見出し画像

マイ 投稿・寄稿 2

☆ 新聞社や各種機関紙投稿記事になったものです。

2 「漱石になりたかった都市計画家 〜石川栄耀と黒谷了太郎の縁」

  筆者は元高校の英語教師であるが、英語教師でもあった夏目漱石の研究をライフワークとし、漱石と東北や庄内地方の文人たちとの関わりをまとめた書籍を数冊上梓している。参考文献に挙げた書籍で「漱石になりたかった学生」の章に出会い、漱石つながりで彼ゆかりの山形県人たちの興味深い業績を知ったので以下に記す。
 「石川栄耀(ひであき)」(1893年1955年)は日本の都市計画家で、戦前から戦後にかけ都市計画発展に貢献した。戦前 の名古屋 にお ける区画整理, 東京の都市改造計画、戦後の東京戦災復 興計画などが有名である一方、都市における盛り場研究の第一人者で新宿歌舞伎町の生みの親である。 
 石川栄耀は山形県東村山郡尾花沢村(現・尾花沢市)に根岸家の次男として出生。父は日本鉄道の職員。兄は根岸川柳名人根岸栄隆。6歳の時母親の実家(天童市干布地区)である石川家の養子になる。養父の勤務地の埼玉県大宮町(現・さいたま市)にある小学校を卒業し、旧制埼玉県立浦和中学校(現・埼玉県立浦和高等学校)に進学するが、親の転勤に伴い、二年次に旧制岩手県立盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)に転校し、その後第二高等学校 (旧制) に進学。大学入学まで東北の地で過ごした。この時期『趣味の地理 欧羅巴』(小田内道敏著)を愛読し都市計画活動に興味を持った。その後父親は会社を退職し、一家は東京目白に家を新築・引越。1915年東京帝国大学工科大学土木工学科に入学。大学時代は夏目漱石などを愛読し、漱石と同様に寄席に足繁く通った。1918年、東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。夏目漱石も東京帝国大学で工科に進むことを考えたことがあったが、親友・米山保三郎の進言で文学・作家の道を志したことは有名である。学生時代「漱石」になりたかった石川であった。
 そして、石川に多大な影響を与えた人物が何と鶴岡市出身の都市計画家で鶴岡市第三代市長(1927年・昭和2年~1930年・昭和5年)の黒谷(くろたに)了(りょう)太郎(たろう)である。黒谷は庄内藩士・黒谷謙次郎の長男として鶴岡市家中新町に出生。1888年(明治21)荘内中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)中退。1895年(明治28年)東京専門学校専修英語科卒業。1899年(明治32年)台湾総督府淡水税関に嘱託として職を得た。その後、都市計画名古屋地方委員会幹事に就任。黒谷は内務省官僚として「官」の手による名古屋都市計画の東部丘陵地「八事丘陵地」で本格的な郊外住宅地作りに尽力した。
 石川は大正7年に米して貿易会社技師。帰国後、内務省に勤め、名古屋市都市計画に小都市連合を提案した。黒谷と共々内務省の職員同士だったが、その赴任先が名古屋で、上司が黒谷で部下が石川だった。その際、都市計画が初めてだった石川が黒谷流の「田園都市」「山林都市」づくりに影響を受け、その後の石川の街づくりや都市計画に反映された。従って、名古屋の一部の街は同じ山形県人二人によって作られたともうえるのである。
 石川は昭和18年東京都技師となり、東京帝大第二工学部講師を兼務。その後東京都計画課長、道路課長を歴任。21年「新首都建設の構想」を発表、戦後の首都圏計画を示唆。23年建設局長、24年「東京復興都市計画設計及解説」で工学博士。都庁では戦災復興に尽力、駅前広場や盛り場計画を推進し、東京・新宿の「歌舞伎町」は彼の命名。26年退職後、東京都参与、早稲田大学理工学部教授、日本都市計画学会会長を歴任。62歳で永眠、墓所は東京小平市の「小平霊園」にある。著書に『都市の動態』『都市計画および国土計画』などがあり、建築界では現代建築の礎を築いた人として知られ、没後「石川賞」(日本都市計画学会)が設けられた。
 二人の功績について述べてきたが、山形県、庄内の人々に二人のことを知っていただくとともに伝承し、郷土に誇りを持っていただければ幸いである。

 *参考文献:『評伝 石川栄耀』(高崎哲郎著、鹿島出版会)がある。その第2章は「漱石」になりたかった学生—人文地理・文学・工学、である。『石川栄耀 都市計画思想の変転と市民自治』(佐藤俊一著、鶴岡市出身、元東洋大学教授、地方自治総合研究所:自治総研 40(6), 1-44)

『鶴岡タイムス』(2022年5月15日号)          (つづく)

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?