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林真理子「8050」、高橋弘希「送り火」、そして兼近大樹「むき出し」。 「被害者が加害者になり得るとき」について

読了、とハッシュタグをつけて書き込んだ自分のツイートによると、林真理子さんの著書『8050』を読んだのは昨年の秋。

現代社会の深刻な問題として知られタイトルにもなっている8050の意味についてはグーグルさんが詳しいと思うが、とにかく私はその小説を昨年読んだ。

街の歯科開業医の父と専業主婦の母、教育熱心な両親に育てられたのが良い方に作用したおっとりした賢い息子。中学受験で入学した名門進学校でいじめに遭い不登校から引きこもりになり家庭内暴力もふるうようになるも、父親と人権派弁護士と共に加害者であるかつての級友たちと法廷で対峙し自尊心と親子の信頼関係を取り戻していくまでを描く感動的な長編だ。
前半はページを繰る手が重かったが止まらず、なかなか分厚い本だったけれど一気に読んでしまった。
1人の青年の魂をかけた闘いにはサクッと爽快な終わりはない。けれど鬱々とした気持ちのままというわけでもなく、登場人物のどの視点からでも物語に引き込まれてしまう。
林真理子さんの小説家としての凄さを目の当たりにして震えた。

それにしても、いじめ加害者だった少年たちが成人する歳になってもなお良心の呵責を持たず上手いこと生きている事実には本当にやりきれないものを感じる。
少年たちは皆加害者という意識がない。
または加害者であることを意識するがゆえに無意識を装う。
それはよくニュースで見聞するいじめ訴訟資料を見せられているかのようで、心の底から湧き起こってくる憤りの感情の落とし所が見つからず身悶えた。

ちょうど東京オリンピック開会式に関わるアーティストの過去の人権侵害問題が取り沙汰されて大騒ぎになった後だった。
そのアーティストは私の青春時代を彩っていた新時代のムーブメントを起こし、今やポップカルチャーとクールジャパンを代表する文化人として名が知れるほどの人だったので世間のドン引きたるや。
いわゆるサブカル寄りの人間だった私はリアルタイムで彼の掲載された当該雑誌を読んでいたし、SNSが一般化した頃から既にその内容が出回ってることも知っていたので(このタイミングで急に周知されるなんて、サブカルってなんだかんだ半地下で守られてるんだな)という感想でしかなかったけど、日々スマホを開くたびにその名と記事の内容が出てきて、いかに世間にこういったことに対するフラストレーションが溜まっているのかを知った。
とうとう世論という名の法廷に引き摺り出されたアーティストとその関係者から出てきた証言は事をなんとかおさめようとする必死の謝罪と言い訳ばかりだったのでスキャンダルは長引き、その法廷で彼らに言い渡された罰はまさに「私刑」だ。
彼らをその「私刑」に処し凶弾する者はむしろいじめ加害者ではないのか、という擁護も飛び交いカオス状態になっていた。

遡って思い出されるものがあった。
2020年1月の「すばる」という文芸誌でたまたま見つけた高橋弘希さんの『飼育小屋』という短編と、『送り火』だ。

『飼育小屋』は、差出人も中身もわからない届け物の箱を恐る恐る開ける時のような不安と好奇心をゴリゴリに刺激される短編で、その秘密めいた蓋が開いた時に姿を表す物語の衝撃的な仕掛けに圧倒され、他の作品も読むべく慌てて図書館へ行き、2015年に芥川賞を受けた『送り火』を読んだ。
これがまた凄まじかった。
そんな大袈裟なと思われるかもしれないけれど、「凄まじい」ってきっとこういう時に使うべき日本語なんじゃないかと思う。

こんなに強烈な怒りや怨みの感情を文字という形を借りて冷たい刃に変換し突きつけることができるものなのか。この人が文章を書くという武器を持っていて本当に良かった、そう思った。
ゆえにもちろん結末も壮絶だ。
しかし咀嚼を始めてしまったからにはもうその壮絶さこそがこの小説そのものなのだと諦めて飲み込むしかない。

いつか怨念を処理しきれず森の奥に藁人形を打ちに行きたくて「藁人形、方法、場所、」とか血走った目で検索したくなった時は、忘れずにこの本を開きたい。
そんな時が来ないことを祈るけど、0.1ミリの容赦もなくマイナス百度の体温で業火を焚いてくれている者がそこにいる。

この小説の凄まじいのは、そうと気づかないまま自分が主人公と同じ第三者であり全てを俯瞰で他人事として見ていたという事実を喉に突きつけられ、もはや逃げ道のないことを認めざるを得なくなるところだ。
他人事なら見ていられた事象、自らが手にしていた無自覚という凶器で喉を掻き切られる瞬間に抗う術がないことに否応なく気付かされるのだ。

いじめと呼ばれる肉体的かつ精神的な暴行に関する話には必ず加害者と被害者が登場し、8050、飼育小屋、送り火などの作品に触れるたび、誰にでも平等に与えられているはずの人生の輝きを理不尽な理由で奪われた人が苦しんでいることを痛感する。
それと同時に被害者が加害者への復讐を果たすことに恍惚とした気持ちを抱き、もやもやとした背徳感にすら思われて混乱もする。

ここでいつからかずっと持っていた疑問がまたぽっと私の心の中に現れる。
私の知る中ではこれに答えてくれる勇気と覚悟を持つ人は今までいなかったから、時々再燃しては消えることを繰り返していた疑問だ。

*加害者であることを自覚し、その後の人生をうまく生きられなかったり、向き合い続けているような人はどこにも、ただ1人もいないのだろうか?*

自分が過去加害者側であったことを告白する人は結構いる。しかしそこには何らかの言い訳が、必ずセットになっている。
他の事件の加害者には自責の念から大きな贖罪を背負って生きる人もたくさんいるのに、なぜいじめに関してはほとんどいないのだろう。
人は悪者と呼ばれることはそこそこ受け入れることができるのかもしれない。法で裁かれるという絶対的な悪には悲壮感も伴い、実は共感を得ることもある。
卑怯者には悲壮感がないので、そう呼ばれることに耐性を持つのが特に難しいのかもしれない。
法では裁けない宙ぶらりんの無自覚、卑怯、という罪を、開き直ることなく真正面から認めて受けとめる覚悟を持つのも、その覚悟に共感を持つのもまた、相当過酷な業なのだ。

つい先月、兼近大樹さんの『むき出し』を読んだ。
劣等感を他者への暴力的な態度で誤魔化しながら成長し、果ては無知により犯罪に関わり留置所にいた主人公の石山が、恋する女性から差し入れられた本に出会ったことでそれまで自分の持っていた価値観に新たな側面があることに気づき、希望を見出す姿が描かれている小説だ。初読時、そのくだりには感涙が止められなかった。

しかしなにより衝撃的だったのは、自分なりの生きる術として偽物の鎧を身につけていた空っぽの石山が貪るように本を読み始めたことによってそれまで自分が正しいと思ってしていたことが取り返しのつかない結果を生んでいたという事実に気がつき、記憶をたどり、真正面から受け止めるところだった。
石山は自分の無自覚と卑怯さまでもそのままむき出して読者に差し出していた。

石山の告白には言い訳がない。
私は初めて、そういうむき出しの告白を見た。
長く燻っていた疑問に予想もしなかった角度から突然差し出された答え以上のものをそこに見た気がした。

「自分を加害者だと認めることで、被害者面を作るのももう充分。
被害者だと感じたとき人は加害者になり得るんだ。」

そう石山は思い至る。
それまでの石山は自分が社会の中で恵まれていない方の人間であると意識することで、外の世界と闘わなければ生きられないと思い込んでいた。
それは自分で戦闘方法を見つけなければならない孤独な闘いで、石山の正義だった。
疑問を持つ余裕すらなく、その他の世界に生きる人たちを傷つけることが正しく与えられた特権であるかのように振る舞っていた。
でも初めて触れる本の中に無限に広がる世界を見つけ、どこかにいる同志を見つけた。
そして堅く握ったままだった傷だらけの拳を初めて緩めることができたのだ。
家庭の事情や社会構造の犠牲者、被害者であることを伝家の宝刀かのように振りかざしていた卑怯な自己への違和感から目を逸らすのをやめたのだった。

いじめに限ったことではないけれど、被害者にとっては、そうした加害者側の心の動きなど都合のいい戯言かもしれない。8050や送り火に登場する加害者たちにも本人たちなりに理由があっただろうが、理由の如何にかかわらず被害者にとって人生の輝きを奪われたという事実に変わりはない。
それが石山の思い至った「自分を加害者だと認めることで、被害者面を作るのももう充分」に繋がっていく。

開き直っているようにも誤解されそうなこの軽やかな響きを持つ言葉の重みが、混沌とした世界に風穴を開ける突破口のように見えて仕方がない。

人間はみんなそんなに簡単にできていない。
赦せない感情は精算できないまま深い沼の底にいつか誰かを沈めるための復讐の毒薬として蓄積し続けるのだろうか。
認めたくない劣等感と孤独は永遠に世界に沼を増やし続け、自分の掘ったぬかるみに怯えて眠れぬ夜を過ごすのだろうか。

「被害者だと感じたとき 人は加害者になり得る」

自分を含めこの世界に複雑に入り組んだ階層に生きる人たちに、容易には解決しないこの世界の混沌に思いを寄せたい。
私の無自覚という凶器は自分の喉を掻き切るために直ぐ近くに鈍く光をはらんで潜んではいないだろうか。

他者を傷つけていい理由を探してはいないだろうか。


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