匿名こそ自分自身そのものだった

 過去全てにおいて、人に読まれるべきではない文章を書くべきだったんだな。対分人に対する加工があまりに過ぎる。

 同じことを繰り返すが、人に読まれるための分人で文章を書いてしまった。名前を変えたところで仕方のないことだけれど、もっと自分の人に対する分人を捨てたい。捨てたい。捨てたい。捨てたいときはクリープハイプを聴こう。同じ言葉をあの声で繰り返してくれるのが心地よい。
 自分の中から吐き出すことを目的とせず、対外的なイメージを意識して、綺麗な言葉で書こうとするからこうやって苦しくなるし、誤字ばっかりするんだろうな。不要物から不要物って生み出せるんだな、というか普通そうか。今のこれだってまだここにはいない誰かを意識して、本音を自分でしまい込んで安心してる。

 出て行くときは、もう満足したとき。もう充分味わって吸い付くしたから、もういいの。要らないの。馬鹿にしてるつもりじゃないし、勉強ができるわけじゃないけれど、自惚れて表現すると見えなくていいところまで見えるから、一種人を見下して見える。そうしたいわけではなく、なんでこの感情の種類が見えてないんだろう、と思う。

 もっと異端のよりたい。けれど独りよがりになってはいけない。辛くないと文章は書けない。そんなこともない。

 届いてほしい人の言葉は届かず、刺したくない人に言葉は刺さるんだよな。手に入ると結局要らなかったことに気がついてしまうから、一生手に入らない苦しみこそ幸せかもしれない。もしくはそう考えたいのかもしれない。

 以上これら全ての文書の意味はない。これを「虚無」なんて言葉で括られるとするのであれば、あまりの気分の悪さで、今後食べ物を摂取する一切の意味を無くす。

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