はじめましてはひっそりと
山口雄也さんの文章が読みたくてnoteを始めた
実は一昨年からいくつかの闘病ブログを読むようになった
きっかけは膵臓癌の奥さんを支える若い男性の辛いブログをアメブロでたまたまみつけたこと
まるで実況中継のように綴られるブログは悲痛で、時に情け容赦なく当人、家族を苦しめる様が正直に語られる。
病気そのものだけじゃなく、家族の闘病の裏側には支える人の仕事や生活もまた苦労の連続で、ずいぶんと考えさせられた。
絶望感にも苛まれながらも必死に闘う姿はこちらもつい応援したくなるし、本気で奇跡が起こってくれないか、とも思い応援せずにはいられなくなるのだ
私は以前ナースだった
が、結婚し、生まれ故郷を遠く離れて、子どもを産み、育て、やる気満々だった仕事はいつしか遠ざかりその内に、復帰するだなんてとんでもないことなんだと自覚することとなりナースには戻っていない
14歳の春にナースになろうと決めて、大学医学部附属の看護科に進学し、卒後は大学病院で働いたのだが、そこで医局に入った夫と出会い7年後に結婚した。
それまでは自分は生涯できる限りこの仕事を続けようと思っていたのに、そうもいかなくなったのだ
あれから30年が経過し、私はどこか自分の中に潜むナース精神を再確認するかのように吸い寄せられるかのように闘病ブログに行きついてしまうのだと思う。
そして、自分がその方の担当ナースになったようなつもりであれこれと真剣に考えるのだ。
とりわけ、深刻な症状の時の対処の仕方、治療を成功させるべく、看護目標をどう想定するか、など実際担当ドクターとカンファレンスのシュミレーションをしているかのように頭の中で想像している
あの頃、患者本人には
深刻な告知は行われなかった
癌の告知はもってのほか
このままだと悪性になりますよ、と嘘をついて辛い治療を受けさせたのだが、患者は皆本当のところは分かっていたのではないかと思う。
それでも、一縷の望みを持ちたくて騙されてくれたのだった。もちろん疑心暗鬼の方もいた、苦しかったと思う。
そんな病気があるのか、というような珍しい病気の方が大学病院には集まった
そして、真実はほとんど告げられず、皆苦しみながら逝った人ばかりだった。
多くの方を見送った。
そんな時代だったのだ
告知はされず、病状は日に日に悪化する
本人は自暴自棄になるだろう、けど、決定打を告げられない、本人も絶望感を強める、家族もとても支えられない、こちらの体勢も出来ていなかった。
自分と同じ年の若い女性、悪性リンパ腫の闘病を支えたことが印象に残る
支えたなんて言ってるが
やって!と言われることをやってあげただけで、彼女の苦しみを吐き出させてあげることなど出来なかった
長く生きられないだろうことを承知で体が動く限りオシャレをして病院から大学に通っていた。
病院もそれで良しとしていた
洗面所で身支度を整える彼女の少しウキウキした顔、細い体にピタリとしたニットを着て、細身のブーツカットのジーンズを颯爽と着こなしてお迎えの車に乗り込んだ彼女のあの細い腰と脚が忘れられない
麻薬は使いたくないからと本人が言うので強い痛みの時は坐薬を入れてあげた
動けなくなった彼女のからだを少し起こして、プリンや小さなマドレーヌを食べさせてあげるとありがとうと言って少しだけ笑ってくれた
彼女はその後亡くなってしまったが、今でも彼女の名前は忘れられないし、ふとした時に思い出す
若い世代の厳しい闘病は辛く厳しいものがある
可能性に満ち溢れていたはずのこの先の将来をまだ失うわけにはいかない!
意地でも治すんだという気概と、決して順調にいかない治療経過、自分の浮き沈みする体調、メンタルにつかれきってしまうことが多く、まだまだ命を達観して開き直ることなど出来ない
つい先日、Twitterのタイムラインで山口雄也君の闘病を知った
彼は何種類かのサイトを使い分けながら19歳からの闘病の記録を残している
京大生だという
これだけの闘病が時に大学に行きながら行われていた
理系の学部に進んだだけのことはある、病状報告などとてもうまくまとめられていて、かみくだかれているため、多分素人にも分かりやすい
学校の先生になっても人気だろう
冷静で知的で、ユーモアに富み、達観しつつ、生命力に溢れた文章で、一気に虜になってしまった
彼は数度目かの幹細胞移植を終えたばかり、うまく生着することをただただ願う
書籍化された著書、とりあげられたテレビでの報道、そして、SNSでの発信、ブログでの文章力
23歳の若者って、こんなに凄いんだ!と思わされる
絶対に生きて生きて生き延びてほしい!
いつか彼に会って直接聞いてみたいことが山ほどある
実現しますように、私は今ただ見守るだけ
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