通り名はDO IT!! 街で噂の女になる話 vol.2

よし…
よし、よし、非常に良し!

私はその時、鏡を見ていた。
場所は小倉にある東映会館のマリークアント。
派遣勤務で懐が暖かくなった私は、今まで東京にいた時はできなかった、消費による快楽を知り始めていた。
そんな折、マリークアントのカラフルなアイシャドーのディスプレイを見て、ふと、お試しのメイクをしてもらったのである。
カラフルなアイシャドーのディスプレイが百貨店のシュウウエムラではなく、マリークアントと言うのが、庶民派から抜けきれない私らしさが出ているのだが、それまでろくに化粧をしてこなかった私は、BAの女の子によってその当時の今風メイクされた自分の顔が新鮮で、非常に良し!となっていた。

時は多分1994頃。
メインストリームではtrfなどが流行っていて、白や青のアイシャドーが施された。
鏡に映る姿は、今までのバンド風というか、アンダーグラウンド好き風というか、要はオリーブ少女に憧れてたけどなりきれませんでした系だった私ではなかった。私はそのtrf風のギャルっぽいメイクが新鮮で、そして、意外とマッチしていてご満悦だったのである。

気を良くした私は、その可愛いBAさんがオシャレさんだったので、どんな音楽を聴くか?など質問した。
というか、東京にあったようなDJBARは小倉にあるのか知りたかったのである。つまり、趣味的な繋がりを持つ友人を欲していた。

「えーと…私はロカビリーが好きだけど、ターンテーブルがあってDJイベントとかやってるBARありますよ!色んなジャンルの人がレコードかけてるみたいですよ〜」

「ありがとう」

そこで教えて貰ったのは、小倉紺屋町にあったラブリーカムカム、通称ラブカム。
そこは、私がその後の活動の拠点となるような店となり、常連となり、ついでに結婚パーティーまでやった。

ラブカムは、小林径さんの主催していた渋谷DJbarインクステックを可愛くしたような(なんせインクは天井1面靴の木型がぶら下がってた)店で、
バーカウンターは、カラフルに彩られたボックスになっており、フロアのセンターには海にお魚がプカプカ浮かんでるような装飾が施され、とても可愛いお店だった。
キャパもそこそこあり、イベント時には100人以上入れる位あった。

私が行った時はたまたま店のオーナーがおらず、従業員の男の子が対応してくれた。
そこで、色々おしゃべりしてくうちに私はフリーペーパーを小倉で作りたいと語っていた。音楽活動する人らの表現の場、コミュニケーションの場を作りたいと。
自分でも口にして初めて気づいたのだけど、dictionaryのようなことを北九州市でやりたいと思っていたのだ。

その男の子は、非常に乗り気になってくれ、その子自身も何か噛みたいと言い何人かのキーパーソンを紹介してくれた。

まずは小倉銀天街にある老舗デニムショップで働く井浦さん。この方は若死にされた。とても熱い兄貴的な人だった。
そして裏原系に詳しいクロちゃん。彼は街に詳しく、何をしてご飯食べてたのか知らないが、同棲している彼女の家には裏原系の人らが羨ましがる様な洋服が沢山あり、室内を何故か靴で生活し、いつも街でウロウロたむろしていた。そして更にハウスのDJやレゲエやってる子なども紹介された。ハウスのDJの子は小倉の飲み屋街の花屋で働いていたが、後に知ったがクスリにハマっていたらしい。
何人か紹介されてわかったのだが、小倉の夜の街は、ちょっとそれると非常に危険なゾーンもあるということだった。
そして、音楽が好きで遊ぶ子達にはジャンル別で派閥があるということ。

そしてそんな中、ようやく、ピタっ!!
とハマる子達を紹介された。

それはエイプリルモデルロケットというバンドをやっていた小西と外山君、またその2人を繋げた男の子だった。

彼らは兎に角ニコニコニコニコしていた。ジャンルはソフトロック、ネオアコ、ソウル、つまり、私が大好きな世界!

フリッパーズのライブ全部行った話をしたら、

それやばいばい!

と、大盛り上がり。

彼から紹介される人々は、外山君の主に属していたアトムエイジというバンドの田川君(後にレコード屋を開店。趣味に偏り過ぎて割と早めに閉店となった)、ドラムのなり君(彼はS村楽器で働いていた)、そして現在もヒッコリー林の名前でバンド活動しているひできち、そしてそして博多で開けば毎回何百人も集めるギタポに強いBLOOMnightを主催していたチャーミング・ギターこと、宮下昌平さん。
米国音楽から3Dツアーズという数バンドが参加しているCDをプロデュースしリリースした森さん。この方が主催するイベントは同じく3Dツアーズという名前で、バンドとDJの構成でそれも賑わっていた。他にも小沢君達がテレビで絶賛していた福岡にもある中古レコード屋田口商店の人、などなど…まだまだ書くと沢山いたけど、皆がDJだったりバンドをやっており、皆レコードを愛しており、私の発案に協力してくれた。

小西と外山君は特に近しく付き合った。
フリーペーパーの名前はDO IT!!にするよ。
と言うと、

ちかっぱいいばい!

と、盛り上がってくれた。

名前も決まったし、後はフライヤー作り。
その頃、写真家田島一成さん(ロッキング・オンJAPANでCHARAやエリさんを撮っていた)の影響で一眼を買っていた私は、印刷会社の仲良しグループの中でとびきり可愛かったユカをモデルに撮影していた。
彼女の写真を起用し、coming soonと明記し、この街から何かを始めよう的な文章を付けフライヤーを刷った。

そのフライヤーは私自身が動いたり、先のクロちゃん達の手によってありとあらゆるスポットに張り出された。
タワーレコード、街のレコード屋、洋服屋、セレクトショップ、雑貨屋…
ユカが街で歩くと、あ!あのチラシの子だ!と話しかけられたと言う。
それくらいあちこちに貼られた。

私は、出会った幾人の中から原稿を頼む人を決め、買いたてのMACで編集していった。
今思えばdictionaryのパクリじゃないか!なのだが、創刊号のテーマはLOVEとし、LOVEをテーマに5枚選曲してもらったり、また、東京から北九州に移り住み、同じ印刷会社でシステム作りを任されていた人にもインタビューした。
彼とも私は仲良しで、もうすぐインターネットという物が公開されるんだと教えてもらっていた。
色んな雑多情報のページには、先の森さんや、今はてなブログで活躍しているモーリにも原稿を頼んだ。
巻頭は、私が今まで読んで魂に響いた文章やフレーズのパッチワーク的な構成にした。
それは岡崎京子さんや小沢健二さんや桑原茂一さんや果ては太宰治まで。
印刷部数は、今思えば無謀だったが確か7000部位を発注した。
そして出版リリースにも向けて動きに動きまくって行ったのであった…




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