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10年前、2歳だった弟が小学校を卒業する。

弟が小学6年生になった。もうすぐ小学校を卒業する。
赤ちゃんだった弟が、あの時の自分と同じ年齢になった。
6歳だった妹も16歳になって、もうすぐ高校2年生だ。

10年とは、そんな年月だ。

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東京に出てきた私は「宮城出身です」というとだいたい10人に7人から「震災の時、大丈夫だった?」と聞かれた。もう慣れたけれど、宮城にいた頃はそんな質問を受けたことなんて一度もなかったから、最初はなんて答えたらいいか戸惑った。

「大丈夫じゃない」って、誰かを亡くしたり、家が流されたり、そういうことをいうんだと思った。だから私は「大丈夫」と言った。


今日、友人のこんな記事を読んだ。
「地震の時大丈夫だった?」と言われるのが、苦手だったときのこと。
筆者のはるるは同郷出身で東京でも仲良くしてくれている大切な人だけれど、この記事を読んで「あ、同じように感じてたんだ」ってなんかホッとした。他の人の辛い記憶を聴くたびに重みを積み重ねていったことも、頷きながら読んでいた。そして、震災の受け止め方や感じ方、経験したものは似ていたとしてもやっぱりみんな全然違うとも改めて思った。

私はこれまで震災のことを特段書き記したことはない。そして今回が10年前の「自分」のことを言葉にする、最初で最後の機会だと思う。語る必要がないと思っていたし、語るべきでないと思っていたから。ちなみに今もそう思っている。

自分は被災者じゃない。

津波で流される前の街の様子を知っていたり、母の知り合いがいたりしたくらいで、自分が被災者と名乗れるほどのものではない。人より大変だったこともない。強いて言えば市内では復旧が遅くて1ヶ月近く水が出なかったことくらいだ。坂道を登る水汲みは大変だったし、お風呂にあれほど入りたいと願ったこともなかった。でも、それくらいだ。

だけど今日、書きたくなった。残しておきたくなった。

10年前、日用品を買うためにお姉ちゃんと何時間も並んだスーパーにはあの頃と全然違う店が並んでいるし、なんてったってあの天使だった弟が汗臭いガキンチョになっているんだから。(今も可愛いけど。)変わっていくし、記憶は薄れていく。だから、残してみたいと思った。自分のために、だ。

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写真や場所、音や匂い。あの時を思い出すものがある。

「3月11日(金)」と書かれた黒板の前で撮った6年2組の集合写真。
防災訓練以外で初めて被ったオレンジ色の防災頭巾。
大丈夫だよ、と繋いだ友達の手。
お姉ちゃんがつくってくれたベーコンのチャーハンもどき。
死んでしまった熱帯魚。
EXILEのCDアルバム「願いの塔」。(VICTORYって曲が大好きだった。)

あの日のことは鮮明に覚えている。過去のことをすぐに忘れる薄情者の私がこれほど記憶に残っているのだから、きっと重大事項だったんだ。

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2011年3月11日、卒業式の直前。小学校生活最後のホームルームか何かの時間だった。「また地震か」と思うと、かなりの揺れで立っていられなくなった。棚から落ちて来たハサミが自分に向かってくるように見えて怖かった。

防災訓練の通りに、防災頭巾を被って机の下に潜り、揺れが収まったら階段を降りて校庭に避難した。泣いている友達の手を握って、「大丈夫だよ。大丈夫。」と言い合っていたのを覚えている。余震で校庭がうねっていて(多分本当にうねってた)、近くのパチンコ屋の看板が落ちているのが見えた。

そのまま体育館に避難して、地域の人が集まってきた。親御さんが迎えにきて、みんないなくなって行くのに、私は最後の最後まで残っていた。毛布にくるまって、親がまだ迎えに来ない下級生たちと遊んだりしていた。

もう外が暗くなってきた頃ようやく名前が呼ばれると、隣の小学校で働いているお母さんの所に移動する、ということだった。移動した先の小学校では、母がせわしなく児童や地域住民の対応をしていた。ここで初めて「津波が来ているらしい」ということを聞いた。

ようやく夜になって家族全員が家で集合した。高校教員の父が妹弟を保育園まで迎えに行き、中学を卒業したばかりの姉は自力で家に帰って来ていた。

3月の東北は寒い。凍える寒さの中、私の心配事は飼っていた熱帯魚だった。自分の部屋に水槽を置いて飼うほどに大好きだったけれど、今は見たくもない。私は水族館に行くと震災を思い出す。それはこのとき飼っていたみんなが凍死した様を思い出してしまうからだと思う。マグカップに移して、お湯を入れて温度を保ってみたりしたけれど、みんな死んでしまった。赤ちゃんもいた。

この日の空は綺麗だった。使い回された陳腐な言葉かもしれないけど、「満天の星空」が輝いていた。
そして遠くに赤く燃える火が見えた。うちは山?丘?の上だから、晴れていると海が見える。いつもは碧い海が、暗闇の中でポツリと赤く照らされているのが見えた。それが津波で流された瓦礫に火が昇る様子だったと知ったのは数日後のことだった。


翌日からは避難所に行ったり、家の中で過ごしたりした。教員の両親は相変わらず大変そうだった。私はずっとEXILEのCDを聴いていた。

それからしばらくして、少しずつ混乱が収まっていった。
私服の人も多かったけど卒業式もできた。4月になると壊れて使えなくなった中学校の体育館の代わりに、近くの高校の体育館で遅れて入学式をした。私は普通に、中学1年生になった。


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そんな風に日々を過ごして来たけれど、10年間私が語りたくないと思っていたのには多分理由があった。

高校生になってふと書店で震災に関する作文集みたいなのを見つけて読んだ時だ。その一つが、友人のものだった。その日も一緒にお弁当を食べた友達が書いていた被災体験だった。何も知らなかった。

オタク仲間で何度も一緒に遠征をした友達は震災の日、必ずお墓参りしている。それは知っているけれど、何があったのかは聞いていない。

中学で仙台に引っ越して来た親友は、福島に家があった。新築だったそうだ。当時はずっと帰れていなかった。

そんな風に周りは簡単に言葉にできない経験をした人がたくさんいた。同年代の子たちがした経験と自分のことを比較して、私は大丈夫だったのだから、と口を紡いだ。それが善であった。


それでも、あの時の私は必死だったんだ。辛かったんだ。悲しかったんだと思う。

そう思う。

あの時の自分を、いま10年越しに抱きしめてあげるのがこのnoteだ。
だから、10年目の今日、私のためにこれを記す。

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