に簡易ベッドを一台運んできた。
僕は年のわりに体が大きいので、小柄な優がその簡易ベッドで寝るように、と言われたが、そんな取り決めは何の意味もないのは百も承知だった。
シスターたちが部屋から出て行って、足音が遠くなると、優はクスクス笑いながら僕のベッドに潜り込んできた。そして僕の胸元に丸まって眠る。いつもみたいに。
優の寝息を聞いているうちに僕も眠くなってきた。
いつのまにか夢を見ていた。
まだ教会に行くようになる前の夢だった。平穏な、普通の家庭だった。父さんもいた
母さんが笑っている。そう、みんな笑っていた。

8.

次の日の朝、施設で暮らす他の子供たちと顔合わせがあった。
男子が二人、女子が二人、どっちか分からない赤ん坊が一人。
赤ん坊を除くみんなは学校があるので、名前だけの自己紹介をして、朝食を食べて学校へ出かけて行った。予定のない僕と優はまたひんやりする部屋に戻った。
 
「献、パパはどこにいるの?」
 優はないしょ話しているかのようにヒソヒソ声で言った。
「どうしてわたしたちを迎えに来てくれないの?」

僕は答えに詰まった。
シスター玲が入って来た。背中には赤ん坊をおぶっていた。
「ミルクを飲んで寝たとこよ。起こさないように協力してくれる?」

「この赤ちゃんも、わたしたちみたいにお父さんもお母さんもいないの?」
優が赤ん坊を覗き込んで言った。

シスター玲は訳ありげに微笑んだだけだった。

「優、僕たちの父さんは・・・」
 僕は正直に答えることにした。
「父さんは再婚して、あっちに子供もいるんだ。だから・・・」

「そう。あたしより大事なお人形ができたのね」
優は抑揚のない声でさらりとそう言った。

シスター玲はぐずり出した背中の赤ん坊をゆすってあやしながら言った。
「今日はいい天気ですよ。暇(いとま)をいただけたのでドライブにいきませんか?とびきりの隠れ家にご案内します」

シスター玲が車を運転するとはピンとこなかったが、この陰気な建物から出られるのなら大歓迎だ。
ギャン泣きをはじめた赤ん坊を背中からおろして、シスター玲は大きく張った乳房をあらわにし、赤ん坊の口にふくませた。
お乳をたっぷり飲んだ赤ん坊は、大きなげっぷをして、満足そうにまた眠った。
シスター玲は赤ん坊を愛おしげに抱きながら言った。
「この子は私の罪なんです。幸せになれないと分かっていて、この子を産んでしまったエゴが私の罪」

罪、罪びと、教会の得意な言葉に僕はうんざりした。
 
老婆が着るようなねずみ色の修道服を脱いで私服になったシスター玲は、やはりとても若かった。中学生に見えなくもないほどだ。ジーンズと薄手のペパーミントグリーンのセーターがショートヘアーとよく似合っていた。
車は国道をしばらく走った後、海に背を向けて山へ向かって走って行った。田舎町の小さな市街地を抜け、やがて家の数より田んぼのほうが多くなった。
 
シスター玲が車を停めたのは天然の空き地のような場所で、車が2台やっと止められるほどのスペースしかなかった。その先は轍が続いていたが、車はとても進めそうにない。

「わたしの祖母の家があるんです」
 
シスター玲が嬉しそうに言った。
人の手が入っていないシスター玲のおばあさんの家は荒れはてていたが、佇まいはそのまま残っていた。

「わたしはたいてい祖母の家に預けられていたんです。この家で一年のほとんどを過ごしたんですよ。ポチの犬小屋もそのまま残ってます」
木の板とトタンでできた犬小屋らしきもののほうをシスター玲が指さした。
 
「テレビも映らないし、水道はない、ガスだってないので灯油を使って料理する。ほんと不便なんですよ。でも大好きだった。ここでの暮らしも祖母のことも」
シスター玲が嬉しそうに、そして懐かしそうに言った。
「飲み水はここからうんと下にある湧き水を汲んでくるんですよ、毎日。お風呂や洗い物は裏の小川の水を引いて使うの」

まだ楽しいことしか知らなかった頃の思い出。シスター玲の目は子供のようにキラキラ輝いていた。
 
三人でホコリまみれの縁側に座った。
風と葉が擦れる音しかしない。
縁側で静けさとそれぞれの思いを味わった後、3人で付近を散歩した。
砂利道に慣れていない僕と優は、何度も転びかけた。
シスター玲は先頭を歩いて付近のあれこれを説明してくれていたが、それは僕らに話しているというよりも、自分自身に思い出話をしているようでもあった
心地よい風が吹いていた。シスター玲は、なぜだろう、どこか儚く、悲しげに見えた。
夕陽で空が朱色に焼け、カラスが鳴きながら巣に帰りだす頃になって、僕ら3人はようやく車に戻った。
シスター玲は小さな手で器用にハンドルを回し、何度も切り返しながら車をUターンさせた。
優は何を思っていたのだろう、後部座席の窓からずっと外を見ていた。
修道院に着くと、どこからか赤ん坊の泣き声がしていた。シスター玲は僕たちに軽く会釈すると、あわてて赤ん坊の泣き声がするほうへ走って行った。

9.

初夏、夏美さんがやってきた。
いろいろと煩雑な手続きが完了したとのことで、僕たちもようやく学校に通うことができるようになった。

「ごめんね。もっと早く来たかったんだけど」

夏美さんが来たことがうれしくて仕方ない優は、ずっと夏美さんの手を握っていた。

「ねえ優ちゃん、献くんと同じクラスよ。よかったね」
と夏美さんは言った後「だって1クラスしかないんだもの」と笑った。

「どしたの?献くん」
僕はずっと何も言わず突っ立っていた。
「献くん」

 夏美さんが中腰になって僕の顔を覗き込み、僕を強く抱きしめた。涙が出た。泣かないようにしていたのに。
 
小学校生活は人と方言に慣れる以外は順風満帆だった。
東京の学校は1クラス50人ほどいるそうだが、ここはたったの12人。ケンカはあってもいじめなどなく、ある意味、みな家族のようなものだった。


春、桜の花びらが舞い散る頃、僕らは中学生になった。
中学校は小学校の隣の校舎で、2つの小学校から生徒が合流したので人数は多少増えたが、クラスメイトの顔ぶれはさほど変わらなかった。
ほかに小学校の頃と変わったと言えば話題だ。
誰が誰を好きだ、誰が誰に告白した、誰と誰が付き合ってるなど、そんなませた話題が多くなった頃、クラスメイトのひとりが言った。
「献と優ってさ、やばくね?」

ひとりが言うと、それに続けと数人が同意の声をあげた。うれしそうな悲鳴をあげる女子生徒もいた。

「中学生にもなって同じ部屋で寝起きしてるんだもんな、もしかしたら・・・」

修道院に新しく引き取られてくる子はしょっちゅういて、男女別宿舎はつねに定員オーバーで、結局僕と優は中学生になっても、あの石造りの修道女用の部屋で、二人で寝起きしているのだった。

「何が悪い」
 
優に恥をかかせようものなら、僕は喧嘩も辞さない覚悟だった。

「おまえ、妬いてるんだろ。優のこと好きなもんだから」
献の挑発の言葉にそいつは顔を赤らめて沈黙した。図星だったようだ。
優はこんな田舎にいても、ちっともサビなかった。ある意味ひとり浮いていた。どこか都会の香りがし、茶色い猫っ毛が愛らしく、目鼻立ちのスッキリとした美しい顔立ちをしていた。母さんにそっくりだ、と僕は思った。
 
中学二年生になると進路指導が始まった。
僕と優の希望はただひとつ、高校は東京に帰りたかった。
 
夏美さんは高速道路を使っても4時間かかるここまで、月に一度、どんなに忙しくとも2か月に一度は会いに来てくれた。
単に仕事として来ているのかもしれないが、会って話していると、嬉しくてそんなことはどうでもよくなってしまうのだった。

「東京の高校かぁ~。そもそも二人一緒に入所できる施設に空きがあるかどうか・・・別々でいいなら話は簡単なんだけどね」

「献と一緒じゃなきゃ絶対ダメ!」
 夏美さんの隣に座っていた優が語気激しく言った。

「優ちゃん、もう中二だよ?ここでのように、いつまでも献くんとずっと一緒っていうのは・・・」

「夏美さん、高校生じゃアパートは借りられませんか?保証人がいても」

「ん~入居者が未成年だけだと難しいかな。で、保証人て?・・・え?私?
・・・防犯とかいろいろな面で難しいと思うけど、知り合いをあたってみるか」

保証人には父になってもらおうと思っていたのに、夏美さんは早とちりしてしまった。でも、それで上手くいけば万々歳だ。僕は心の中で夏美さんにゴメンなさいと手を合わせた。

「東京に帰るつもりなら二人ともしっかり勉強しといてね。東京の高校はこっちよりうんとレベルが高いから」
そう言い残して、夏美さんは修道院長と話をしに行った。
 
「ずるずるとそのままで来てしまったんですけどね、そろそろ優ちゃんも生理が始まってもおかしくない年だし・・・いくら姉弟だと言ってもこのままでは良くないとは思っているんですよ」と修道院長は言った。

「母親があんなことになって、父親には引き取り拒否されて、献くんまで失ったら、っていう恐怖心があるのかも知れないですね、優ちゃんには」夏美が言った。

「献くんはどう思っているのかしら?あの子はどこか掴みどころがなくて」
修道院長が苦笑いした。


夜、優は相変わらず僕のベッドに潜り込んで丸まっていた。
最近、僕はバツが悪かった。優が寝てしまうと、そっと簡易ベッドに移ってひとりで寝ているのだった。
優のことは好きだった。当たり前だ、たったひとりの姉だ。ただ、姉弟として抱く感情とは違うものが芽生えていることに僕は気づいていた。いや、もともと、幼い頃から優に対して恋愛感情を隠し持っていたのだ。


夜8時になると祈りの時が始まる。
シスターたちが礼拝堂に集まって祈りを捧げ、賛美歌を歌う。
その晩、優はいつものように僕の胸もとに丸まりながら、礼拝堂から聞こえてくる讃美歌を一緒に静かに歌っていた。僕でも知っている「いつくしみ深い」だ。
優の猫っ毛が口元にさわり、くすぐったくて僕は身体をずらした。そのときふいに、優の胸に触れてしまった。
優の歌声が止まった。
優は僕の胸元に埋めていた顔をあげて、僕を見た。
あのとき僕は、他にどうしたらよかったのだろう。
僕は優の小さな顔を両手で包み、戸惑いながらくちづけをした。
そして片手で恐る恐る優のパジャマをたくしあげ、小さくてまだ固い乳房を不器用にいじりまわした。
優は少し身をよじらせながら、溜息のような吐息を漏らした。
僕たち姉弟は、その夜、結ばれた。シスターたちの歌う讃美歌に祝福されながら。
中学二年、14歳の夜のことだった。

10.

夏美さんのおかげで、私と献は東京の高校に進学することができた。
修道院を出るにあたり、私には何の感傷もなかった。あそこでの暮らしに愛着などなかったからだ。
シスター玲と障害のある彼女の息子(もう8歳になった)のことが気がかりだったけれど、わたしには何もしてあげることはない。感傷など余計なお世話でしかない。
ただ思いのたけを込めて「元気で」と抱擁して別れた。
 
私たちの東京暮らしには、ひとつ大きな条件があった。
それは、保証人兼保護者として夏美さんが同居すること。つまり、私と献は未成年だから、同居する大人が必要なのだ

「なぜここまでしてくれるの?」
 わたしは夏美さんに聞いてみた。

「初めての子みたいなもんだからよ」
 と、まるでわたしが昔のままの幼い子供みたいに、頭をなでながら夏美さんは言った。
それでも夏美さんは仕事が忙しく、ほとんど家にいなかったので、東京での3人暮らしは事実上、私と献の2人暮らしだった。
 
献は頭が良かったので地区で一番の進学校へ入学した。献の高校生活は、大学進学の費用を貯めるためのバイトと勉強に追われる日々だった。
私は中堅の女子高に入学した。そしてコンビニでバイトをした。少しでも献の援助ができればと思って。
店長のおばさんは、賞味期限の近い廃棄予定の商品をうんと安く譲ってくれるから食費が助かった。私も献も、定期的に入れ替わる、レパートリーが尽きることのないコンビニの食べ物が大好きだったし。

うれしいことがもうひとつあった。それは、バイトの終わりの時間に、やはりバイトを終えた献が迎えに来てくれて一緒に手を繋いで帰れることだ。
献は迎えに来ると、必ず店でエナジードリンクを一本買う。献のレジ担当になった子は、頬を染めるのがありありとわかった。献は姉の私がひいき目を差し引いて見ても、背が高く、けっこうなイケメンだったから。
バイト仲間の女の子たちが献を見る目に、私は最初から気づいていた。献に告白したいと私に相談してきた子もいる。

共学の高校に行っている献の学校での出来事を知ることはできないし、それを考えるとちょっと心配でもあったけど、こうして手を繋いでいるバイトの帰り道、そして夜、身体を重ねているとき、そんな不安はすべて消え去ってしまう。
献は私を抱いたあと、ついばむようなキスを繰り返しながら必ずこう言うのだった。
「優がいてよかった」と。
 
知らない人から見れば、献と私はふつうの恋人同士に見えるだろう。それでいい。世の中にはそう思わせておけば。私たちはもうとっくに、ふつうの姉弟ではないのだけれど。

献は左手で優と手をつなぎ、右手で優がバイト先からもらってきたカツサンドを食べながら歩いていた。
アパートがある路地の角を曲がったとき、献が足を止めた。食べかけのカツサンドをほおばったまま、まっすぐ前を見ていた。夏美さんが立っていた。献がつないでいた手をはなした。何かがわたしたちの邪魔をした。
 
「おかえり。毎日お疲れさま、二人とも。今日は仕事が早く終わったから、三人でご飯に行こうかなと思って」

久しぶりに会う夏美さんはいつもと変わらず元気だった。はつらつとして、きれいだった。今では現場の主任という立場上、私たちと出会った頃よりもうんと忙しいようだ。いろんな形での虐待が増えているのだ、と悔しそうに話していた。
 
一緒にごはん、と言っても、この時間では開いている店はコンビニか居酒屋か牛丼屋くらいしかなかった。夏美さんは牛丼屋を選んだ。

「最近あまり話す機会がないけど、どう?なにも変わったことはない?」
夏美さんがつけあわせの紅ショウガを食べながら言った。

特にこれと言った話題もないまま、3人は世間話をしながら牛丼を食べ、店を出た。
 
家へ帰ると夏美さんは「お先にいい?」と言って一番手でシャワーを浴びた。
衝立の向こうで裸の夏美さんが身体を拭いている。献は気にもしていないようだけど。
夏美さんがいる前じゃ二人でシャワーを浴びるわけにもいかず、まず私が、最後に献がシャワーを浴びた。

「実は今日は話しがあって来たの」夏美さんが言った。

もう深夜の11時を回っているのに。眠い。いつもなら献の胸にまるまって眠る時間なのに、と私は少しイラっとした。夏美さんにイラッとするなんて、そんな自分が意外だしイヤだった。
優の気持ちに気づいたように夏美さんが言った。

「ごめんね、優ちゃん、すぐ済むから」

夏美さんは鋭い。こっちの思っていることがすぐバレてしまう。まるで本当の母親みたいだ。
 
話とは夏美さんの転勤についてだった。

「来年の4月から転勤になるの。勤務先は都内は都内なんだけどちょっと遠くて、通勤が大変だから、ここで一緒には住むのは難しいのよ」

口を開きかけた私たち二人に夏美さんは待って、というように手をあげた。

「ふたりとも来年の4月には18歳よね。つまり成人おめでとう、ってこと!」

献とわたしは顔を見合わせた。成人?つまり、何をするにも保護者が必要なくなる。堂々と二人で暮らせるということだ。

「献くんの大学通学もあるし、もし引っ越すのなら連絡先教えてね。わたしの新しい勤務先はここ」
都内とは言え市部だ。ここから通ったら2時間近くかかるだろう。
「ところでお二人さん、来週あたりに渋谷の青の洞窟見に行かない?あれ行ってみたいのよ」
 
夏美さんは布団にごろ寝して両肘をついた。
胸の谷間が露わになった。
暑がりの夏美さんは冬でも短パンとTシャツで寝る。
私と違って肉付きよく形のいい足、卑猥なほど豊かな胸。優は夏美と違って痩せていた。良く言えばスレンダーだが夏美のような肉体美ではない。
妬けた。不安になって献を見た。献はベッドで横になってスマホをいじっていた。ホッとした。

「これか、青の洞窟って僕も行ったことないな」
 
献はスマホでその情報を調べていたようだ。
 
「優、行ってみようか、クリスマスも近いし、夏美さんの送別会も兼ねて」

「じゃあ、決まりね!」夏美さんが嬉しそうに言った。「送別会か。ほんとにますます会えなくなるわね」
「あとね、二人とも、あれはだめよ」
「あれ、って?」
献がベッドの上で肩肘をついて起き上がった。

「さっきみたいのよ。まるでカップルじゃないの。小学生の姉弟ならともかく、もう大人なのよ?手をつなぐのはやめなさい。ヘンな噂が立ってからじゃ遅いから」
そう言い終えると、夏美さんは布団にもぐり、軽くいびきを立てて眠ってしまった。

「献、どうする?」
「僕が下で寝るよ、優はベッドで」

いつもは子供の頃のように二人でベッドで寝ているが、夏美さんがいてはそうはいかない。
私は献の提案に頷きかけたが、そうすると、半分裸のような恰好で寝ている夏美さんの横で献が寝ることになる。それは絶対いやだった。

「わたしが下で寝る」

献は頷いた。そして献もすぐに寝てしまった。
この部屋で今、起きているのは私だけ。夏美さんと献は寝ている。そんなことにさえ私は嫉妬していた。
昔は夏美さんのことが大好きだった。もちろん今だって大好きだ。ただ、あの頃、夏美さんと私は母と娘だった。だが今は違う。女対女になってしまった。もう2度と、あの頃みたいにはなれないのだろう。

11.

三年生になると献はますます忙しくなり、二人で一緒にいられる時間が少なくなった。
私のバイトの終わり時間に迎えに来られない日も増え、私はひとりで帰ることが増えた。ひとりで夕食を終え、風呂を済ませ、寝る頃になってようやく帰ってくる日もあった。
そんな日々の中、その日はやってきた。
やはり献が迎えに来られない日のことだった。
バイトが終わって夜10時過ぎ。いつものようにひとり帰路についた私は、店を出て数分歩いたあたりで突然腕を強く引っ張られ、路地裏に引きずり込まれた。
肩が抜けるかと思うほどの衝撃だった。
顔面を強く殴られ、生ぬるい鼻血が噴き出した。あまりの痛さに目が開かなかった。
両腕を頭の上できつく縛られ、大きな黒いゴミ袋の山の上に押し倒された。
制服のブラウスのボタンがはじけ飛び、スカートをたくし上げられ、乱暴に腰を持ち上げられた。
また殴られるかと思うと、怖くて抵抗などできなかった。
下着をはぎ取られ、両足を大きく開かれ、汚らわしい固いものが私の中に強引に押し入ってくるのを感じた。
「チッ、やっぱり処女じゃねーのか」
どこか聞き覚えのある声だったが、目は涙と固まった血、まだぬるっと生暖かい血の汚れでいっぱいで相手の顔は見えなかった。
そいつは荒い息遣いをしながらがむしゃらに動いていた。しばらくして息が詰まったような呻くと、満足気な声をあげ、同時に動きが止まった。
と、次の瞬間、突然、男が後ろにのけぞり私から離れた。

「おまえ!何してんだ!なんて卑劣なやつだ!」
 
怒りのこもった低い声が言った。
逃げたのだろうか。さっきの男はいなくなったようだ。
 
「きみ、意識はある?」

突然現れた誰かが私の頭を抱え起こし、顔の血をハンカチで拭いてくれた。
衣服をできるかぎり直してくれ、私のショック状態が治まるまで、その人は私の傍(かたわ)らに立って周囲を警戒していてくれた。

「鼻が折れてなくてよかった」
 
その人は私の顔を覗き込み、鼻のあたりにそっと触れてそう言った。大人の男の人だった。つまり学生じゃなく、スーツを着ている人、という意味だ。

「タクシーを呼ぼうか。家まで送るよ、きみがイヤでなければ」

私は頷くのが精一杯だった。その人に支えられながらアパートのそばでタクシーを降りると、献が外で待っていた。

「優!まだ帰ってないから心配・・・どうした?」
様子がへんなことに気づいた献がかけよってきた。

「通りすがりのものです。ひどい目にあってね、かわいそうに。よかったらちょっと上がらせてもらえませんか?少し話が」
「は、はい」僕は訳も分からぬまま返事をした。
「まずキレイにしてあげたほうがいいな。私はここで待たせてもらうから」
 
玄関を入ったところで、その人は言った。僕はその人を部屋に上げて待っててもらう、というあたりまえのことさえできないほどに、目の前の優を見て気が動転していた。
僕は優と一緒にシャワールームに行き、頭からつま先まで、汚れを洗い流した。
 
「きみはえっと・・・ご主人、でいいのかな?」玄関で立ったままその人は尋ねた。
「弟です」
「弟?そう」
 
一緒にシャワーを浴びていたことに違和感を覚えたに違いない。ちょっと気まずい間があった。
 
「話があると言ったのは」
シャワーを浴びて濡れた髪のまま、パジャマ姿でこちらに背中を向けている優の方をチラッと見てその人は続けた。
「何が起きたか分かってると思うけど、なるべく早くアフターピルを飲んだ方がいい」
 
「アフターピル?」僕には初めて聞く言葉だった。

「こういう事件があったときに、妊娠を防ぐために取られる処置だよ。24間以内に飲めば100%に近い確率で妊娠を防げる。近くに知り合いの産婦人科医がいるから、今からもらってこようと思うんだが」

「あ、あの・・・」僕は口ごもった。

「私は桜木といいます。すぐそこの大学病院で医師をしています」

「いらないじゃん、そんなの」優がこっちに背中を向けたまま言った。
「そんな薬いらない。だって私、まだ生理にならないんだもの」

「え?」桜木は驚いて優に聞いた。
「失礼だけど、きみ、いくつ?」

「18」

「・・・一度診察したほうがいいな。いい医者を紹介するから」

「余計な事しないで!出てッて!帰ってよ!こっちを見ないで!変態!帰って!」

優は完全にパニック状態だった。
抱きしめてやると、背中に爪が刺さるほど強く抱き返してきた。

「桜木さん、すみません。二人にしてもらえますか」
「ああ、そうだね。何かあったら連絡して。力になれるかも知れないから。名刺、ここに置いておくね」

桜木は穏やかな口調でそう言うと帰って行った。
 
僕はあぐらをかいて、その上に優を座らせ、腕と足がしびれて感覚がなくなるほど長い時間、優の茶色い猫っ毛をなでていた。
顔は腫れあがり、身体にはいくつもの擦り傷やアザがある。痛々しくて悔しかった。
ごめん、優。僕のせいだ。もう一人にしない、絶対に。おまえの死の瞬間まで必ず僕が見届けるから。
 
しばらくは学校もバイトも休んで二人で過ごすことにした。
腫れて痛々しい顔で眠っている優を、僕は片肘ついて見つめていた。しばらくして優が目を覚ました。
「もうお昼?ずっと夜ならよかったのに。あ、学校」
「しばらく休む、って電話したよ」
 
と言うと、優は腫れてつっぱった顔でぎこちなく微笑んだ。二人でゆっくりできるのは、いつぶりだろう。僕は優の額にキスして言った。

「優、ちょっと待って、すごくいいものがあるんだ」
部屋の隅に放りっぱなしだったリュックの中をさぐり、それを取って来た。
「ほら」
優の身体を抱き起こし、自分にもたれさせて座らせながら、僕はもう一度それを優に見せた。

「これ、運転免許証?」
「うん、車の免許を取ったんだ。ふたりで、どこにでも行けるように」
僕は今さらだが言い訳をした。
「帰りが遅かったのは教習所に通ってたからなんだ。驚かそうと思って黙ってた。ごめんな」

「どこにでもいけるの?」優の目が心なしかキラキラした。
「どこだって連れてくよ、レンタカーを借りてさ。優、どこ行きたい?」

優は即座に答えた。僕は笑って頷いた。優も笑ってくれた。この笑顔のためなら僕はなんだってする。

12.

優の体調が回復するのを待って、僕らは日帰り旅行に出た。
前日のうちにレンタカーを借りておき、明け方早くに出発した。
優の推しのコンビニでおにぎり、菓子パン、スウイーツ、ドリンクを買って、駐車場で朝食を食べた。僕らは二人ともコンビニめしが大好きだった。何とも安上がりなカップルだ、
 
シスター玲のおばあちゃんちまで行く道は、あそこの駅の先を一箇所右折してから一本道だったはずなので、迷うはずがないと甘く考えていたら、まんまと僕は道を間違えたらしい。
そもそも初心者なのに、節約のためにとナビの古い一番安い軽自動車をレンタルしたのもまずかった。色も古ぼけた白で、かっこよさの欠片もなかったが、それでも優は喜んでくれた。

細い一本道で引き返すこともできずに車はどんどん山奥に吸い込まれていった。木しかない窓の外の景色を優が楽しんでいて、ちっとも不安そうじゃないのが救いだった。このまま進めばどこかの集落に出るだろうという予想も外れた。途中右側に大きなダムがあり、僕はそこに車を寄せて少し休憩した。
まるっきりの山の中では、まるで生きる術を知らないよそ者になったような気がして心細かった。初心者ドライバーの僕は、はじめての山道の運転にかなり消耗していた。

「疲れたよね?甘いもの食べる?」
 
と優がコンビニで買っておいたスイーツを取り出した。
 
「疲れたときは甘いものに限る!」
 
優の笑顔に僕は元気が出る思いだった。
長時間ドライブで凝り固まった身体をほぐすため、気分転換も兼ねて僕らは車から降りて、おもいっきり身体を伸ばした。森が吐き出したばかりの空気が瑞々しくて美味しかった。
 
ダムで車を停めた場所が、唯一Uターンできる広さのある場所だった。
先に進むか、引き返すか迷ったものの、まるで何かに引き寄せられるように僕は細い一本道をさらに前進して車を走らせた。1時間近く走った頃、優が声をあげた。

「献、あれ見て」優がはるか前方を指さして言った。

風に揺れる木々の葉に見え隠れして緑以外の色、赤い何かが見えた。
近づいていくにつれ、それは古い神社の山門に続く小さな橋だとわかった。

「きれいなところね、行ってみようよ、献」

優の言葉に促され、駐車場に車を停め、山間に佇む古い神社に僕らは足を進めた。
お社やいくつもの祠、授与所、社務所が点在していた。
どの木もがご神木のごとく大きく威厳があった。
せっかくだからお参りを、と僕たちは拝殿に向かった。
手水舎の龍の口からは、冷たい湧き水がこんこんと溢れ出ていて、僕らは柄杓で水をすくい、両指先を濡らし、その指先で口元を洗った。

「神社に興味はなかったけど、すてきな場所ね。コンビニよりこういうとこで働きたいな」優が真面目な口調で言った。

拝殿でお賽銭10円玉を賽銭箱に投げ入れ、二人一緒に鈴をじゃらじゃらと鳴らし、木板に書かれているとおり、ぎこちなく二礼二拍一礼した。
左にいる優を見ると、まだ熱心に何か祈っていた。

「ちゃんと願い事した?」突然顔をあげた優が言った。
「10円玉じゃご利益なさそうだよな」
 「神様だもん、お金なんて使い道ないじゃない」
 
優がもっともなことを言うので僕は笑ってしまった。


まだ朝の8時前だというのに、どこからやってくるのか、ひとり、ふたり、と参拝者がやってきた。
慣れた様子で二礼二拍一礼をして、熱心に祈りを捧げては足早に帰って行く。日課なのだろうか。僕は子供の頃の教会での日曜礼拝を苦々しく思い出したが、こんな清々しい神社にだったら毎朝お参りに来るのも悪くないな、と思った。

「おみくじ、まだ開かないよね」優が言った。
「絵馬に願い事も書きたいなぁ」
 と授与所の左奥にある絵馬の掛所を優は指さした。

「まだ8時だしな」
「授与所は9時に開きますけど、まだちょっと早いですね」
ご神木の下の木のベンチに老婆がちょこんと座っていた。
人がいるなどちっとも気づかなかったので、僕らは二人とも飛び上がりそうなほど驚いた。

「東京からいらしたんでしょ?訛りがちっともないものね」老婆が尋ねた。
「弟が道に迷って偶然ここに辿り着きました、ね、献」優が献をつついた。
「弟さん?ご姉弟でいらっしゃるのね」
 
老婆は二人に届かない程度の声で独り言ちた。「これはこれは、呼ばれましたか」
 

 13.

コートの前をギュッと合わせた優を見て、老婆が言った。
「よろしかったらお茶でもいかが?ここは東京とちがって冷えますでしょう。ささ、こちらへどうぞ」
 と老婆はスタスタと社務所へ歩いて行った。
 
社務所内は外から見るより広く、ストーブがついていて暖かかった。
中年の男性がひとりで朝食をとっていて、僕たちに気づくと、あわてて頭をさげて箸を置いた。

「息子です。こんなですが宮司(ぐうじ)を務めさせていただいております」老婆が言った。

「こんなですが、はないでしょう、母さん。それに通りすがりの人を引っ張り込んだりして」

「おみくじをね。1時間も寒い外でお待たせしては気の毒でしょう」

宮司の男性は肩をすくめて食べ終わった食器を片付けはじめた。
老婆が神棚に2つと、テーブルに人数分のお茶を用意した。

「神社はお好きなの?」
「今日、ここに来て好きになりました」僕は本音でそう答えた。
「最近は神社仏閣巡りが趣味だ、という若い方が多いですものね」
「母はクリスチャンでした。僕らは違うけど、な、優」
「え?ご兄妹でいらっしゃる?てっきり仲の良いカップルかと」宮司が言った。
「優が姉、僕が弟。双子です」
「それは奇遇ですね。この神社はあなたがたと同じく姉弟の双子の神様を祀っているんですよ」宮司が誇らしげに言った。
「天(あま)照(てらす)大御神(おおみかみ)と月読(つきよみの)尊(みこと)ですよね。さっきあっちの立て札を読みました。日の神様と夜の神様だって書いてあったわ」
宮司が頷いた。「とても仲の良い姉弟だったと言われています。本来は三貴子といって三つ子なのですけどね。もうひと柱はここではお祀りしておりません」
「どうしてそのもうひとりの神様はお祀りしないんですか?」
「この神社の伝承に関係しているんです。アマテラス様とツキヨミ様は姉弟でありながら夫婦でもあったとここでは伝えられています。そしてもうひとりの三貴子、スサノオ様はふたりの間の子であったと。姉弟でありながら子を持った罪のために、アマテラス様は昼、ツキヨミ様は夜の世界へと引き裂かれた、という伝承がありましてね。
息子のスサノオ様は勇敢ですが荒くれもので、しばしばアマテラス様をひどく嘆き困らせた、というのはどこの神社も共通の認識でして。大いに嘆かれたアマテラス様の岩戸隠れの有名な話はご存じないですか?まあ、そんなわけで、この神社ではアマテラス様とツキヨミ様の2柱(はしら)に安らかに過ごしていただきたいと、おふたりだけをお祀りしているわけなんです」
宮司は苦笑いしながら続けた。
「その変わった伝承を引き継いでいるおかげで、うちには祢宜(ねぎ)のなり手がいなくて。全部わたしがひとりでしなけりゃいけない・・・さてさて、ではおみくじの準備を」
 
宮司が立ち上がりながら言った。
「あ、よろしかったら今ここで引きますか?おみくじ。特別に無料でいいですよ」

僕たちは暖かい社務所内で、無料でおみくじを引いた。
「やった!大吉!」と優。
「小吉」と僕。
「大吉・小吉よりも書いてある内容が大事です。あとで授与所(じゅよじょ)の横にある結び処に結って行ってくださいね。」と宮司が宮司然と言った。
「大吉だから持っていたいなぁ」と優。気持ちは確かに分かる。
「引いたご運を神様に委ねる、という意味で結び処にお返しするんですよ」と老婆。
「宮司さん、神様が罰を受けたって、神様に罰を与えるのって一体誰なんですか?」優が尋ねた。
「古の伝承ですよ、お嬢さん。神話の時代のね。我々には何も知る由がない。何を信じるか信じないかの問題です」
宮司はにっこりそう言うと、おみくじやお守りなどを並べに授与所に向かった。
 
「さあさあ、今日はまた一段と美しい朝ですこと。ご一緒にいかがですか?」
僕らは老婆と一緒に敷地内を散策した。
「こうして森を歩いているとね、ほんのたまに虹柱を見られることがあるんですよ」
「虹柱?」少し先を歩いていた優が振り向いた。
「空から7色に輝く光がスッと射してくるの。私ほどの年寄でさえ2回しか見たことがないんですけどね。それはそれは美しくて不思議な光景なの。アマテラス様とツキヨミ様がご鎮座しにいらした印だ、っていう伝承があってね」
「見られたらいいことありそう!」優がはしゃいだ。
「見られること自体がいいことなのよ」と老婆は嬉しそうに言った。
 
その後しばらく虹柱を期待して僕らは敷地内を歩いた。
空気はひんやりと青く澄んでいて、木と土と水の香りに満ちていていた。

帰り際に、いらないという僕を押し切って、優はおそろいの縁結びのお守りを一対買った。
コロンとした丸い形に小さな鈴がついている。僕のが紫色、優のがピンク。
「大事に持っててね、献」
優から紫色のおまもりを受け取り、恋人同士のように振舞う僕らを、宮司さんたちは不思議がりもせず見守っていた。
宮司さんと老婆にお礼と別れを告げて、僕らは神社を後にした。またきっと会えますように、と心から願いながら。
 
なんのことはない。本来の目的地、シスター玲のおばあちゃんちは、神社から車を10分ほど走らせたところにあった。どうやら峠を反対側から走ってきたようだ。
日本の原風景のような田舎。
今、僕たちは、あの日3人で来たおばあちゃんちの縁側にすわっていた。
風が葉を擦る音と虫の声、鳥のさえずり以外、何の音もしない。
おばあちゃんちの縁側に座って、僕たちは長いくちづけをした。
14歳のあの夜、修道院で初めて触れたときと同じく、優のくちびるは柔らかく、温かくしっとりとしていた。
くちびるをゆっくりと離し、優の髪を撫でながら、僕はポケットに忍ばせておいた指輪を見せた。

「ずっとそばに。結婚はできなくても」
 
しばらくして優は「はい」と答えてくれた。涙の粒がひとつ、ふたつ、優の頬を、そして僕の頬を転がり落ちた。
 
「お金・・・大丈夫だったの?」優は遠慮がちに聞いた。
 
「大学進学は奨学金をもらえたから、バイト代のほとんどを自動車の免許を取るお金と、この指輪につぎ込んだ」
そう言いながら僕は指輪を優の左手の薬指にはめ、そこに口づけをした。
「献のは?おそろいじゃないの?」
「自分のを買う余力はさすがになかったよ。そのうち買うさ」
僕は苦笑いした。優もつられて笑った。

「ありがとう献、愛してる」
 「優、いつまでも愛してる」
 
姉弟で愛し合った神様がいるのなら、僕たちがそうしたところで何が悪いものか。
空は橙を絞った汁を流したような夕焼けで、山の稜線は影絵のようにくっきりと美しく映えていた。東京では騒音でしかないカラスの鳴き声までもが美しくあたりに響いていた。

14.

すでに暗くなった帰り道、気を抜いたら崖下へ転げ落ちてしまいそうな林道をやっとのことで抜け、市街地へ向かうアスファルトの片側一車線の道路に出た。
優は助手席で、指輪を眺めてはキスを繰り返していた。
市街地に入ってまもなく僕は思い切って口に出した。

「優、寄って行こうか?」
「そうね、ちょっとだけ」
 
修道院の前に車を停めて降り、重々しいドアノッカーで大きな木の扉を2度、3度叩きドアをそっと開けた。シスターたちは礼拝堂で讃美歌を捧げていた。どこかいつもと違っていた。
 
「レクイエムだわ」優が言った。
「レクイエム?」
「鎮魂歌。亡くなった誰かを偲んで捧げる歌よ」

祈りの時が終わるのを待って、僕たちは近くのシスターに声をかけた。シスター玲の姿が見当たらない。嫌な予感が走った。

「シスター玲は去年天に召されました。ちょうど今日は彼女の命日ですよ」
 
そのシスターは涙を拭きながら重々しく言った。
僕たちが言葉を失っていると、ちょうどそこに修道院長がやってきた。

「まあ、懐かしい献くん、優ちゃん。よく来てくれたわね。嬉しいわ」

祈りのときが終わり、促されて修道院長の部屋に入った。客用に立てかけてある簡易椅子を開き、僕らは座った。
修道院長は話し始めた。

「無理心中だったの。車の中でね、練炭を焚いたのよ。眠るような安らかな死に顔だったわ。幸一くんを抱いて」

「この子を産んだことが私の罪だ、って言ってました。そのせいで?」と優。

言葉を選ぶように、しばらく間をおいてから修道院長は続けた。
「幸一くんはね、シスター玲と彼女の実の父親との近親相姦で生まれた子なの。シスター玲は、幼い頃から父親から性的虐待を受けていて、児童相談所に保護されてここに来た時にはもう幸一くんを身籠っていてね。不義の子と分かっていても、自分のお腹で生きている命をどうしても守りたい、産みたい、って。それが母性なのね」

優は思った。自分をレイプした奴の子供をもし身籠っていたら、私もそう思ったのだろうか。

修道院長は続けた。
「幸一くんはみんなに祝福されながらここで生まれたのよ。ただ・・・気づいているかも知れないけれど、血が近すぎると・・・幸一くんには障害があってね。成長するにしたがって障害の重さが顕著になってきて。それでもシスター玲は幸一くんを愛し、慈しんで育てていたのに・・・」修道院長は十字を切った。「まさかこんなことになるなんて」修道院長の目に涙がにじんだ。
 
もういないんだ。あのはつらつとした小柄なシスター玲はもういないんだ、この世のどこを探しても存在しないんだと僕はぼんやりと思った。
神様、もし本当にあなたがいるのなら、どうかシスター玲と幸一くんに幸せな来世をお与えください。僕は心の中で初めてキリスト教の神に祈った。
 
「近くへ来たらまた寄ってちょうだいね。嬉しかったわ。気を付けて」

修道院長に見送られながら、僕らは修道院を後にした。
車を走らせている間、僕も優も口をきかなかった。そして、二人ともあの日のことを、シスター玲とドライブした日のことを思い出していた。修道服から解放されて、年相応のはつらつとしたジーンズ姿のシスター玲が思い出された。
 
サービスエリアに休憩で入り、車を停めたときに優が言った。
 
「こっちに来ることになったのもシスター玲が呼んでいたのかも」
 
思いがほとばしるように優の口から溢れ出た。
 「献、私はこんなに幸せでいいのかな。いつも献がいて。どこにいようと何があろうと献がいてくれて。私ばっかりこんなふうに幸せでいいのかな」
 
優はうつむいて泣きだした。僕は優を抱きしめながら背中をさすった。
 
「僕らが幸せでいることは悪いことじゃないだろう、優」
 
十字架のもとで人が死ぬのはもうたくさんだ。人を生まれながらに罪人だと決めつける神などうんざりだ。母さんも死んだ。シスター玲も死んだ。あれほど熱心に心を込めて十字架に祈り、仕えていたのに二人とも死んだ。自ら命を絶って。

15.

重苦しい帰途を終え、レンタカーを返して家へ向かう途中、駅前で見覚えのある人と出くわした。
相手もこっちが声をかける前に僕たちに気づいたようだ。

「やあ、こんな遅くに。その後どうだい?気にはなっていたんだけど、行くとかえって迷惑になりかねないな、と思ってね」
桜木さんは気づかわしげに優のほうを見ながら言った。
「顔の傷もだいぶよくなったね」

優はうつむいていた。恩人とも言える桜木のことを露骨に避けていた。

「献くん、ちょっと」桜木さんと僕は数歩場所をずらした。
「このあいだ話していた、優ちゃんにまだ生理がこないって話。病院で診てもらわないとダメだぞ。大きな病気が潜んでいる可能性がなくもない。きみなら説得できるだろ。医者は僕が紹介するから、な」
 
それだけ言うと、優に向かって「じゃ、また」と軽く手を振り、僕にもう一度頷いて改札に入って行った。
 
長いドライブだった。いろんなことがあった一日だった。思いがけないいいことも、悲しいことも。
僕は優と一緒にシャワーを浴びながら思わず大きなため息をついた。早く眠ってしまいたい、眠れるものなら。
 
「疲れたよね、献。シャワー終わったらマッサージしてあげるね」
 
優が洗い終えた長い髪を束ねながら言った。
身体の傷もアザもだいぶきれいになってきた。傷が消えていくように心の傷も癒えてくれればいいのだが。
ふと僕は優に尋ねた。
「優、なんで桜木さんのことあんな露骨に嫌うのさ、恩人じゃないか」
 
優の身体が固まった。僕を凝視した。不信感の詰まった眼差しで。
 
「なんでそんなこと聞くの?献」
 
ガチャーン。
浴室の窓ガラスが割れた。優が拳でなぐり割ったのだ。
血しぶきが舞った。優の左手から血が噴水のように溢れ出ている
 
「なぜあいつを避けるのか教えてあげようか、献。あいつだけがね、あの場面を見てるのよ!いくら忘れたくたって、あいつがちょこちょこ現れると全部台無し。繰り返しレイプされてるのと同じよ!どうしてそんなことくらい分かってくれないの?」
 
優の手首から吹き出している血がシャワーで渦を巻いて排水溝に吸い込まれていく。

「犯人と私以外にあいつだけが、あれを知っているのよ。あの目で見ているのよ!」
 
僕は優の左手をタオルで包み、救急車を呼んだ。
 
「なんでそんなこともわからないの?わかってくれないの?」
 
優は繰り返しそう叫んでいた。
 
 
運ばれたのは皮肉なことに桜木さんが勤める大学病院だった。当直の医師が血のしたたるタオルをはがすときにチラッと見えた傷の深さに気分が悪くなった。
優はぐったりとして一言もしゃべらない。石像にでもなったかのように動かない。応急処置がとられた。
優、わからなくてごめん。僕の浅はかなひとことで楽しかった1日が台無しになってしまった。神社へ行ったんだ。おばあちゃんちでプロポーズをした。修道院に寄った。桜木さんに偶然会った。誰も悪くない。すべて僕のせいだ。
 
高熱が出た優は、それからいく晩か入院することになった。
僕といるよりそのほうが安心だ。僕と優は少し離れたほうがいいのかも知れない、と初めてそう思った。
看護師に氷枕をあてられながら、うなされている優を置いて僕は病室を出ようとした。
「献」
弱々しい優の声が僕を引き留めた。
僕はベッドに引き返し、優のケガをしていないほうの手を握って言った。

「ひどい熱だよ、優。ここにいれば安心だから。着替えの用意も必要だし、いったん帰るね。朝一番で荷物を持って来る」

優が手に力を入れて僕の手を握り返した。
「献、嫌いになってない?私のこと」
「なるもんか」優のおでこに僕はやさしくキスした。
「ゆっくり休んで」

僕はそう言って今度こそ病室をでた。扉を閉め、閉めた扉にもたれかかったまましばらく天井を見ていた。
 
タクシーで家に帰ると、アパートの下の道端には血のついたガラスの破片が散らばっていた。通行人がいなくてよかった。いたら大ケガをさせるところだった。
部屋に明かりがついている。
めずらしく夏美さんが帰っていた。
「なにがあったの?」
僕は包み隠さずに話した。
「あなたたちがそういう関係なのは知ってたわ。優ちゃんが心配で、引き離すわけにもいかないと思っていたけど・・・ちょっと、大丈夫?献くん」
僕は崩れるように布団の上にたおれこんだ。
「おバカさんね。ひとりで頑張りすぎよ。かわいそうに」
夏美さんはまるで、出会った頃の8歳の僕にするように、髪を指で梳きながら言った。
「このまま寝ちゃいなさい。一緒にいるから」
僕は夏美さんの手を握って止め、太ももに頭をのせた。
「・・・献くん?」
夏美さんの腕を取って起き上がり、優にはしたことがないような乱暴で激しいくちづけをした。夏美さんは戸惑いを隠さなかったが抵抗もしなかった。シャツの上からさんざん胸をまさぐったあと、乱暴にそれを脱がせ、あわらになった豊満な両の乳房に顔をうずめ愛撫した。スカートを脱がせ、肉付きのいい太ももに何度も何度もくちづけをした。小さく女の声を漏らす夏美さんの肉体をさんざん食い尽くしたあと、僕自身も苦しみに似た快感の末に果てた。
 
「ここに来るのは今日が最後なのよ、このせいじゃなくてね」
しばらくして脱ぎ散らかされた服を着ながら夏美さんが言った。
「この名刺、知りあいの医者なんだけど、連絡してみて」

「桜木?」

「大学時代の彼氏なの。今じゃ評判のいい精神科医よ」

「精神科?」

「優ちゃんを診てもらって」身支度を整え終えた夏美が言った。
「あなたたちの関係をとやかく言うつもりは毛頭ないわ。しょせん世の中は男と女なんだもの。私たちのことも同じ。ただ、優ちゃんが心配なの。外のガラス、集めてまとめておくから明日にでも処分しなさいね。そして、今すぐ寝なさい」

「寝に帰ってきたんじゃないの?どこいくの?」
僕は置いてきぼりにされる子供のように食い下がった。

「そのつもりだったけど、もう、そうはいかないでしょ、おバカさん」

「もう会えないの?引っ越し先は?夏美さん!」
夏美は何もなかったかのように微笑みながら手を振って部屋を出て行った。

16.

翌朝、優の病室附近に行くと、看護師のひとりが僕に走り寄って来た。

「あなた、なんで連絡先を書いて行かなかったの。奥さん、オペが必要なの。詳しくはドクターから聞いて」

大きな病院というのは前後左右同じに見えて、まるで迷路だ。僕は焦った。
優の病室に入ると医師の姿はなく、優はひとりで寝息をたてて眠っていた。
起こさないように額にそっと触れてみた。熱はだいぶ下がったようだ。僕は優に軽くキスをして病室を出た。

あっちの看護師に聞き、こっちの看護師に聞き、受付の事務員さんに聞き、ようやく優の担当医にたどり着いた。
手術室に向かう道中の医師の話では、ガラスをたたき割ったときの破片が薬指つけ根の奥までザックリ刺さり、傷が予想より深いとのこと。奥に入りこんだ菌が悪さをして、そこから壊死しかけているので、薬指はつけ根から切断しなくてはならない、とのことだった。壊死が広がると、最悪、手首から先をまるごと切断になる可能性ある、と。

左薬指で思い出した。指輪は!僕たちの結婚指輪は?いつのまにか声に出して叫んでいたようだ。
「指輪はどこですか!?」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!指輪なんて」年配の看護師がたしなめた。
「そんなこと、じゃないんだ!あれをどこへやった?!」
「献くん、大丈夫、ここに預かってるから」桜木さんだった。
「朝一でオペだっていうから何となく気になって寄ってみたんだ。まさか優ちゃんだとは・・・指輪の心配はいいから手術のサインを急いだほうがいい」
僕は手術の同意書にサインをして病室にもどった。
優は相変わらず眠っていた。死んでいるようで恐ろしかった。僕は思わず優の胸が上下に動いているかを確認した。
看護師が点滴をつけかえにきた。オペの準備が始まった。
「こんなに意識が戻らないんですか?ただのケガで」
「ただのケガで命を落とす人も大勢いるのよ」看護師が言った。

優はオペ室に運ばれていった。
待合ソファーで桜木さんと二人になった。
僕は緊張と沈黙に耐えかねて、さして興味もないことをしゃべり出した。
「桜木さん、夏美さんと恋人同士だったんですね」
「ああ、そうだった頃もあるな。今はいい友人だけどね」
「夏美さんから、桜木さんに一度優を診てもらえって言われました」
「うん、夏美から一通りは聞いてるよ。僕で良ければいくらでも・・・ただ、医者と患者、とくに精神科は医者と患者の信頼関係がとても重要でね。もちろん出来る限りのことはさせてもらうけど。問題はほら、優ちゃん、僕のこと避けているだろ。当然だけどね」桜木は苦笑いした。
「なんで当然なんですか?優が桜木さんを避けるのが」
 「僕はあの場に居合わせているんだよ、献くん。優ちゃんにすれば僕に会うのは古傷をえぐられる思いなんじゃないかな」
 
優が僕に涙ながらに訴えたこと、ちっとも察してやれなかったことを、桜木さんはわかってるんだ、と僕は自責の念にかられた。桜木さんは大人だ。

「実は今回のケガの原因もそのことなんです。なんで桜木さんを避けるのか聞いたら突然泣きながらガラスをたたき割って・・・僕が何も察してやれなかったから」
「僕が原因なの?」桜木は愕然とした。「まいったな、これは友達になるところから始めないとだな」桜木は真顔で言った。
「ところで、4月からいよいよ大学生だね。おめでとう!医学部は世間で言うような華やかな世界じゃないから退屈しないといいけど」
 
そんな世間話をしているうちに手術室のランプが消えた。
桜木さんは僕の肩をポンポンと叩くと、仕事に戻って行った。たわいもない話をして僕の気を紛らわしてくれていたのだろう。
 
手術をした医師は「薬指は手根骨から切除しました。あとは問題ありません」とだけ言って去って行った。
看護師にベッドを押されて麻酔で寝たままの優が出てきた。
病室に戻ると僕は、指輪を自分の手と優の右手の間に挟み込むように握りながら目をつぶった。
眠ってしまいたかったが、頭の中はいろいろなことが猛スピードで回転し、何かがが消えては現れ、現れては消えていった。
椅子に座った母さんが幼い優の頭を太ももにのせて、茶色い髪を繰り返し繰り返しなでていた。優と母さんは本当によく似ている。

「優しい子ね、優。ママのところに来てくれるのね」
 
優は不安げにもじもじしている。
「ママね、ひとりで寂しいの。こっちでもお友達がいなくて」
「神様に呼ばれたんでたんでしょ?神様には会えたの?」
「そうよねぇ。そうだったわよねぇ。おかしいわね。いないのよ、神様」
母さんは色のない空を見あげ、優の頭に置かれてた手は止まっていた。
「でもそんなこともういいわ。優がこうして来てくれたんだもの」
 
母さんが屈みこんで優にキスしようとした瞬間、優が立ち上がって後ずさりした。
「イヤっ!献は?献はどこ?献がいないとイヤ」
 「献はまだ来られないのよ」母さんは冷淡な無表情になった。
 「献!どこ!助けて!」

優が呼んでる。なんだこれは、身体が動かない。身体だけが眠っているのか?
母さんが幼い優の手を引いた。ダメだ。優を渡すわけにはいかない。

「イヤっ!やめてママ!痛いっ!献!たすけて!」

ガタン!
座っていた椅子を蹴り倒して僕は目を覚ました。
汗だくの手はしっかり優の無事なほうの手を握ったままだった。この手が僕たちを繋いでいてくれたのだろう。優は目を覚ましていた。顔は涙と汗でびしょ濡れだった。

「献、ママが・・・」
「うん、わかってる。もう大丈夫だから」

同じ夢を見ていたのか。いや、あれは本当に夢だったのだろうか。
僕はしばらく優を抱きしめたままでいた。絶対にどこへもやるもんか。
持ってきた着替え一式を取り出して、汗だくの服を着替えさせた。
途中、看護師が入って来たが、優の様子に変わりはないかだけ確認すると何も言わずに出て行った。
「これなに?」
左手のぐるぐる巻きの包帯を見て優が言った。
「手術をしたんだ。ガラスを割ったときに菌が入って、大変なことになって、それで・・・それでね、優」
僕は結婚指輪を見せた。
「これからは、こっちの手につけよう」
そう言って、右手の薬指に指輪をはめた。優は何が起きたか理解したようだった。
「右手の薬指は婚約指輪よ。結婚はボツね。これが神様の罰なのかな」
「罰をくだして人間を苦しめるようなのは神様じゃないよ」
そう言って、僕はまだ熱っぽい優の身体を再びそっと抱きしめた。
 
一週間後、優は退院した。顔色も良くなり、前の事件で負った顔の傷もキレイになった。入院中、何度かお見舞いに来てくれた桜木さんが、退院のときも見送りに来てくれた。

「優ちゃん、それじゃね」

優は相変わらずうつむいたままだった。桜木さんはそんな優を見て苦笑いしていた。
「献くん、例の話、よろしくね」
優が入院中、僕は何度か桜木さんと話をしていた。夏美さんが言っていたとおり、優は一度桜木さんの精神科で診てもらった方がいいのではないか、という件で。
桜木さんは「そんなに硬く考えなくていいよ。簡単な会話をしながら状態を探っていくだけだから。手探りだから時間はかかるけどね」と言い、勤務時間中は毎日予約でいっぱいだから、と休日に優のための時間を作ってくれた。
白衣を着ている桜木さんは本当に医者だ。ふだんとは別人のように見える。なのに、他の医者のように近寄りがたく感じさせないのは人柄のせいだろう。
 
僕たちはタクシーで家に帰り、部屋に入って僕は唐突に思った。
「ここ、引っ越そうか」
 優は黙って頷いた。
「いやな思い出は全部ここに置いて行こう」

17.

今年は桜の開花が早い。
大学の入学式には満開を過ぎて桜はだいぶ散っていて、ちらほら葉桜が見える木もあった。
両親揃って入学式に来ている家庭も多い。あちこちで記念撮影をしている。
来週から通うことになる大学を出て、必要なテキスト類を本屋で買い、家路につく。家までは電車を乗り継いで1時間ほど。さほど遠くもない。ただもう引っ越すことに決めていた。あのアパートにはつらい思い出が詰まりすぎている。
僕は駅へ向かう途中の不動産屋の前で足を止めた。
 
「優!ただいま!」
僕は不動産屋で手に入れた、部屋の間取り図のチラシを数枚持ち帰って来た。
畳にあぐらをかいて座った僕に、優がすり寄って来た。
薬のせいか、優は眠そうに目を擦ってチラシを見た。
「フローリングの部屋に住みたいって言ってたろ?」
「ステキそうな部屋ね!ここより広いし」
 「こっちのも見て。どう?」
 「これもいい!」
 「じゃあこれは?」
 「もーぜんぶいいっ!」優は僕に抱きついた。
「明日見に行こうか?部屋の内見」
「明日はね、桜木先生と約束があるの」
「桜木さんと?」
「なんとか療法だって言ってた。自然の中でリフレッシュするんだって」
「どこかに出かけるの?何も聞いてないけど」
「都合がつけば献くんも一緒にどうぞ、って言ってた」
あれほど桜木さんを嫌っていた優が、と僕は不思議に思った。
「ちゃんと治したいの。治るのかわからないけど」
優の病名はパニック性双極性障害だった。
遺伝の要素もある病気だと桜木さんは言っていた。母さんのことが思い出される。
欝と躁が交互に発症する病気で、優はその振れ幅が極端に大きいらしい。
なんとか療法は桜木さんに任せることにした。ただでさえ勉強時間が足りないのだから。

次の週、僕らは新しい部屋を見に行き、その翌週には引っ越しが決まった。
僕の大学にも近くなった。乗り換えなしの片道30分だ。駅前は活気がある。新生活を始めるには、うってつけの環境だ。いいことしかない、そんな気がした。
1LDKのしゃれた白いタイル貼りの外装のアパート、というか小さめのマンションで、優が憧れていたフローリング造りだ。せまいがロフトもあるので、僕はそこで勉強に集中できる。
駅から遠く、歩くと30分くらいかかるので、家賃はそれほど高くない。駅から遠いのは自転車を使えば何の問題もないことだ。
問題はひとつ、桜木さんの病院まで遠くなったということだったが、よければ桜木さんの自宅マンションの一室で診察してもいい、とのことだった。
 
「診察と言っても、他の科みたいに医療器具が必要なわけじゃないからね」
 
そして桜木さんのマンションというのが、僕らの新居から4駅のところだったのだ。
新生活のすべての条件はこれで落ち着いた。
 
僕は大学の近くの塾で、一流高校を目指す中学生相手の塾講師のアルバイトが決まった。収入も諸々の条件も悪くなかった。
優は昼間だけのパートをすると言って、駅前にある大きなスーパーの総菜作りの仕事を決めてきた。
「料理覚えて献に美味しいものたくさん食べさせてあげるね」と優は微笑んだ。左手の薬指が欠けていることが不採用の理由にならなくてよかった。
 
桜木さんの診察の前日、電話があった。
 「生理がこない件ね、専門医の時間枠が取れたから、明日病院に来てもらえるかな。受付で言えば分かるようにしておくから」
 
検査はすぐに終わった。結果は後日ということだった。医師はポーカーフェースで表情からは何も読み取れなかった。
その後、桜木さんの診察があり、僕は外のソファーに座って待っていたのだが、時折優の笑い声が聞こえることに驚いた。
あれほど避けていた桜木さんと診察室で二人きりになり、その上、笑い声まで・・・そこまで桜木さんに心を開いたということか。
喜ぶべきことだとは分かっていたが、僕は嫉妬しているのか心中穏やかではなかった。
すべての診察が終わり、僕らは優のバイト先のコンビニにお世話になった挨拶をしにいった。
桜木さんも帰宅ついでに3人で行くことになった。
コンビニに入ると、バイトの同僚の子2人が優を見て悲鳴をあげ、優を囲んでワイワイ話し出した。そこに店長のおばさんが加わった。

「優ちゃんはとても働き者だし、美人だし看板娘だったのよ。ほんとに残念だわ」と心底名残惜しそうにおばさんが言った。
店の奥からオーナーのおじさんが出てきた。僕は初対面だ。
「あんた、優ちゃんが引っ越したから辞めちゃうのよ。で、挨拶に来てくれたの」
店長のおばさんが言うと、オーナーのおじさんは優のほうに歩いていき、なんとなく耳障りな声で言った。

「やっぱり辞めちまうのか」

優の全身がこわばったのが確かに見えた。
やっぱり・・・やっぱり・・・やっぱり・・・優はゆっくりとオーナーを振り返った。オーナーは優の隣まで来ると、なれなれしく優の肩に手をのせた。
「なあ優ちゃん、おじさんは本当に残念だよ」
次の瞬間、優は右手の拳でオーナーの顔面を力の限りぶん殴った。おじさんの顔が一瞬でまっ赤になった。
「な、なんだ、この・・・」
オーナーは鼻からしたたる自分の血にたじろぎながら何か言っていた。
優はもう一発殴ろうとしたところを後ろから桜木に抱き抑えられた。
「優ちゃん、わかった。わかったから、もうやめよう」
優はガタガタ震えていた。強く拳を握ったのだろう、左手の包帯にも血が滲んでいた。
「お前か?!優、こいつだったのか?!」僕は怒りで吐き気を覚えた。
僕はオーナーの胸元を掴み上げた。小柄なオーナーは、背の高い僕につまみあげられたネズミのようだった。身体が床から浮き、息ができずに足をバタつかせている。
「献くん!ダメだ!やめなさい!!」桜木の力強い腕が僕の両腕を下した。
「なんだ、このガキども、ふざけやがって、警察呼ぶぞ?さっさと行っちまえ」
血まみれのオーナーはゴホゴホとむせ返りながら、捨て台詞をはいて店の奥に姿を消した。店長のおばさんやバイトの子たちはア然としてその様子を眺めていた。
 
 「やっぱり、って言った時の声が同じだった。あの時も・・・やっぱり処女じゃなかったのか、って」
家に帰り、汚らわしい血で汚れた拳を洗い流しながら優が言った。
「訴えよう、な、優!」
「やめたほうがいい」
「なんでですか桜木さん!優があんな目にあって、やっと犯人が分かったのに」
「献くん、この手の犯罪はね、裁判に持ち込んでも、被害者の女性がツラい思いをすることが多いんだよ。事件当時の描写を細かく思い出させられたり、場合によっては合意の上だったんじゃないかと逆に責められたり」
「そんなバカな・・・じゃあ、じゃあ優は、このまま泣き寝入りするしか?」
桜木は答えなかった。
「優、おまえはどうしたい?このままでいいのか?!」
優は沈黙していた。僕は釈然としない気持ちで何度も床を叩いた。

18.

新生活の時間は飛ぶように過ぎた。
11月10日、朝早く、道が混む前に僕は優を連れ出した。
高速道路のサービスエリアで何か食べようと考えていたが、まだ時間が早すぎて、開いていたのはコンビニだけだった。
そこそこ寒い外のベンチで澄んだ空気の中、コンビニ飯の朝食をすませ、車に戻る時に「展望台」という看板を見つけた。
僕は優の手を引いて駐車場の端にある展望台に連れて行った。
その展望台からは富士山が見えた。
優が感嘆の声をあげた。
いつだったか優が富士山に行きたいと言っていたのを思い出し、行先も何も教えないまま連れ出してきたのだ。
時間が早かったので富士山はまだ黒々とした影だったが、それでもその姿、形、大きさは圧巻だった。
小学生の頃の僕らにとって、富士山は生活の一部だった。通学路にある歩道橋から遠くに見える富士山を、登下校時に毎日見て暮らしていたからだ。
朝は青空にくっきりと包まれて、下校時は夕焼けを浴びて赤く染まっていた富士山を今でもハッキリ憶えている。
富士山まで歩いていけそうな気がして、ある日の僕らは、ありったけのお菓子をリュックに詰め込んで、富士山を目指したことがあった。
小学一年生のすること、たいした遠くまで歩けるはずがない。すぐそこに見えているのに、歩けど歩けど富士山はいっこうに近づかなかった。
 
「献、行こう。寒いっ」
優の声で我に返った僕は、懐かしい富士山の記憶を優と分かち合った。
サービスエリアを出て高速道路にもどり、左手に、時には正面に黒々とした富士山を見ながら走った。
高速道路を降りる頃にはだいぶ明るくなって、澄みきった青空を予感させた。
姿をあらわにした富士山は、とてつもなく大きかった。頂上から三分の一あたりまで雪を冠り、子供が絵に描くような、理想的な富士山の姿がそこにあった。
僕らは富士山がよく見えるコンビニに入り、駐車場で軽く休憩した。それから、後で不自由しないように食べ物、飲み物からスイーツまで大量に食料を調達し、一部を駐車場で富士山を眺めながら食べた。
日本一のパワースポットである富士山を真正面に眺めながら。
 
混み始めた片側一車線の一般道路から有料道路に入り、葉の枯れた木々に囲まれながら走り富士山三合目の広い駐車場まで来た。
眼下に樹海が広がり、富士五湖だろうか湖が見え、正面には山々が連なり、遠く八ヶ岳まで見渡せるすばらしい眺めの場所だった。
「ここで星が見たいな」優が冷たい空気にむせながら言った。
「見ようか!夜中までここにいよう!朝までいたっていい。ほら、自販機もトイレもあるし。そうしよう、優。」
「うんっ、献、大好き」優が飛びついてきて僕にキスした。
他の観光客が微笑ましく僕らを見ていた。
五合目まで車を走らせた。途中、道端のあちこちにまだ雪が残っていた。
五合目は車が乗り入れられる最終地点だ。
平日だからか、駐車場にも車はまばらだった。
僕らはおみやげ屋さんに向かった。
店の中をひと通り見て、何か記念になるものがないか探した。
優は、卵型のペーパーウェイトが気に入ったようだ。透明ガラスの中に水色の富士山が入っている。手のひらサイズなのにずっしりと重いそれは、ひとつひとつ微妙に富士山の柄の出方が違うので、二人でさんざん吟味した挙句、結局最初に手に取った一個を買うことにして笑った。使い道は今のところ思い当たらないが、いい記念の品になるだろう。
売店奥には小さな神社があった。僕らはまたお賽銭10円でお参りし、近くのこじんまりしたおみやげ屋さん兼レストランで、温かい蕎麦を食べた。
ストーブがついていて、店内は暖かく快適だった。店員も他に客もいない、まるで世界に僕と優二人だけしかいなくなったような、暖かで静かな心地よいひとときだった。
店を出ると、黒々とした富士山の山肌が目の前に迫っているのを見て優が言った。
「近すぎると何だか分からないね」
確かにそうだ。あの富士山がゴツゴツした崖の斜面にしか見えない。
外国人のツアー客がけたたましく通り過ぎていく。入れ違いでラッキーだった。
僕らは喧噪をさけるべく車に戻った。手が冷たかった。優の手を包んで温めようと手を重ねた。二人でいれば寒くない。あの時もそうだった。雪が降り続くあの寒い日、食べるものもなく二人で毛布に包まっていた。僕らはもうあの頃の非力な幼子じゃない。優と一緒なら何でも乗り越えられる。
車に戻った僕はシートを倒し、頭をもたれかけて眉間をつまんだ。
「献、大丈夫?少し寝ようか」
僕らは車を駐車場の一番端に移動し、シートを倒して仮眠を取った。
 
いやな夢を見た。知ってる人、知らない人、過去に出会った人、これから出会うのかも知れない人、いろいろな人が現れては何かを呟いて消えていった。最後に出てきたのは優だった。
「献、桜木先生がね・・・」
僕はその先を聞きたくなかった。と同時に目が覚めた。
優は僕に顔を向けて横向きで眠っていた。小さな唇にそっとくちづけると、優は小さなうなり声をたてて向きをかえた。献に背を向けた優の目はうっすらと開いていた。
夕方、僕たちは夕陽に照らされながら、今日の宿、三合目駐車場までゆっくり下って行った。
三合目駐車場には、僕らの他にはもう誰もいなかった。
だいぶ寒くなってきた。素晴らしい眺めは、陽が落ちるとともに黒々とした別世界に変わっていった。

 
19.

夜、真っ暗闇な世界。
遠くの自動販売機の明かりがやけに眩しい。空一面の、星、星、星があるばかり。これが東京と同じ夜空だとは思えない。
「献、オリオン座があんなにハッキリ大きく見える!」
口から白い息をもくもくと吐きながら優が言った。
「献!北斗七星だよ!あんなに大きい!星座って本当に空にあるのね」
僕は優を背中から抱きかかえながら星空を見ていた。
優の茶色い猫っ毛に顔をうずめた。いい香りだ。そしてまた星を見上げた。バイトも大学も人生の義務の何もかもが消えてしまえばいいと願った。その願いが何かに届くように願った。
30分もそうしていただろうか。すっかり身体が冷えてしまった僕らは、自動販売機まで走って行き、温かい缶コーヒーを買い、車に乗り込んでエアコンを全開にした。
優は、今まで生きてきて一番美しいものを見た、と喜びながら、僕の知らない讃美歌らしきメロディーを口ずさんでいた。
ふ、とした時に、無意識で優は讃美歌を口ずさむ。僕は知っている。優が今でも小さな讃美歌集を大切に持っていることを。
僕はそれがとてもイヤだった。だが、優の歌う讃美歌は、優しくて慈愛に満ちていて喜びの涙を誘うようなとても美しいものだった。僕はその歌声を愛していた。だから讃美歌集のことは見て見ぬふりをしていた。
 
ずっと聞けずにいたことを僕は切り出した。
「優、検査結果、どうなってんだろう」
「もう出たよ、結果」
「え?いつ?」
「桜木先生の診察があった日」
「なんで何も言わないんだよ」
「いうほどの事でもないの。命にかかわらないし」
「そういう問題じゃないだろ!で、どうだったの、結果」
「ロスタンスキー症候群だって」
「え?どんな病気なんだ?それ」
「生まれつき子宮がないの、私。だから生理もこないし、妊娠もしないし、赤ちゃんも産めない。ただそれだけよ。死んだりはしないわ」
僕は優になんて言葉をかけたらいいのか分からなかった。
「よかったじゃない、これで。だって、献の赤ちゃんを妊娠しちゃったら大変でしょ?シスター玲みたいになっちゃう」そしてしばらく間を置いて「でも・・・間違いでも献を父親にしてあげられないのね、私」と言った。
僕は優を強く抱きしめた。
「いいじゃないか、二人なら」
そう、優がいてくれればそれでいい。僕は心からそう思った。
 
満天の星空は僕ら二人だけのもの。
11月の富士山の夜更けは地上の真冬の寒さで、肌にキンと染み入る冷たい空気が心地いい。
静けさを味わうためにエンジンを切った。
あたりは何の音もしない。真の静寂だ。
来る日も来る日も変わらず繰り返される星たちの無言の演舞。今日は僕ら二人だけが観客だった。
「優、外に出るぞ!」
もう一度、この星空を寒さとともに味わおうと僕らは外に出た。
僕はまた優を背中から抱きしめ空を向かせた。
僕らはずっとずっと変わらない。あの星たちの日常みたいに一見何の変化もない毎日だとしても、優がいればどんな日だって特別なんだ。
 
僕らは富士山3合目で車中泊して夜明かしした。
陽が昇り始め、辺りがうっすらと明るくなってきた。
熟睡している優を車に残して、僕は外に出た。寒いっ!が、すばらしい景色が見えた。雲海だ。昨日眼下に見えた景色は雲海にすっぽり包まれていた。と、みるみるうちに白い靄(もや)は登って来て、僕はすっぽり包まれてしまった。
勘と手探りで何とか車まで辿りついた。車の外は今や真っ白だった。霧よりもっと濃い咽(むせ)かえりそうな白だ。車に乗り込んだ僕は優をやさしく揺さぶった。
 
「優、優、起きて、みてごらん」
 
優は眠い目をしばしばさせながら外を見て驚きの声をあげた。朝日が反射して雲海の白が黄金に輝いていた。
 
「これじゃしばらく身動きとれないな」
 
「じゃ、ゆっくりしよ」
 
優がいたずらっぽく言いながら僕の腕を引っ張った。
僕は優に誘われるまま小さな唇に口づけをし、優の上におおいかぶさった。あまりの寒さに服を脱ぐのもそこそこに僕らはひとつになった。
雲海に包まれて世の中から目隠しされた僕らの車は、ゆるやかに規則的に軋んでいた。
どこからか動物の鳴き声がした。有料道路の料金所のおじさんが、たまに鹿が出るから気を付けて、と言っていたが、幸か不幸か、行きも帰りも遭遇することはなかった。

 
 20.

駅前の商店街にはクリスマスソングとイルミネーションが溢れ、一層華やかさを増していた。
僕は大学の単位習得に追われ、優は優で、クリスマスから年末年始はスーパーのかき入れ時だと言って、毎日仕事に追われていた。
 
クリスマス・イブの夜、優はスーパーの売れ残り品のチキンやテリーヌ、そのほかクリスマスらしい総菜をいくつも買ってきた。
僕は大学の帰り道にある百均のディスプレイに飾ってあったのと同じ、プラスチック製のブルー(優は青が好きだ)の小さなクリスマスツリーを買って帰った。
その斜め向かいにはケーキ屋があり、店頭で売り出していた残り少ないホールケーキを奮発して買った。
家に帰ると優はクリスマス・ディナーの準備をしていた。僕はプラスチック製の小さな青いクリスマスツリーを組み立て、テーブルの中央に置いた。
 
ツリーをテーブルの中央に、その横にクリスマスケーキを置き、レンジで温めたチキンやら何やらが処せましと並んだ。
「豪華だな」
「処分品ばかりだけど」
僕らは隣り合って座り、食べ始めた。優が口ずさむ讃美歌が途切れ途切れきこえた。
「明日、クリスマスはイエス様がお生まれになった日ね。今日はその前夜祭よ。豪華にしなきゃね」優が言った
「すべて後付けの話だよ。2千年以上も前に生まれた人の誕生日が分かるわけないじゃないか」僕は優の言葉に不愉快さを隠そうともしなかった。
「わかってるわよ、そんなこと。私は讃美歌が好きなの。イエス様生誕には美しい讃美歌がたくさんあるわ。クリスマスに街で流れるクリスマスソングはみんなそうよ」
 
優はチキンに切り込みを入れながら、僕の露骨な不機嫌さに抗議した。
 
「それに献、音楽も絵も、イエスさまへの信仰から生まれたものって、どれも素晴らしく美しいと思わない?」
優の言葉に僕は目眩がした。ただでさえ疲れているのに。
優の言葉は容赦なく続いた。
 
「伝承は後付けの嘘っぱちだとしても、それを信じる心の美しさは本物なのよ」
「うんちくはもうやめよう優、クリスマスごっこはおしまいだ」
僕は小さな青いツリーを乱暴にゴミ箱に投げ捨て、ケーキを丸ごと流しに放り込んだ。
「献!何するのよっ!」優が慌てて型の崩れたケーキを流しから回収した。
「優、母さんがどうなったか忘れてしまったわけじゃないよな?信仰とやらのどこがそんなに美しいんだ?」
優は泣きだした。
「見てたわ!全部覚えてる!!母さんが笑いながら洗面器に顔を浸すのも、バタバタと全身が痙攣していたのも」
何をしているんだ、僕は。優を泣かせるなんて。僕は自己嫌悪で内臓がよじれるようだったが、一度火の着いた怒りはどうにも収まらなかった。
優は言った。
 「神様なんてどうでもいい。ただ、それを信じて死んでいったママのために、ママが信じたもののために歌いたいの。ママのために」
優が涙を流しながら、目を閉じて祈るように手を合わせた。
「やめろ!いつからクリスチャンになったんだ!」
僕は優の手を横からひっぱたいた。優が倒れた。そして倒れたまま僕を見ていた。その目に宿っていたのは紛れもなく不信感と憐れみだった。
真冬の寒空の中、優はコートも着ないで家から飛び出して行った。
 
どこを探しても優の姿はなかった。真夜中過ぎになっても帰ってこなかった。明け方近くになって、桜木さんから連絡があった。優が来て今は寝ている、と。すぐに迎えに行くと言ったが、
 
「泣きじゃくるばかりで話ができていないんだ。少し時間をくれないか?」
 
桜木さんはそう言って僕を止めた。
今すぐ優に許しを請うて楽になりたいという思いと、暴力をふるってしまった僕を優は許してくれないだろう、という強い恐怖心が僕の心の内でせめぎ合っていた。
「落ち着くまで僕のところで預かるよ。心配しなくていい。単位、落とすなよ」
と言って桜木さんは電話を切った。こんな状況では勉強などとても手につかない。
 
僕は母さんと教会に行っていた幼い頃から、キリスト教の教えに馴染めなかった。
樽の水がワインに変わるわけがないし、死人が名前を呼ばれて墓から起き出てくるわけがないし、湖の上を歩ける人間などいるわけがないと思っていた。だが、そう口に出さないくらいの分別はあった。ただ、それを奇跡だと崇める人たちのことが不思議でならなかった。
もちろん今でも同じ考えだ。
自分に叛いた者を罰するために雷を落として町ごと焼いてしまうとか、全ての生き物を1つがいずつ残して、他の全ての命を大洪水に吞み込ませて殺してしまうような神様のことが怖くて仕方がなかった。
そしてその神はとうとう、あんなに一生懸命だった母さんも、シスター玲も殺してしまったんだ。

21.

優に会えたのは、一週間後の大晦日の晩だった。
桜木さんに付き添われて帰って来た。

「心配かけたね。このまま年を越すのはお互いのためによくないと思って」

優はいつも通り、スーパーのおつとめ品を買い込んできて、それを上手にお皿に盛りつけて、おせち風に作り上げた。カップ麺の年越しそばもあった。
「優、すまなかった。これ」
家を出ていく時に優が投げ捨てた結婚指輪だ。家中探して下駄箱の隙間からようやく見つけ出したのだ。
見つかったときは心底ホッとした。これを失ってしまったら、本当に優を失うことになるような気がして恐れていたからだ。
優は僕の手のひらの上の指輪を見て言った。
 
「まず食べましょ。おなかすいちゃった」
 
誰もしゃべらなかった。
遠くのお寺で除夜の鐘が鳴り始めた。

「献、桜木先生がね、私を引き取ってくれるって」
 
優の声がとても遠く聞こえた。聞き間違いだと思った。
 
「献くん、しばらくの間、優ちゃんを僕のところで預からせてもらいたい、きみの症状が落ち着くまで」
 
桜木さんの言っている意味がわからない。僕の症状?
 
「きみも優ちゃんと同じ、パニック性双極性障害なんだ」
 
 
何のコントなんだ?と僕は思った。優が桜木さんと同居?いつから医者と患者の一線を越えたんだ?あの診察室で笑い声をたてていた頃か?優はもう桜木さんに抱かれたのか?

「きみたちがそれぞれの道を歩き出すいい潮時だ。きみが抵抗なければ僕が主治医になろう。他の医師を紹介することもできる。」
 
「何を勝手なことを言いたい放題・・・!」献は飲みかけのビールが入ったグラスを叩き割った。
 
「きみは感情が高ぶると極端な行動に出る。優ちゃんのバイト先のオーナーも危うく絞め殺すところだった。今まで様子を見てきたが、今、優ちゃんをここに置いておくことはできない」
 
「優を・・・優をどうするつもりだ!俺の優を」
 
「優ちゃんはきみのお守りじゃない」桜木さんはピシャリと言った。「献くん、きみは治療を続けながら大学卒業を目指そう。全力で応援する。きみにならできるはずだ」

僕の頭の中はたくさんの疑問符と聞きたいことがありすぎて言葉に詰まったが、口から出てきた言葉はこれだけだった。
「わかりました」優がそう望むのなら、それがいいにきまってる。

 
うちにはテレビがない。貧しいからではなく、僕も優もテレビを見ないからだ。ただ、年末のこの時期は、風物詩の年末年始番組が見たくなる。
何度目かの除夜の鐘の音が聞こえる。優と一緒に聞く最後の除夜の鐘なのか。
「年が明けちゃう前に年越しそばを食べないとね」
優は立ち上がりポットにお湯を沸かしに行った。僕も手伝いにキッチンへ行った。

「ちゃんと食べてた?」優が僕を振り返って言った。
「コンビニ飯を食べてたよ。それで充分。ひとりになっても大丈夫だよ」
優は僕の胸に頭をコツンコツンとさせながら泣いていた。
 「これから我が道を行く強い女の子がどうして泣くんだよ」
「献と一緒にお正月をやれてよかった、って」
「僕だって」
 
僕は優を抱きしめようとしてやめた。優はもう僕の優ではない気がしたから。
年越しそばを食べ、僕らは近所にある歩いて20分くらいのところの神社に初詣に向かった。この神社はどの神を祀っているのだろう、などとぼんやり思った。
優。もう僕とはつながない手。こんな人混みじゃはぐれてしまうよ。優。僕はひどくかじかんだ手でお参りをした。

優のおみくじは大吉だった。優はよく大吉を引く。
「結び処に結って神様に委ねていくって言ってたよね、あの神社の宮司さん」
僕も同じことを思い出していた。
 
「またいつか行けますように」
 優は小さな声でそう願いをこめながら大吉のおみくじを結び処に結った。
 
凍えながら家に着くと時計は午前2時を回っていた。
 
「じゃあ僕はこれで失礼するよ。優ちゃん、用意ができたら迎えに来る」
「もう電車ないですよ、泊ってってください」
「タクシーがあるから大丈夫。治療の計画は追って」
 
と言って桜木さんは帰って行った。
一日仕事をしてきた優はさぞ疲れたのだろう。冷えた身体のままお風呂にも入らずベッドに潜り込んで寝てしまった。
起こさないように僕はそっと隣に入った。寝ているとばかり思っていた優が言った。
「おやすみ、献」
「優、おやすみ」
僕らは幼いころに戻ったように、純粋に互いの体温で暖を取るためだけに抱き合って寝た。
 
雪の季節になった。
恐怖と悲しみが通り過ぎていくのをじっと待つ季節。
ふと、初めて会った日の夏美さんのことを思い出した。
元気だろうか。関係性は変わってしまったけれど、母親のような人だった。今でもそう思っている。それから何という名前だったろう。あのおじさん。夏美さんが課長と呼んでいたっけ。暖かい人だったな。あんな人がお父さんだったらよかった、とか思ったりしたな。そんなことを考えながら僕は眠りについた。

22.

いくつかの春が巡り、僕は桜木さんのもとで治療を続けながら無事大学を卒業した。桜木さんと同じ精神科医師を志して医学部に進学したものの、僕は医者になるのをやめた。精神病を抱えた精神科医など甚だおかしい。
優に手をあげた、あのことではっきり分った。
自分のエゴを優先して暴力を振るうような人間には誰も救えない。
僕は大学院進学もやめ、業界最大手の某IT企業に就職した。
今までのバイトが馬鹿らしくなるほど初任給からバカ高い給料がもらえたが、仕事は退屈で、やりがいや、人の役に立っているという喜び、達成感を得られるものではなかった。が、仕事とはそういうものかも知れない。金と引き換えに自分の時間つまりは命を切り売りしているのだから。そう思えるくらいには、僕はくだらない大人になっていた。
 
「優ちゃん、今日は学会のパーティーがあって遅くなるから先に寝ててね」
「はい」
「ごめん、いつも帰りが遅くて。ひとりぼっちにさせてすまない」
 
桜木さんはクローゼットから今日のスーツ用にネクタイを選んでいた。
 
「次の休暇はどこかへ出かけよう。長期休暇にしてハワイもいいな、人の多いオアフは避けて静かなマウイあたりかな」
 
私は桜木さんと暮らし始めてからパートを辞めた。お金の心配がなくなったからだ。そしてすぐに時間を持て余すようになった。
献との日々が懐かしかった。忙しくバイトをしながら、時間に追われて家事をし、いつもお金がなくて、おつとめ品ばかり食べて・・・そんな日々が懐かしかった。
 
玄関のカギを開ける音がする。深夜0時を回っていた。
桜木は優が用意しておいた小鉢をつまみながら缶ビールを飲み干し、シャワーを浴び、寝室に向かった。
寝室のドアを開け、そこにある光景に桜木は立ち尽くした。強く魅了されたのだ。
そこには全裸の優が立っていた。カーテンの隙間からほのかに漏れる外の街燈の明かりに照らされ、うすぼんやりと立ちすくむ優の儚い姿は、幽霊のような妖精のような、この世のものとは思えない美しい存在だった。
 
「桜木先生、抱いてください」
 
桜木は優に触れたい激しい欲望に駆られた。だが医師としての回路が、何が彼女にこんなことをさせているのだろう?と冷静に分析していた。
 
「抱いてください。そうじゃないと、いつまでたっても私はペットです。ここに置いてもらっている恩返しがしたいんです」
 
桜木はゆっくりと手元にあった薄手の毛布で優を包みこみ、やさしく言った。
 「無理しないでいいんだよ、優ちゃん」
 「先生はキスさえしてくれない」
 「優ちゃん」
 「私に触ってください、先生」
 「優ちゃん、ごめん。僕にはきみは抱けない。でも断じてペットなんかじゃない。心からきみを愛しているから」

23.

優が僕のもとからいなくなり、僕の生活は彩りを欠いた。大学卒業という目標を終えてからはなおさらだった。
何のために食べるのか、何のために寝るのか、何のために仕事へ行って金を稼ぐのか、なぜあんなに簡単に、優を桜木さんの手に委ねてしまったのか。
いくら自分を責めても責め足りない。優への思慕は募るばかりだった。
僕らは双子だ。産まれた時から、いや、生まれる前から、母さんの胎内で受精した瞬間から僕らはずっと一緒だった。なのに一切抗うこともなく、あっさりと優を手放してしまった。

玄関のドアを激しく叩く音がぼんやりと聞こえた。
僕は立ち上がってドアの鍵を開けようとした。が、立ち上がるのがひどく困難だった。雲の上にいるようなフワフワした感覚で、ふらついて上手く歩けない。あちこちの障害物につまずきながら僕はようやく玄関にたどり着いた。
ドアを開けると職場の上司(のような気がする)と警察官が立っていた。
警察官は僕を頭のてっぺんからつま先まで僕を一瞥すると、上司と二言三言言葉を交わして帰って行った。
「奥寺!おまえ、何やってんだ!何日も無断欠勤して!携帯には出ない!それにしてもひどいニオイだぞ、この部屋」
その上司(なんという名前だったか・・・思い出せない)は遠慮なく僕の部屋に入ると、全部の窓を全開にして換気をした。
空気が入れ替わったおかけで少しスッキリした頭であらためて部屋の中を見わたしてみると、アルコールの瓶や缶で足の踏み場もなく、ついでに嘔吐物までまき散らしている惨状が目に入った。
「まあ、生きててよかった」
上司は僕の背を叩き、嘔吐物まみれの部屋を見まわして言った。
「ここじゃ何だから、外に出るか」
 
僕は上司に連れられて近くのファミレスへ行った。
席に座り、クリームソーダをオーダーしたあと上司が言った。
「何があった?なんて野暮なことは聞かないが・・・おまえ、どうなんだ?この先、仕事続ける気あるのか?てんてこまいだったんだよ、おまえが留守の1週間。また同じことされると困るんでな、そこのところをきっちり聞いておかないと。退屈なんじゃないか?医学部出のエリートがやるような仕事じゃないからな、実際・・・」
「辞めます」僕はあの仕事に何の未練もなかった。
「そうか」期待通り!上司の声音はそんな感じだった。
「無断欠勤は有給消化にしとくから安心しろ。その他諸々は総務から連絡がくるから。医学部卒なら就職先なんざ引く手あまただろ?まあがんばれや」
千円札をテーブルに置いて上司は帰って行った。
僕はひとりクリームソーダをすすりながら、ハッキリしない頭で考えていた。
「誰だったかな?あの人」
優がいなくなって2年半が経とうとしていた。
 
僕は今、あの日クリームソーダを飲んだファミレスでバイトをしている。
ここでの時間はゆるゆると溶けるように進み、稼ぎは少ないが、お客さんとのやり取りの中で、やりがいを感じることもたまにはある仕事だった。
同僚は気さくなパート主婦のおばちゃんたちで、医学部卒の僕をからかって、先生だのドクターだのと呼ぶ。そんな悪意のない、くだらないコミュニケーションもまた、僕の心のしこりをゆっくりとほぐしてくれた。
毎日は何の喜びも痛みもなく過ぎていく。
昨日と今日の違いなどなにもない。
止まることのない時間はただただ流れていき、僕はその帯の上に乗った、たくさんの人たちのうちのひとりにすぎないと知った。
何も特別なことはない。僕はただの僕にすぎない。

24.

冬も近いある日、桜木さんから電話があり、バイトが終わってから近くの公園で会う約束をした。
公園に行くと、桜木さんはすでにベンチに座っていた。
「優はどうしてますか?」
「元気そうだね。最後の診察から2か月経つけど順調かな?」
 
桜木さんは一呼吸おいて言った。
 
「そろそろ優ちゃんをお返したいと思う」
「優を?」
「もう大丈夫だよ、献くん」
「優は、優はそれで幸せなんでしょうか?桜木さん、言ってましたよね、それぞれの道を行く潮時だって」
桜木さんはしばらく黙っていたが、意を決したように口を開いた。
 「優ちゃんを愛している。生涯をかけて守るべき対象だとも思う。だが、僕は優ちゃんにとって人生を共に生きる男じゃないんだ。きみの影をチラつかせながら抱いてくれと涙する優ちゃんと、これ以上一緒に暮らし続けることはできない」
 「母さんに捨てられ、大好きだった父さんに捨てられ、今度は一番信頼しているあなたにまで納得できないまま捨てられたら、優がかわいそうすぎる」
「きみの言う通りだね。優ちゃんにはきちんと話して納得してもらうよ。約束する」
桜木さんは空を仰いで大きくため息をついて言った。
「献くん、優ちゃんが心から愛していて一番信頼している男は、いつでもきみなんだ。今だから言うけど、優ちゃんが僕のところにきた本当の理由はね、大学の勉強を含め、きみの人生の邪魔をしたくなかったからなんだ。きみがこれから歩むであろうエリート人生に、自分がいては邪魔だと思ったんだね」
桜木が立ち上がってコートの埃を叩きながら言った。
「優ちゃんには指一本触れていない。本当だ」
 
それから半月ほど経ったある日、バイトを終えてアパートに帰ると優がいた。
男所帯になった汚い部屋に咲いた一輪の美しすぎる花のように場違いな優が。
僕は言葉がでなかった。優に駆け寄り、抱きしめ、茶色い猫っ毛に顔をうずめて優の香りを嗅ぎ、夢じゃないか確かめ、懐かしい唇にくちづけをした。
今まで凍っていた涙が溶けて流れだした。
「帰ってきちゃった」優の懐かしい声が部屋中に響いた。
「うん、おかえり、優」
僕は肌身離さず持ち歩いていた優の結婚指輪をネックレスのチェーンから外し、右手の薬指にはめてやった。
「ただいま、献」優が笑った。
 
その晩、桜木さんから電話があった。
「献くん、優ちゃんをよろしく頼みます」
「主治医はどうなりますか?」
「優ちゃんももう大丈夫だと思う。気づいてると思うけど、最近の診察はもっぱら世間話だったんだ。優ちゃんの笑い声が部屋の外までもれて聞こえてたんじゃないかい?まあ、もし心配なら後任の医師に申し送りするよ。大学の後輩でね、いい医者だから心配ない」
 「後任て?」
 「田舎に帰ることにしたんだよ。静かな環境で暮らしたくなってね。それに親父も年だから、そろそろ病院を継ぐ準備をしないといけないんだ」
「実家、病院なんですか」
 「ああ、いろいろ面倒なんだよ。あと、夏美がきみたちに会いたがってる」
「夏美さんと連絡取り合っていたんですか?」
「ああ、たまにね。今じゃシングルマザーで頑張ってるよ」
「シングルマザー?夏美さんが?」献の声が大きくなったので、優が振り向いた。
「じき5歳になるの男の子がいるよ、会ったことはないが」
「ほら、近々、青の洞窟のイルミネーションがはじまるじゃないか、そこで再会なんてどうかな、って夏美が言ってるんだよ。前回は果たせなかった約束なんだって?尊(みこと)くんも喜ぶだろうな」
「尊くん、ていうんですか、夏美さんの息子さんの名前」
「ああ、尊敬の尊、尊重の尊、いい名前じゃないか」
桜木さんは自分の子供の自慢をするように話していた。
「桜木さん、どうして夏美さんと別れたんですか?」僕は唐突にきいた。
「振られたんだよ。双子の相手で忙しくて恋愛ごっこなんかしてらんない、ってね」
桜木さんが真面目な声に戻って言った。
「がんばれよ」
これが桜木さんとの最後の会話だった。

25.

その日は快晴で、空は雲一つない青だった。
夕方、僕と優は渋谷へ向かった。イルミネーションの入り口だ。
クリスマスまではまだ日のある土曜日のせいか、思ったより人の出は少なかった。
日が暮れるにつれ、イルミネーションの青が神々しく輝きだした。
気がつくと辺り一面が青の世界。
通路の両側で光る青ははるか先まで、また振り返ってもはるか先まで続いていて、真っ黒になった空の下、存在する色は絶え間ない青だけになっていた。
夏美さんとの待ち合わせ場所は、この青の終着地にある売店だ。
僕と優は待ち合わせの時間に遅れないように、かつ優の喜びそうなイベントを逃さないように、だいぶ早めに青の洞窟の中間地点ほどにある鐘に到着した。
カップルで鳴らすと幸せになれるそうだ。
僕らも含め、順番待ちの列に並ぶカップルは、寒空の中、みんな満面の笑みだ。
一組、また一組と鐘を突いて高らかな音を鳴らし、後続のカップルが記念撮影をするという、心暖まる即席ルールができていた。
僕らの順番がきた。
鐘をついて写真をとってもらった。
「これで安泰」
優が満足気に笑って言った。
 
もう青以外の色を忘れてしまった。
切れ目ない青の世界に溺れながら、僕らは夏美さんとの待ち合わせ場所へ向かった。
遠くからでもすぐに分かった。
両親を失った僕らを母親のように守ってくれた人。
かつて、たった一度だけ愛し合った女性。

「夏美さん」

僕の呼びかけに、子供の口元を拭いてやっていた夏美さんが一瞬固まった。そしてゆっくり振り向いた。
「献くん、優ちゃん」


青の世界にいるせいか夏美さんの顔は青白く、そしてちょっと痩せたかな、と思った。
母子家庭で苦労しているのだろうか。
 「二人とも大きくなったね、当たり前か」と夏美さんは陽気に笑った。
「ママ」
夏美さんの背後から男の子が夏美さんのコートの裾を引っ張りながら顔を覗かせた。
「尊、こっちのお兄ちゃんが献くん、お姉ちゃんが優ちゃんよ。ママの古いお友達。お二人さん、この子は尊。私の息子。もうすぐ5才になるの。よろしくね」
「こんばんは。よろしくね」尊が言った。

「夏美さん・・・」献は血の気が引いていくのを感じた。
「なにこれ。なんなのこれ。なんなのこの子の顔・・・」
 優は驚きなのか怒りなのか、それ以上言葉が続かなかった。
「献、なにしてたの?私に隠れてこのおばさんとやってたのね?卑怯者!裏切り者!」
 優は僕にめちゃくちゃに殴りかかってきた。顔といい胸といい泣きわめきながら。優の気持ちはよくわかる。やっと平穏な生活になったと思った矢先にまたこれだ。僕のことなど好きにしていい。ただ、夏美さんと尊だけは守らなくては。
尊が怯えて夏美さんの背後に隠れた。
怒りの波が引いた優が地面にへたり込んだ。

「今日は来てくれてありがとう。実は二人に聞いて欲しいことがあるの」と夏美さんが言った。
「聞きたくない!」優が叫んだ。
「優ちゃん、おねがい」
「あんたのおねがいなんて聞かない!」
「聞いてもらわないと困るのよ!」
夏美さんの勢いに優が黙った。子供の頃の構図だ。
「今日はね、二人に話しておきたいこととお願いしたい事があるの」
僕は優を立ち上がらせて支えた。
「二人とも、この子の顔をひと目見てわかった通り、この子の父親は献くんよ。この子をみごもったって分ったとき、私は児相の仕事を辞めて、あなたたちの前から姿を消したの。でもね、あなたたちのことずっと気にしてた。元気にやってるだろうか、大丈夫だろうか、って」
夏美さんは僕と優を交互に懐かしむように見ながら言った。
「遠くでこの子を産んで働きながら育ててたわ。でもね、そろそろ限界なの」
「子供を放り出すの?私たちの両親みたいに?」
 優が語気激しく言った。
夏美さんは首を横に振って言った。
「がんなのよ。乳がん。余命1年ですって」

「余命1年?」僕の声は震えた。

「ドジよね、仕事が忙しくて検査を先伸ばしにしてたら手遅れになっちゃった」
こんな場面でまで明るく振舞うのはやめてほしい、と僕は思った。
「献くん、あなたの息子の養育をバトンタッチしてほしいの。優ちゃん、あなたには献くんの息子のママになってほしいのよ」
夏美さんは優のコートについた汚れを叩いて落としてやっていた、昔みたいに。
「突然現れてこんなの驚くよね。でももう時間がないのよ。ごめんね」
尊はまだ夏美さんの背後に隠れている。
「尊、献くんはあなたの本当のパパなのよ」
尊は涙で濡れた頬を袖で拭きながら僕を直視した。気の強い表情だ。大丈夫だろう。
「尊、おいで」
そう言ったのは優だった。そして躊躇いがちに近づいてきた尊を抱きしめた。
「献の子供。私には産むことのできない献の子供なのね。献、私たちこれで本物の家族になれる」
「優、ありがとう」
尊の父親として、僕は優に感謝した。
「献くん、優ちゃん、ありがとう」
夏美さんが引け目ない態度で言った。
僕らのカタチは青一色の世界の中で、万華鏡のようにカチリと生まれ変わった。
 
夏美さんはかつて桜木さんが勤めていた大学病院に入院し、僕ら三人はしょっちゅう面会に行った。夏美さんに負担だろうかとも思ったが、尊と去りゆく母親の時間をなるべく作りたかったのだ。
ただ、日に日に痩せて、会うたびに顔色が悪くなっていく母親の姿を見せるのは残酷な気もした。
尊はイルミネーションの青だらけのお絵かきを何枚も書いて夏美さんに見せていた。夏美さんはそこに何を見たのだろう。とても嬉しそうに指をさしたりして笑っていた。
あの青は僕たちみんなにとって特別なんだ。

余命一年のはずが、半年もたたずに夏美さんは逝ってしまった。37歳だった。

26.

僕は新しく家族になった息子に宛てて手紙を書いた。
今、理解できなくても、いつかきっと分かってくれる日がくるだろうから。
 
尊へ
おまえのパパと新しいママは、世の中の基準から見れば型からはみだした二人だ。ルールどおりの愛の形で結ばれた二人じゃない。けれど、尊、何も恥じないでほしい。僕たちはどんな夫婦にも負けないくらい愛し合っているし、おまえのことも心から愛している。おまえと家族になれて心から感謝しているよ。
家族の絆は何よりも強い。僕はどんな苦難も優と二人なら乗り越えられた。優と何年も離れ離れになった時でさえ、昨日会ったばかりのように再会できた。それが家族だ。
家族の絆は時間を超える。


尊、僕はね、僕と優は世の中から捨てられた存在だと思っていた。
母親(おまえの祖母)は自殺し、父親(おまえの祖父)は僕らを捨てて別の家族を持った。僕と優はきっと世の中にいらない存在なんだろう、そう思っていた。でもね、そうじゃなかったんだ。
雪が降る寒い日に、児童相談所の課長さんとおまえのママが僕らを助けに来てくれたんだよ。僕と優は寒さと飢えで餓死寸前だった。それがおまえのママとの出会い。僕らはまだ8歳だった。
その日以来、おまえのママは、まるで本当の母親のように、いや、それ以上に僕らを守ってくれた。よく笑う人だったなぁ。未成年だった僕らが住むアパートの保証人として同居してくれたりもした。あれは奇妙な三人生活だったよ。そしてその同居生活の日々のはしくれで、尊、お前のママと僕は愛し合い、おまえを授かったんだ。
それからおまえのママは姿を消した。僕はずっと何もしなかった。ごめんな、尊。なんてひどい父親だろうね。僕は夏美さんと連絡を取ろうとさえしなかった。手段はあったろうに。そんな男に、おまえのママは、大切なおまえを委ねてくれたんだ。本当に本当に尊いおまえをね。
おまえのママ、夏美も、僕と優にとって本物の家族なんだよ。
生まれてきてくれて、僕らのもとに来てくれて、本当にありがとう、尊。
 

27.

早朝、僕は車を走らせていた。
式を挙げたいという僕の申し出に、宮司さんは二つ返事で快諾してくれた。
姉弟で結ばれたという神を祀るあの神社こそが、僕と優が結婚式をあげるのに相応しい唯一の場所だと思ったのだ。

「衣装一式は我が家に代々伝わるものがありますから、どうぞお体ひとつでいらしてください。母も喜びます、ずっとお二人のことを気にかけていましたから」

そう話がまとまったのが2週間ほど前。
時間が時間なので、優と尊は後部座席で寄り添って寝ていた。
尊は僕の子供の頃と瓜二つだ。僕と優はまったく似ていない。なのに、ミラー越しに見る二人は、実の親子のようによく似ていた。
 
初夏の緑がみずみずしく薫る美しい日だった。
宮司さんは、まるで親戚を迎えるように僕たちを歓迎してくれた。
「おお、これはこれは、パパそっくりだ!」尊のことは予め電話で話してあった。
「まるで三貴子がお揃いになったようですこと」
老婆がこの上なく嬉しそうにそう言った。
「お父様とお母様のお仕度が住むまで、あのおじちゃんと遊んでいらっしゃいませ、坊ちゃま。あやとり、おてだま、けん玉、そんなものしかありませんが」
「母さん、また、おじちゃんとか言わないでくださいよ」
ほほほ、と笑いながら、老婆が僕の着付けに取り掛かった。
歴史を感じさせる五つ紋付き袴羽織を身にまとい、気が引き締まった。
次に老婆は優の着付けに取り掛かった。
一時間ほど過ぎた頃、白無垢の着付けを済ませた優が姿を現した。

「うれし涙でおしろいが筋になってしまうので、紅だけさしておきました。色白は七難隠すとはこのことですね。ほれ、こんなにお美しいです」

本当に言葉が出ないとはこのことか。白無垢に身を包んだ神聖な雰囲気の優は、文字通り言葉が見つからないほど美しかった。
「おお、なんとお美しい」
花嫁姿を見慣れているはずの宮司さんでさえ感嘆の声をあげた。

「では、尊くん、ここからは尊くんにも一役買ってもらいますよ。この台にパパとママの結婚指輪をのせて大事に運んでくださいね、指輪交換の時まで。できますね?」
にっこり笑ってそう言う宮司に、尊は神妙な面持ちでこくりと頷いた。
「よし、では参りましょう」
 
招待客もいないので、結婚の儀式はシンプルにしてもらった。
神主を務める宮司さんのあとに続いて僕と優は歩いた。その後ろに指輪を守る尊。
周囲には雅楽のかわりに気の早いセミたちの鳴き声が満ち満ちていた。
宮司さんは僕ら全員にお祓(はら)いをしたあと、祝詞(のりと)をとなえ、僕と優の結婚を姉弟神に報告した。
その後、この神社のものである大中小3つの杯で三々九度の盃(さかずき)を僕と優はお互いに取り交わし、夫婦になることの誓いを立て、宮司さんが用意しておいてくれていた玉串(たまぐし)を姉弟神に捧げた。
そして尊から指輪を受取り、互いが互いの薬指にはめた。
こうして僕と優は、晴れて夫婦となった。
 
長い道のりだった。

「あら、虹柱が出とるわ」
 と老婆が指さす方を見ると、ご神木とそれを取り巻く樹々のあたりに差し込む日の光が、淡い虹色に揺れていた。
みるみる間にそれは薄れゆき、普通の木漏れ日になった。
虹柱が姿を見せたのは目の錯覚だったのではないかと思うほど短い時間だったが、僕はその中にたくさんの笑顔を見た気がした。
錯覚なのか、姉弟神からのお祝いなのか分かるはずもない。
ただ僕はその一瞬の中に、確かにいくつもの祝福を感じた。
僕と優、尊という家族の門出は、このように最高の祝福を受けたものだった。

エピローグ

11月10日
横たわる優の周りを三人の幼い子供たちが走り回っている。
「じめじめしたのはいやだわ」
と言っていた優のことだ。こんな光景も、きっと喜ばしく思っていることだろう。
「孫まで持てて、私は本当に幸せよ」
 生前、優はよくそう言っていた。

「おじいちゃん、じゃまじゃま」3人の孫のうち、じき3才になる末娘が言った。
「おばあちゃんを踏んづけたりしたら承知しないぞ!じいちゃんの一番大切な人なんだからな」僕は冗談めいたしかめっ面をして言った。
「あたしよりも大切なの?」
顔だけでなく言うことまで優によく似てきた孫娘を僕はきつく抱きしめて、柔らかな頬にキスをした。

「おばあちゃん、眠ってるみたい」
「眠ってるんだよ。とても長い眠りだけどね」
「もう会えないの?」と孫娘は泣きだした。
「こらこら、おばあちゃんが悲しむから泣くのはやめときなさい」
「父さん、そろそろ」
尊が部屋に入って来た。霊柩車が到着したようだ。いよいよ火葬場だ。
車が着く前に、優と二人で海にでも飛び込んじまえばよかった。
「父さん・・・」
「はいよ」
いつのまにか涙が流れていた。一度溢れ出した涙は止まらなかった。
「尊、ありがとな。優に幸せをくれて」
「俺のほうこそ、だよ。父さん、母さん」

この年になって初めて、世の中にひとり放り出されるような心細さに襲われた。今まではいつも優が一緒だったのだから。そんな泣き言、優に叱られそうだが。
 
火葬場で最後にひとつだけわがままを言った。
紫色の縁結びのおまもりを優に持たせてほしい、と。
それを持たせるとき、僕は優の薬指の欠けた部分にくちづけをし、結婚指輪にくちづけをし、とっくに冷たく固くなってしまった唇にくちづけをした。初めての夜のように。
そして、優のピンクのお守りを握りしめて、優を見送った。
優は僕らを結ぶ縁結びのおまもりと一緒に天に昇っていった。これで迷うことなくきっとまた会える。
 
僕と優の愛は、世の中の常識の型にはまる、きれいなものではなかったけど、幼いころ教会で聞かされ、怯え続けたような神様の罰はくだらなかった。
世間から見たら、僕らの愛は、きれいな愛じゃなかったかも知れないけど、僕らはこんなに幸せになれた。そう、たとえ、きれいな愛じゃなくても。
 
「尊、ちょっと疲れたから、休憩所で休んでくるよ」
「誰かついていこうか?」
「いや、大丈夫」
休憩所で椅子に腰をおろし足をさすり、ふーっとおおきな溜息をついた。
自分がこんなに年を取るとは思いもしなかった。腕をもみ、肩を叩いていると、チリンと音がして足元に何かが転がった。
良く見えない目で近づいて見てみると、優のピンク色の縁結びのおまもりだった。慌てて拾おうとして動いて椅子から転げ落ちてしまい、一瞬、目の前が真っ暗になった。
 
薬指が欠けた手がそれを拾ってくれた。
見上げると優が立っていた。
「優!おまえ、こんな暗い中、ひとりで帰ってきちゃ危ないよ!僕が迎えに行くまで・・・」
と言いかけて辺りを見ると、そこは暗いどころか、いつか見たことのある緑の森で、辺りは淡く虹色に輝く木漏れ日に満ちていた。
「遅いから来ちゃった」優がいたずらっぽく笑った。
「そっか、迷子にならなくてよかった」
 僕は愛おしい優の茶色い猫っ毛に触れながら言った。
「迷子になんかなるわけないじゃない、これがあるんだから」
優は紫色の縁結びのお守りを見せて言った。
「そうか。そうだな」
「行こう、献、オリオンを見に」
僕らはしっかりと手をつないで歩き出した。もう2度と離れないように。

END


 


 

 
 

 
 

 
 

 
 


 
 
 
 

 


 

 
 

 
 

 
 



 
 


 


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