【短編】めざめ
この世に挨拶なんて、なければよかったのに。
玄関で宅配便を受け取った僕は、部屋の内側から扉に鍵をかけながら、そんなことを考えている。宅配のお兄さんは朝から元気よく挨拶をしてくれたけれど、僕は何も言わず、受領書にサインをし、荷物を無愛想に受け取った。
挨拶はどうしてしないといけないの?
多くの親が、子どもからされる類の質問だろう。
挨拶したら友達がたくさんできるよ、挨拶したら良い一日になるよ、と、親は前向きな答えを与え、子どもをきちんと挨拶ができる人間に育て上げようとするかもしれない。
ただ、僕はもし子どもにそう聞かれたら、いや、大人に聞かれたとしても、迷わずこう答える。
挨拶なんて、しなくていい——。
現に、自分の娘にもそう伝えてきた。
玄関脇の棚に視線をやる。そこには、妻の美代子(みよこ)、娘のカナ、そしてお喋りなオウムと一緒に撮った写真が飾られている。カナは当時まだ一歳だった。
あの日から今日でちょうど八年——。
当時の記憶が蘇ってくる。
その日、僕たちは花鳥園に遊びに来ていた。
僕も妻も娘も、花や鳥が特別好きなわけではなかったけれど、妻も子育てで少し疲れている様子だったし、そういう時には植物や動物に触れるのが一番だろう、という安直な考えもあって、家族で花鳥園に行くことを僕が提案したのだ。
花鳥園は思ったより広くて、そういう意味ではむしろ疲れてしまったのだけど、テレビでしか見たことのない、グロテスクだったり、アホっぽかったり、神秘的だったり、そんな花鳥たちとの出会いは、休日に街で有名人に遭遇したときと同じような興奮があって、僕たちはかなり楽しんでいた。
ある湿っぽいビニールハウスの中を歩いていると、僕たちの頭と同じくらいの高さに止まった、真っ白なオウムを見つけた。
「おはよう、オウムさん」
妻は律儀な人だった。人に対してはもちろん、動物に対してもよく挨拶していたし、その名前を呼び捨てにすることもなかった。動物に対してならまだしも、植物や野菜に対してもそんな具合だったのだが、僕は彼女のそういう、何に対しても敬意を払うところが好きだった。
オウムは妻を見つめると、しばらく顔をキョロキョロ動かした後、「お姉さん、ちゃんと化粧して」と言った。
「え?」
「お姉さん、ちゃんと化粧して」
「うわっ、ちゃんと化粧して、だって。しかも二度言われちゃった。この子、よく見てるわぁ」妻は実際スッピンだったものだから、怒るわけでもなく、むしろ感心した様子だった。
「アドバイスありがとう。はい。オウムさんがおっしゃる通り、これからはちゃんと化粧しますね」
妻が律儀にお礼を言うと、オウムは羽をバタバタさせ、「われわれは、宇宙人だ」という、なんの脈絡もなければ、そもそもお前は宇宙人じゃなくて鳥だし、百歩譲ってお前が宇宙人だったとしても、「われわれ」と言って全てのオウムを宇宙人にしてしまう浅はかさに、三重でツッコミを入れたくなる発言をしたため、僕たちはあまりに可笑しくて、そこで腹を抱えてしばらく笑ったのだった。僕たちはそのオウムに「宇宙人くん」という名前をつけた。
「でもさ、宇宙人くんも可哀想だよね」車で自宅へ向かっていると、妻が唐突に言った。
「どうして?」
「だってさ、オウムって、人が言ったことを記憶して自分で話せちゃうんだから、きっと鳥の中でもすごく頭いいんでしょ。なのに、人が面白がって変なことばっかり教えるから、結果的に馬鹿っぽく見られちゃうじゃない。『われわれは、宇宙人だ』とかもまさにそうだし、あと、なんか色々言ってたわよね」
「『オヤジ、熱燗(あつかん)!』『味噌煮込みうどん、食べたい』って連発してたね」
「あははっ。熱燗と味噌煮込みうどんとか、それこそどっかのオヤジが教えたのよね」
そう言うと、助手席に座る美代子は体を捻り、後部座席のチャイルドシートで眠る娘を見た。
「カナもまだ喋れないけどさ、私たちが喋ってることとか、やってることとか、実は全部吸収してるっていうじゃない。赤ちゃんの記憶力は侮れないらしいよ。私が毎晩、『オヤジ、熱燗!』って言って、熱燗ばっかり飲んでたら、カナの第一声はきっとそれよ」
僕はバックミラー越しに娘を見やる。愛らしい娘から、『オヤジ、熱燗!』という言葉が飛び出してくることを想像すると、もはや笑うことができず、ただ背筋に寒気が走った。
「それは嫌だ」
「でしょ。だから、私たちも、娘に真似されて恥ずかしくないように生きようよ」
その言葉は力強かった。
大声でもなければ、難しい言葉を使っているわけでもない。だけど、それは彼女の母親としての決意そのもので、僕の耳の中で木霊(こだま)した。正面から照りつける夕陽の眩しさが霞んでしまうくらい、助手席の彼女がもっと、ずっと、輝いているように思えた。
「ねえ、今晩の食材買いたいんだけど、スーパー寄ってくれない?」
「もちろん。そうだ、味噌煮込みうどんにしちゃう?」
「夏なのに?」
「夏だからこそ、食べたくなるんじゃないか」
「宇宙人くんが嫉妬しちゃうよ」そう言うと彼女は笑った。「まあいいか。そうしよう!」
近くの大型スーパーの駐車場に入って車を止めると、彼女が、あ、と声を上げた。
「あれ……うん、やっぱり高見(たかみ)さんだ! こんなところで!」
彼女の視線の先、スーパーの出入口付近に、青っぽい服を着た中年女性がいた。すでに買い物を終えたようで、両手に買い物袋を持ち、おそらくは自分の車に向かって歩いている。
「どなた?」
「会社の同じ部署の先輩。私、育休中でしょ。その間、高見さんが私のやってた仕事、全部やってくださってて。とっても助かってるの。ちょっと挨拶してきてもいい?」
「でも……」僕は娘を見る。母親が育休中でずっと近くにいるからなのか、少し母親が見えなくなるだけでも、泣き出すことが多かった。
「大丈夫、少しだけだから。それにあなたもお父さんなんだからさ。すぐに戻ってくるよ」
「……分かったよ。車で待ってるから、美代子が戻ったら一緒に買いに行こうか」
「ありがとう」そう言うと、妻は外に出た。
妻は高見さんが歩いて行った方向に、駐車された車の間を縫って走っていく。すぐに視界から見えなくなった。
後部座席の娘は、母親が見えなくなると、案の定すぐに泣き出した。僕は娘に顔を寄せ、変顔で笑わせようとする。が、全く効果はない。僕は後部座席にまわり、チャイルドシートのロックを解除して、娘を抱いた。
それでも、娘は泣き続けた。
美代子が外に出てから二十分近く経った。
おい、ちょっと長くないか?
それでも最初は、久しぶりに会ったのが嬉しくて、盛り上がってるんだろう、よくあることだ、というくらいに思っていた。でも、救急車のサイレンが遠くから聞こえてきたと思ったら、僕たちのいる駐車場に入ってくるものだから、少し嫌な予感がした。
まさか、そんなことは——。
僕はドアを開けて外に出る。サイレンの光る方角に向かって走る。
そこは人集(ひとだか)りになっていた。後ろからでは、人が壁になって何が起きているのか分からない。僕はすみませんと謝りながら、人集りをかき分けて中心部へ進む。鼓動は激しく、全身は熱い。娘の泣き声も、どんどん激しくなっていく。
視界が開(ひら)ける。
妻が仰向けに倒れていた。
救急隊員が心臓マッサージをしている。
目眩がした。全身の力が抜けて、その場に崩れ落ちそうになった。
だめだ。
僕は、娘を隣にいた男性に咄嗟に預け、妻に駆け寄る。
僕は妻の横に行くと、膝を折り、その手を握る。冷たい……。
何度も彼女の名前を呼ぶ。
美代子!!!
美代子!!!
反応がない。
死ぬな!!!
生きろ!!!
僕はそう念じることしかできなかった——。
美代子!!!
僕は思わず叫んでいた。
息は切れ、全身ががたがたと震えている。
八年の歳月を経ても、決して忘れることなんてできない。
僕はキッチンへ行き、グラスに水を注ぐ。水を飲み、からからになった喉を潤した。
この世に挨拶なんてものがなかったなら、妻は死ぬことがなかった。
挨拶に行こうとする妻を強く引き止めなかった自分に対する怒りも、妻を車で轢いた人に対する憎しみも、世の中で無条件に美化された「挨拶」という存在に対する憤りに、だんだんと形を変えていった。善人を装って人に近づき、最終的に全てを奪う。そんな、詐欺師のような狡猾さを、僕は挨拶に感じてしまったのだ。
何が挨拶だ——。
馬鹿らしい——。
それから八年間、僕は一度も挨拶をしていない。
きっと美代子もそれを望んでいるはずだから。
*
気づいたら机に突っ伏して眠っていた。
テレワークは時間を有効に使えるから有り難いけど、自宅で集中力を保つのは思った以上に大変で、知らず知らず怠けてしまうことも多い。
壁に掛かった時計を見る。
午後四時三十分——。
カナはきっと下校しているところだろう。
小学三年生になったカナは、同年代と比べるとかなりしっかりしている。料理は僕なんかよりよっぽど上手だし、僕が机で眠ってしまったときは、目覚めるとブランケットがかけられていたこともあった。僕が子どもでカナが親か? と時々思ってしまうくらいだ。
僕は立ち上がり、腰を右に左にぐっと捻る。外の空気を吸いたくて、近くのスーパーへ晩御飯の買い出しに行くことにした。娘は家の鍵を持っているから問題ないだろう。
アパートを出る。
初夏の夕暮れ時、蝉が喧しく鳴き喚いている。地上でのわずかな寿命。結婚生活を優雅に楽しむ時間などなく、人生のタイムリミットがくる前に、何とかしてパートナーを見つけ、交尾し、命のバトンを繋ぐ。
君たちも必死だよな——。
近道のため公園を横切っていると、地面に座り込んだカナを偶然見つけた。ちょうど僕に背を向けた状態で座っているので、僕の存在にまだ気づいていない。
よし、びっくりさせてやるぞ——。
そう思った僕は、背後からゆっくり彼女に近づいていく。
十メートル、七メートル、五メートル、三メートル……。
だんだんと彼女との距離が詰まる。
二メートル、一.五メートル……。
そこまで行くと、彼女が何をしているか、見えた。
蝉だ——。
木の棒で仰向けになった蝉をひっくり返そうとしている。
「ねえ、死なないで」
その声が聞こえた瞬間、視界がぐらりと揺れた。天と地がひっくり返り、僕の意識は宙に浮かぶ。ぐらぐらと歪んだ世界をものすごいスピードで進んだかと思うと、僕はとてつもなく大きな腕の中にいた。大きいけれど、不安定で、落ち着かない、そんな腕の中。
だけど、僕の目の前にはもう一人、僕がいる。
辺り一面は真っ暗で何も見えないけれど、目の前の僕とその周辺だけは、スポットライトが当たっているみたいによく見える。その僕は、地面に膝を折り、必死に何かを叫んでいる。その声は聞こえない。
僕は目を凝らす。誰かが倒れている。
さらに目を凝らす。
そして、息を呑んだ。
美代子だ——。
どうしてここに——。
僕も早くあそこに行って助けないと。そう思って腕の中から抜け出そうとするけど、その腕は、僕を強力に掴み返してくる。
離せ!!!
そう声を挙げようとしても、だめだ。
何かが喉につっかえて、言葉が出ない。喋れない。
僕はただ呆然と、その姿を眺めることしかできなかった。
「ねえ、死なないで」急に声が聞こえた。
目の前にはカナがいる。華奢な背中をこちらに見せながら、必死に蝉を生かそうとしている。「生き返ってよ」
その瞬間、僕は悟った。
君も、全てを見ていたんだ——。
倒れた母親を見ながら、必死に彼女を生かそうとする僕を見ながら、君はどれだけそこに加わりたかったんだろう。私が行けば、私がやれば、と思いながら、知らない誰かの腕に掴まれて、何もできない自分の無力さを、君は一体どれだけ嘆いていたんだろう。ただ泣き喚くことしかできなくて、必死にあやそうとしてくる大人に、「そんなんじゃない!」と叫びたくても、言葉が出なくて。そんな君の気持ちを、僕は一体どれだけ分かってあげられていたんだろう。
ああ、僕はわがままだ。
倒れた美代子のもとに駆け寄ることもできた。触れることもできた。話しかけることもできた。励ますこともできた。生かそうとすることもできた。
だけど、君は——。
君は——。
僕の目からは大粒の涙が溢(こぼ)れていた。ぽたぽたと地面に落ちるその水滴は、自然の力に抗うことも、声を上げることもできない。ただ下へ、静かに、落ちていく。
せめて——。
蝉でもいいから——。
「あ、動いた!」
カナの声にハッとする。僕は目を凝らす。
たしかに蝉が翅を微かに動かしている。最後の力を振り絞るかのように。僕たちの期待に応えようとするかのように。
「おはよう、蝉さん」
おはよう、蝉さん——。
その声が、美代子の声と重なった。
なぜ、それを——。
美代子が亡くなって以来、僕はカナにずっと伝えてきた。
挨拶なんて、しなくていい——。
それが君の母親の命を奪ったのだと。それは呪いの言葉だと。
カナは素直だった。
僕がいるところでは一切、挨拶をしなかった。だからてっきり、僕と同じように挨拶を捨てたのかと思ってた。挨拶を憎んでいるかと思ってた。でも、違った。僕が過去を思い出して悲しい気持ちにならないように、僕に気を遣ってくれていたんだ。
私たちも、娘に真似されて恥ずかしくないように生きようよ——。
美代子——君は亡くなる直前、車の中でそう言ったね。
誰に対しても、何に対しても、決して敬意を忘れないこと。軽んじないこと。そして、挨拶すること。それはきっと、君がカナに伝えたかったことだったんだ。大丈夫——君の思いは、しっかりカナに伝わっている。
カナは君にそっくりだ——。
間違ってるのは、僕だった。
ごめん——。
本当に、ごめん——。
「お父さん、いたの?」
気づいたら、カナが僕を向いて目の前に立っていた。
「ああ……ちょうどスーパーに行くところで」
「お父さん」カナはそう言い、僕の右肩を指差した。
僕は首を右に捻る。
肩の上には、蝉が止まっていた。
「わあっ」心臓が口から飛び出るかと思った。
「その蝉、さっきまで死にそうだったんだよ。だけど、ひっくり返してツンツンしたら動くようになって。飛んだと思って振り返ったら、お父さんの肩にいたの」
「……カナ」
「何?」
「晩御飯、一緒に買いに行こうか」
「いいよ。何食べる?」
「味噌煮込みうどんだ」
「夏なのに?」
夏だから食べたくなるんじゃないか。
僕とカナは手を繋ぎ、ゆっくりと歩き出す。
西陽が右側から、僕たちを強く差している。
肩に乗った蝉は、その翅に陽の光を反射させ、燦爛と輝いている。
太陽よりも、もっと、ずっと、強く、眩しく。
「おはよう、蝉さん」
八年間——長い眠りから目覚めた僕は、肩に止まる蝉にそう言った。
(終わり)
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